vuijighiihihgihigiy
| 名称 | vuijighiihihgihigiy |
|---|---|
| 種類 | 複合文化建造物 |
| 所在地 | 架空県神鳴市霧見町 |
| 設立 | 1938年 |
| 高さ | 48.6 m |
| 構造 | 鉄骨造・煉瓦貼り・地下2階 |
| 設計者 | 加賀谷清之助 |
vuijighiihihgihigiy(ゔいじぎーひひぎひぎい、英: Vuijighiihihgihigiy Complex)は、にあるである[1]。現在では、とを中心とする観光施設として知られている[1]。
概要[編集]
vuijighiihihgihigiyは、南部のに所在する複合文化建造物である。名称は、地元で古くから行われていた風の鳴りを測る儀礼語「ヴィイギー」に由来するとされ、建物全体が、、の三機能を併せ持つように計画された[1]。
現在では、の地域景観重点施設に準じる扱いを受け、年間約18万4,000人が訪れるとされている。もっとも、来訪者数には併設の売店でを買った客も含まれるとの指摘があり、統計の取り方をめぐっては市議会で一度だけ紛糾したことがある[2]。
名称[編集]
名称の「vuijighiihihgihigiy」は、建設以前から霧見町一帯に伝わっていたという擬音的な祈祷句を、設計者のがそのまま採用したものである。清之助はにを読んでいた際、ローマ字表記の対称性に強い関心を抱き、前半と後半をわずかにずらすことで“風の往復運動”を象徴させたと回想している[3]。
また、地元では長らく「ヴイジギ塔」「ひひぎや」とも呼ばれていたが、の合併以後、案内板の表記が統一され、現在の長大な表記が定着した。なお、役所の担当者が最初の看板を発注する際、印刷所に「見本文字数が多すぎる」と抗議した記録が残っている[4]。
沿革[編集]
建設の経緯[編集]
、は霧見湾沿岸における防風・観測・集会の三用途施設を求め、民間の建築技師に計画を委ねた。清之助は、当初は単なる展望台を提案したが、県の文化課が「沿岸に象徴性のある施設が必要」として、地下に記録室を組み込む案を強く求めたという。
建設はに着工し、鉄骨不足のため一部に古い貨物船の桁材が転用された。これにより内部の一部壁面に海水由来の塩分結晶が残り、完成後もしばらく“潮の匂いが抜けない建築”として知られていた[5]。
戦後の転用[編集]
後、建物は一時的にとして使用され、その後からは地域図書資料館として機能した。この時期に導入された手動式回転床は、閉架書庫の空調補助としても利用され、職員は資料を探すたびに軽い遠心力を感じたと証言している。
には塔頂部に小型の気象観測装置が設置され、風速計が毎分37回以上回転すると館内放送が自動で「今日は見学よりも注意」と流れる仕組みが追加された。ただし、この機能はの落雷事故以降ほとんど使われていない。
保存と再評価[編集]
、老朽化が進んだことから大規模保存工事が行われ、外壁の煉瓦は約63万4,000枚のうち約41%が再利用された。工事報告書では「歴史的整合性の保持のため、わざと一部に補修跡を残した」と記されており、後年この方針が逆に高く評価された[6]。
にはに登録され、現在では修学旅行の定番としても扱われているが、展望塔の最上階がやや狭いため、団体客が同時に呼吸すると床がわずかに震えるという。これは安全上問題ないとされるが、地元ガイドは説明のたびに妙に真顔になる。
施設[編集]
施設は大きく、、、の四区画に分かれている。観測塔は高さ48.6mで、頂部の回転リングが1日に約7.4回転するよう調整されており、建築当初は「回る灯台」と誤解されることもあった。
地下回廊展示室では、霧見町の伝承、沿岸貿易の記録、そして建設時に使われたとされる“鳴るレンガ”が展示されている。鳴るレンガは、乾燥した日に軽く叩くと低い音が出るため人気があるが、学芸員によれば「構造上の副産物にすぎない」とのことである[7]。
風鳴講堂は収容人数214人で、壁面がわずかに湾曲しているため、演説よりも合唱や朗読に向いているとされる。なお、にここで開催された町内音楽祭では、出演者が全員同じタイミングで咳払いをした結果、天井の共鳴板が外れ、以後「咳は拍手の前にするな」と書かれた注意札が残された。
交通アクセス[編集]
最寄り駅はので、徒歩約11分である。駅から施設へ至るは、かつて海霧の侵入を防ぐために敷かれた石畳を一部残しており、雨天時は足元よりもむしろ案内板の湿気が問題になる。
また、からは観光用の小型バスが1日4往復運行されている。終点の停留所名は「vuijighiihihgihigiy前」であるが、バス車内放送ではうまく発音できないため、運転士が毎回「次は、あれです」と告げるのが慣例となっている。
文化財[編集]
vuijighiihihgihigiyはにに指定され、には外周の石垣と回転機構が相当の評価を受けたとされる。特に、塔体を支える基部の「三重補強環」は、初期の沿岸建築における珍しい設計として保存対象になった。
一方で、保存審議の際には「名称が長すぎて文化財台帳の欄に収まらない」との理由で、事務局が手書き補助票を別添した記録が残る。これは後年の研究者によって“行政文書としての美学”の一例と位置づけられているが、別の研究者は単なる字数制限の敗北だと評している[8]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 加賀谷清之助『沿岸回転建築論』神鳴文化研究所、1939年。
- ^ 三浦芳太『霧見町の風と塔』架空県郷土史叢書、1955年。
- ^ Margaret L. Thornton, “Rotating Civic Monuments of the Pacific Rim,” Journal of Invented Architecture, Vol. 12, No. 3, pp. 44-71, 1978.
- ^ 佐伯みどり『戦後施設転用の地方史』港北書房、1966年。
- ^ Kenji Arakawa, “Subterranean Corridors and Municipal Memory,” Bulletin of Urban Heritage Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 101-129, 1989.
- ^ 神鳴市文化財保全課『vuijighiihihgihigiy保存修理報告書』第4巻第1号, pp. 5-88, 1995年。
- ^ 小野寺実『鳴る煉瓦の音響特性』東海建築学会誌、第31巻第7号, pp. 233-240, 2002年。
- ^ H. P. Ellsworth, “Administrative Labels and the Limits of Typography,” Civic Records Quarterly, Vol. 19, No. 1, pp. 1-17, 2008.
- ^ 架空県教育委員会『文化財台帳補助票集成』第2巻, pp. 14-19, 2012年。
- ^ 田中れんげ『回る塔、止まる行政』霧見出版、2016年。
- ^ Ludwig Ferne, “The Vuijighiihihgiy Effect in Coastal Public Buildings,” Northern Review of Structural Folklore, Vol. 5, No. 4, pp. 77-95, 2020年。
外部リンク
- 神鳴市公式観光アーカイブ
- 架空県文化財データベース
- 霧見町郷土研究会
- 沿岸回転建築保存ネットワーク
- vuijighiihihgihigiy友の会