ShoyoFILMS
| 名称 | ShoyoFILMS |
|---|---|
| 読み | しょうようふぃるむず |
| 初出 | 1912年頃 |
| 提唱者 | 庄代 恒一郎 |
| 活動拠点 | 大阪府堺市・神戸市・東京都中央区 |
| 主な用途 | 映画フィルムの再編集、保存修復、上映版再構成 |
| 標準規格 | SF-7型カット配列 |
| 関連団体 | 庄代映画保存協会 |
| 略称 | S-FILMS |
ShoyoFILMS(しょうようフィルムズ)は、を拠点とする日本の映像保存・再編集技法、およびそれを実践する編集集団である。20世紀初頭のの保存修復を目的として成立したとされ、のちにの“再上映可能化”を標榜する独自規格として広まった[1]。
概要[編集]
ShoyoFILMSは、劣化したの断片を再配置し、上映時間を維持したまま物語の連続性を回復するための手法として語られている。一般には単なる修復技術と誤解されがちであるが、実際には映像の欠落部分を「観客の記憶で補完させる」ことまでを含む、半ば儀礼的な編集体系であったとされる。
この方式では、切断面の角度、スプライスの糊残り、映写機の回転数差などが厳密に記録され、一本の作品に対して平均で14.7回の再編集が行われたという。なお、の『港の白昼夢』復元版では、失われた約3分18秒を補うため、実写の港湾労働風景と、当時のの時刻表を重ねる独特の処理が採用された[2]。
また、ShoyoFILMSは単なる技法名にとどまらず、後年には「再編集されたフィルムそのもの」を指す作品分類語としても使われた。これにより、保存版、上映版、教育版の三系統が生まれ、の旧試写室ではそれぞれ別料金で貸し出されていたとされる。
歴史[編集]
成立期[編集]
起源は末期の堺港近くにあった写真館「庄代堂」に求められることが多い。創設者のは、欧州から輸入された映写機の歯車が湿気で噛み合わなくなる問題に悩まされ、ごろ、フィルムを意図的に短冊状に分割して別順に繋ぎ直す方法を編み出したとされる。
この発想は、当初は「乱暴な補修」として嫌われたが、同年夏にの寄留外国人向け上映会で試験上映が行われたところ、観客がかえって物語に没入したため注目された。庄代は翌年、の紙面で「断片の方が記憶に残る」と語ったと伝えられているが、当該記事は一部研究者から要出典とされている。
規格化と拡大[編集]
後期になると、庄代の弟子であるとが中心となり、カット番号、補助字幕、暗転長を統一したSF-7型が策定された。これにより、異なる撮影所で作られた断片でも互換的に再上映できるようになり、の小劇場群からの港湾倉庫上映まで広く普及した。
には、の外郭組織とされた「映画再構成指導室」がShoyoFILMSを準公認し、地方巡回の検閲済みフィルム整理に採用したとされる。ただし、指導室の公文書にはShoyoFILMSの語が直接現れず、代わりに「庄代式断片整列法」と記されているため、同一技術かどうかをめぐって論争が続いている。
戦後の再評価[編集]
戦後、焼失した劇場の代替文化としてShoyoFILMSが再評価され、にはの臨時研究会で「喪失した尺をどう扱うか」という議題が設けられた。ここで、映像の欠損を欠落のまま残す案と、意図的に再構成する案が対立し、最終的に「上映の責任は観客の想像力と分担されるべきである」とする折衷案が採択された。
一方で、にはテレビ放送の普及によりShoyoFILMSの需要は急減したが、逆に学術用途が増えた。とくにの旧資料室では、講義用に「わざと1コマ欠けた版」を作る慣行があり、学生が欠落箇所を推理する試験が課されていたという。
技術[編集]
ShoyoFILMSの基本工程は、(1) 欠損箇所の推定、(2) 残存フレームの色調補整、(3) 音声の再同期、(4) 物語の補綴、の四段階からなるとされる。特に補綴工程では、失われた台詞を字幕で復元するのではなく、別カットの表情を0.8秒ほど長く見せることで「言葉にならなかった感情」を補う手法が重視された。
標準では、1巻あたりの再接着点は平均23か所、カット間の黒味は最短で6フレーム、最長で41フレームとされた。これは映写機の個体差を吸収するためであり、の旧映画館「三条菊水座」では、上映前に必ず回転軸の摩耗値を測定する係員がいたという。
なお、ShoyoFILMSには「逆再構成」と呼ばれる派生技法があり、結末から順に断片を並べて観客に先に結果を見せることで、かえって因果関係を強化する狙いがあった。もっとも、これは1940年代の一部資料にしか確認されず、後世の編集者による誇張である可能性も指摘されている。
社会的影響[編集]
ShoyoFILMSは映画保存の技術であると同時に、災害記録や家族史の再構成にも応用された。たとえばの後には、被災した劇場の残存フィルムをもとに地域の移動上映会が組まれ、失われた町並みを映像で追体験させる取り組みが行われたとされる。
また、企業広告の分野では、商品説明の一部をあえて欠落させることで購買意欲を高める「余白型コマーシャル」が流行した。これはの若手コピーライターたちが庄代式を模倣した結果とされ、1959年の業界紙では「説明しすぎない広告」が特集された。
教育面では、やの一部ゼミで、ShoyoFILMSを用いたメディア史教育が行われたという。学生は実在しない戦前映画の復元版を提出させられることがあり、これが「史料批判の訓練として有効」であると評価された。
批判と論争[編集]
批判の多くは、ShoyoFILMSが「修復」を名目に原版を勝手に改変してしまう点に向けられた。とくにの『月の旅役者』復元上映では、失われたラスト5分を補うために、庄代映画保存協会が勝手にの舞台転換を挿入し、作品の作者遺族から強い抗議を受けたとされる。
また、学界では庄代 恒一郎の実在性自体を疑う説もある。資料上はの寄贈帳、の同窓録、そしての雑件書類に名が散見されるが、いずれも筆跡が似すぎているため、後年の組織的創作ではないかという見方がある。これに対し支持派は「複数の年代にわたる同一筆跡は、むしろ継承の証拠である」と反論している。
一方で、とされる逸話も多い。たとえば、庄代が失明寸前の映写技師に対し、暗闇でフィルムを触って判別する訓練を施したという話は、もっともらしいが確認できる一次史料が存在しない。
後世への継承[編集]
以降、ShoyoFILMSはデジタル修復の祖型として再解釈され、古典映画の特典映像や版の補遺制作に影響を与えたとされる。特に、画面外の資料を大量に付属させる「過剰補注型パッケージ」は、ShoyoFILMSの精神的継承物として言及されることがある。
にはの市民団体が「庄代式編集ワークショップ」を開催し、参加者312人のうち約4割が、編集よりも“紛失した音を想像する”作業に熱中したという。これが好評を博し、翌年以降はの周辺企画としても採用された。
現在では、ShoyoFILMSは実務技法としてよりも、失われた映像文化をめぐる思考法として参照されることが多い。もっとも、業界関係者の中には、単に「切って貼るのが上手いだけの古い流派」と見る向きもあり、その評価は今なお分かれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 庄代 恒一郎『断片映像の再接着に関する覚書』庄代映画保存協会, 1931.
- ^ 藤村志郎「ShoyoFILMS規格と上映互換性」『映画技術月報』Vol. 12, No. 4, pp. 18-29, 1937.
- ^ 白川ミネ『補綴としての編集――庄代式断片整列法の研究』大阪出版, 1948.
- ^ Harold M. Denton, "Fragment Projection and Memory Completion," Journal of Cinematic Preservation, Vol. 5, No. 2, pp. 101-126, 1954.
- ^ 中井康雄「戦後復元上映における欠損フレームの扱い」『日本映像史研究』第8巻第1号, pp. 44-63, 1962.
- ^ Margaret L. Haversham, The Shoyo Method and Urban Screen Culture, Cambridge Film Press, 1971.
- ^ 庄代映画保存協会 編『庄代式編集入門 202版』堺文化資料館, 1984.
- ^ 佐伯隆二「逆再構成の実践と限界」『映写と記憶』第19巻第3号, pp. 77-88, 1991.
- ^ A. K. Feldman, "The Municipal Archive as Projector," Screen & Archive Studies, Vol. 9, No. 1, pp. 3-17, 2003.
- ^ 大森雪江『失われた尺をめぐる都市文化史』みすず映像社, 2018.
外部リンク
- 庄代映画保存協会 公式記録室
- 堺市映像文化アーカイブ
- 日本断片映画学会
- 関西再構成上映ネットワーク
- 映像補綴資料館