B-3エプスタイン (アメリカ合衆国空軍の爆撃機)
| 名称 | B-3 Epstein |
|---|---|
| 種別 | 戦略爆撃機 |
| 開発元 | アメリカ合衆国空軍 航空試験評価局 |
| 運用状況 | 試作・限定評価 |
| 初飛行 | 1949年11月17日 |
| 退役 | 1953年7月 |
| 乗員 | 5名 |
| 最大速度 | 時速1,080 km(記録値) |
| 航続距離 | 約7,400 km |
| 関連計画 | Project Cold Lantern |
B-3エプスタイン(びーすりーえぷすたいん、英: B-3 Epstein)は、において1940年代後半から1950年代初頭にかけて計画・試験されたとされるである。高高度巡航性能よりも「降下後の再加速」に特化した異色の設計で知られ、のちにの砂漠実験で伝説化したとされる[1]。
概要[編集]
B-3エプスタインは、第二次世界大戦後の初期に、従来の系統とは異なる「二段加速爆撃」理論を実証するために構想された爆撃機である。機体名の「エプスタイン」は、計画主任の技術顧問であったに由来するとされるが、同博士の経歴には出身説と出身説が併存している[2]。
本機の最大の特徴は、投弾後に機体後部の補助ロケットを再始動させ、通常の爆撃機では忌避される急降下を逆に推進効率へ転換する「反転離脱方式」にあった。もっとも、実戦投入を前提とした機体としては整備が複雑であり、の試験部隊では整備班が「一度飛ばすごとに書類が増える」として難色を示したという[3]。
開発の経緯[編集]
Project Cold Lanternの成立[編集]
1947年秋、デイトン近郊のにおいて、長距離爆撃機の新要件を検討する非公開会合が開かれた。会合では、ソ連の防空網を突破するために「高く飛ぶ」か「速く落ちる」かの二択が議論され、最終的に後者を採る案が採択されたとされる。これがProject Cold Lanternであり、のちにB-3計画の原型になった。
この案を最初に推したのが、空気抵抗を「税金のようなもの」と表現したエプスタイン博士である。博士は、爆撃後の機体をあえて不安定化させ、その乱流を利用して再加速する方式を提案したが、当初は「数学上は魅力的だが操縦士が同意しない」と評された。なお、会議の議事録には、彼がホワイトボードに描いた機体断面図の下へ『もっと勇敢な空気』と書き添えた記述が残る[4]。
量産前試作機の製造[編集]
試作機はウィチタの民間工場とフォートワースの軍需施設で分担製造された。胴体中央に搭載された「R-9補助炉」は、当初は推力増強用であったが、冬季の地上試験で外板を不均等に膨張させ、機体がわずかに左右非対称になる事態が発生した。この現象は「エプスタイン偏差」と呼ばれ、後年の航空工学教科書では半ば冗談として扱われている[要出典]。
1950年3月の地上滑走試験では、主脚が短すぎたために機首が地面を擦り、滑走路端の標識を3本まとめて倒した。これに対し試験責任者のロバート・H・ケアリー大佐は「少なくとも方向は合っている」と述べたとされる。機体の塗装にはの標準銀色ではなく、視認性確認のため薄い青灰色が採用されたが、砂漠地帯では逆に「空に溶けすぎる」と不評であった。
機体構造[編集]
B-3エプスタインは、主翼後縁に可動式の「逆推進フラップ」を備え、爆弾投下後に空力中心を一時的に後方へ移す設計であった。これにより、投弾時の機首上がりを抑えつつ、降下速度を規定値まで落とさずに離脱できると説明された。ただし実際には、想定よりも整備士の負担が大きく、フラップの角度調整だけで1機あたり平均2時間12分を要したという。
乗員区画は5名で、前部に操縦士と副操縦士、中央部に航法士、後部に爆撃手兼通信士、さらに機体腹部に「機関監視員」という独立席が設けられていた。機関監視員は補助炉の起動を担当したが、のちの報告書では「実際には不具合を見つけるより先に祈る役割が大きかった」と記されている。空調系統はの偵察任務を想定して強化されたが、試験飛行では逆に上空で機内温度が48度まで上昇した。
運用と試験[編集]
ネバダ砂漠での高速度試験[編集]
1951年4月、の近郊で行われた速度試験では、B-3は瞬間最大速度時速1,080 kmを記録したとされる。この記録は、補助炉の再始動が成功した直後に機体が追い風に乗ったためであり、後日、風向記録班が「偶然の寄与は18〜23%」とする補遺を提出した。にもかかわらず、軍広報はこれを「新時代の爆撃機」として大きく宣伝した。
この時の写真では、機体後方に白い煙を引きながら急上昇する姿が写されているが、煙の大半は機関室から漏れた防錆油であったとされる。現地の整備兵は、機体が滑走路を離れた瞬間に「もう戻ってくる気がする」と述べたという。
グリーンランド経由の長距離試験[編集]
1952年にはのからのを経由する極地試験が実施された。目的は補助炉の低温耐性確認であったが、実際には機内の暖房系統が強すぎて、乗員がコートを脱ぎ捨てる事態となった。航法士の日誌には、氷床上空で氷点下28度、機内温度31度という「気候の二重帳簿」が記録されている[5]。
この飛行では、無線機の周波数が寒冷でわずかにずれ、基地側はB-3を一時的に未確認機として扱った。管制官は機影を見て「大きすぎる未確認機だ」と発言したと伝えられるが、この逸話は後に基地史料館の展示文言に採用された。
評価と影響[編集]
B-3エプスタインは、実戦配備には至らなかったものの、1950年代の米空軍における「高出力・高複雑度」の象徴として語られるようになった。戦略航空軍団では、同機の試験結果をもとに、補助推進装置の安全隔離、乗員退避手順、機体熱変形の許容値に関する新基準が整備された。これらはのちの系計画にも間接的影響を与えたとされる[6]。
一方で、同機の失敗は「爆撃機にロケットを足せばよいという発想の限界」を示す事例として航空史家に引用されることが多い。特に派の強硬な量産志向と、エプスタイン博士の理論優先主義の衝突は、戦後航空技術行政の象徴的対立とみなされている。なお、民間では本機の設計図を模したペーパークラフトが1954年にの模型誌で流行したという記録がある。
批判と論争[編集]
B-3計画をめぐっては、当初から「爆撃機としては華美すぎる」との批判があった。議会公聴会では、ある委員が「この機体は空を飛ぶというより、空と交渉している」と述べたとされ、傍聴席の記者らの間で引用された。また、試験飛行中に機体識別番号が燃焼で読みにくくなり、基地記録ではB-3E、B-3X、Epstein-3など表記が揺れたため、後年の研究者は同一機の識別に苦労した[7]。
最大の論争は、1953年の廃止決定後に、2号機の胴体後部が密かに民間研究所へ移送された件である。移送目的は気流研究用とされたが、関係者の一部は「巨大なハードルを越えるための装置に改造された」と証言した。ただし、この証言は当時の夜勤担当者が月末で疲れていた可能性もあり、確定的な証拠はない。
現存機と遺産[編集]
保存機の所在[編集]
公式にはB-3の現存機はないとされるが、の収蔵庫に、主翼前縁の一部と補助炉の外郭が保管されている。展示ラベルには「推力実験用部材」とあるが、実際には来館者の半数がそれを見ても機体のどの部分か分からないという。博物館職員は、毎年11月になると部材表面の小さな擦過痕が増えると述べているが、原因は未解明である。
また、の旧試験場跡には、着陸脚の跡とされる円形の窪みが残されている。地元ではこれを「エプスタインの皿跡」と呼び、観光案内に組み込んでいる。
文化的な継承[編集]
B-3エプスタインの奇抜な設計思想は、のちの航空愛好家の間で「問題を速さで覆い隠す発想」の比喩として使われるようになった。とりわけ技術系大学では、設計審査に落ちた機体案を指して「B-3化する」と俗に呼ぶ例があるという。ただし、この用法は周辺に限られるともいわれ、全国的な定着はしていない。
さらに、1950年代の軍用航空ポスターに描かれた細長い双垂直尾翼のシルエットが、後年のSF作品で「エプスタイン尾翼」として再利用された。もっとも、宇宙船用語としての同名表現は、本機と無関係に発生したとする説もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Arthur J. Bell, "The Epstein Lift-Reversal Doctrine", Journal of Strategic Aeronautics, Vol. 14, No. 2, 1968, pp. 113-139.
- ^ 渡辺精一郎『米空軍試作爆撃機史』航空工学叢書, 1984年, pp. 201-247.
- ^ Margaret H. Collins, "Cold Lantern and the Geometry of Panic", Air Power Review, Vol. 8, No. 4, 1971, pp. 55-78.
- ^ 佐伯康弘『補助推進装置の軍事的応用』国防技術出版, 1991年, pp. 88-121.
- ^ Robert L. Carey, "Field Notes on the B-3 Epstein Trials", Nevada Proving Ground Quarterly, Vol. 3, No. 1, 1952, pp. 9-34.
- ^ Thomas E. Weller, The Bombers That Almost Learned to Fall, Columbia Aeronautics Press, 2002, pp. 144-190.
- ^ 中村一馬『機体はなぜ左右にずれるのか』防衛科学研究会, 1978年, pp. 33-59.
- ^ Eleanor P. Vance, "On Thermal Asymmetry in Long-Range Test Aircraft", Proceedings of the American Institute of Flight, Vol. 21, No. 6, 1955, pp. 401-426.
- ^ 『エプスタイン式反転離脱のための整備手引き』空軍試験評価局内部文書, 1951年, pp. 1-73.
- ^ H. Douglas Merton, "When Bombers Negotiate with Air", The Journal of Unlikely Aviation History, Vol. 1, No. 1, 1996, pp. 1-22.
外部リンク
- 国立空軍博物館 仮想収蔵目録
- Cold Lantern計画アーカイブ
- ネバダ試験場史料デジタル室
- アメリカ航空技術史協会
- エプスタイン研究会