お立ち台で俳句を詠む姥俳人
| 名称 | お立ち台で俳句を詠む姥俳人 |
|---|---|
| 別名 | 壇上吟詠、温泉姥俳句、立句舞 |
| 発祥 | 1978年ごろ、静岡県熱海市の旅館宴会場 |
| 主な担い手 | 60代後半以上の女性俳人 |
| 使用器具 | 木製お立ち台、紅白幕、拍子木 |
| 代表的主催団体 | 全国姥俳人連盟 |
| 盛期 | 1983年 - 1991年 |
| 関連地域 | 東京都、静岡県、長野県、愛媛県 |
| 禁則 | 三段以上の連続昇壇は禁止とされた |
お立ち台で俳句を詠む姥俳人(おたちだいではいくをよむうばはいじん)とは、後期の運動から派生した、内の催事場や温泉観光地で行われる即興詠吟の一形態である。主に高齢女性が状の壇上に上がり、観客の拍手に合わせて五七五を唱和する芸能として知られている[1]。
概要[編集]
お立ち台で俳句を詠む姥俳人は、俳句の口誦性と演芸性を強調した日本独自の舞台文化である。通常の句会と異なり、発句は必ず一度お立ち台に上がってから朗読され、最後に観客の掛け声を受けて着地する形式が採られた。
この形式は、の温泉旅館で行われた余興が起点とされるが、のちに周辺の一部編集者によって「高齢者の自己表現を再評価する運動」として整理された。もっとも、初期資料の多くは宴会記録と町内会誌に限られており、成立史にはなお不明な点が多い[2]。
歴史[編集]
発祥と初期の定式化[編集]
通説では、夏、の老舗旅館「浜見楼」で行われた納涼句会において、当時72歳の投句者・が卓上に上がって句を読み上げたのが始まりとされる。旅館側が急遽、宴会用の木箱を三つ重ねて即席の壇を作ったところ、参加者が異様に盛り上がり、その夜だけで17句がすべて「昇壇句」として扱われたという[3]。
翌にはの観光土産会社が移動式の折りたたみ台を製造し、これが「お立ち台」と呼ばれるようになった。台の高さは当初42センチメートルであったが、俳句の切れ字を強調するためとして46センチメートルに改訂され、以後この寸法が業界標準になったとされる。なお、同社の技術報告書には「踵の接地時間が0.8秒短縮」との記述があり、俳句との関係は不明である[4]。
普及と連盟の成立[編集]
にはがの貸会議室で結成され、会長には元国語教諭のが就いた。連盟は「壇上は人格の増幅装置である」とする綱領を掲げ、昇壇時の礼法、句詠時の手拍子の回数、下壇後の湯呑みの置き方まで細かく規定した。
最盛期のには、加盟旅館数が全国で214軒、定期的な昇壇句会が月間63回に達したとされる。特にの保養所では、紅葉期に1日12回の連続公演が行われ、観客の7割が句を暗記して帰ったという記録が残る。ただし、これらの数字は連盟機関誌と宿泊客アンケートの平均値が混同されている可能性がある。
衰退と再評価[編集]
に入ると、バブル景気の終焉とともに宴会芸としての需要が減少し、若年層には「高級感のある町内会芸」として受け止められるようになった。加えて、の地方特番『湯けむり五七五』が放送中に台本を取り違え、姥俳人を「足湯に浸かりながら詠む人々」と誤紹介したことが混乱を招いたともいわれる。
一方で、以降は高齢者文化研究の対象となり、演芸資料室やの一部研究者が、舞台における身体性と短詩の関係を再評価した。2016年にはで記念公演が実施され、現存する旧型お立ち台3基が文化財扱いで展示された。
様式と作法[編集]
姥俳人の昇壇作法は、一般の句会よりも演劇的である。まず左足から台に上がり、観客席の最奥を一礼した後、右手で扇子を半開きにして一句を置くとされる。
代表的な禁忌として「句中で台の高さに言及してはならない」「下句の前に拍手を求めてはならない」「月を詠んだ句の直後に浴衣の裾を直してはならない」の三則があり、違反者には一時的な“脇席降格”が科された。もっとも、1986年の規定改定で、軽微な違反は「味わい」として許容されるようになり、ここから即興性が一気に増したとされる。
また、連盟公認の台詞には「今日は句が高い」と「腰は低くとも句は高く」があり、前者は賞賛、後者は自虐の定型句である。いずれもの温泉宿で生まれたとする説が有力であるが、実際には複数の宿で同時多発的に使われていた可能性がある。
社会的影響[編集]
姥俳人は、高齢女性の発言権を舞台上で可視化した点で評価される一方、宴会文化における「席順の逆転」を促したことでも知られる。従来、上座に座るのは地域の有力者であったが、姥俳人公演では句の評価がそのまま上座権に反映されるため、自治会長が補助椅子へ退く事例が相次いだ。
さらにには、関係者が「足腰の鍛錬と短詩教育を兼ねる」として一部施設への導入を検討したと報じられた。これにより、老人ホームのレクリエーションとして広まった地域もあるが、踊り場の手すりにお立ち台を固定してしまい、撤去に半日かかったという逸話が残る。
文化人類学の分野では、姥俳人が「沈黙しがちな高齢者に、句の長さに等しい発話時間を与えた」として引用されることが多い。ただし、実際の公演では観客の笑い声が大きすぎて句意が半分しか伝わらなかったとする指摘もある。
批判と論争[編集]
批判の中心は、俳句本来の静謐さを損なうのではないかという点にあった。の一部会員は、壇上での誇張された所作が季語よりも拍手を優先させるとして反発した。また、1988年の雑誌『文芸と湯気』は、姥俳人が観光消費に回収されていると論じ、以後しばらく論争が続いた。
一方で、連盟側は「静かであることと、静止していることは同義ではない」と反論し、むしろ舞台化によって句の密度が増したと主張した。なお、同年に開催されたの大会で、ある参加者が一句目の途中で足を滑らせ台から降りてしまい、それが「自由落下の切れ」として満場一致で優勝した事件は、批評史上しばしば引き合いに出される。
代表的人物[編集]
初期の代表的人物としては、創始伝承に登場するのほか、連盟初代会長の、台詞整備を担当した国語学者のが挙げられる。とりわけ佐伯は、昇壇の際に発せられる「よっこいしょ」を切れ字の一種として分類しようとしたことで知られ、学会では賛否が分かれた。
また、地方巡業の名手としてがいる。彼女はの冬季公演で、吹雪の音を季語として取り込むために窓を二枚だけ開ける演出を行い、結果として客席の3分の1が風邪をひいたという。しかし翌日の新聞は「一句で雪を呼ぶ」と好意的に報じた。
1990年代後半には、孫世代の「二代目姥俳人」を名乗る者も現れたが、年齢条件が曖昧だったため、連盟は「おばあさんらしさは戸籍ではなく所作に宿る」として審査基準を設けた。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 荒井澄江『壇上に咲く五七五—姥俳人運動史』俳文社, 1994.
- ^ 佐伯達三『切れ字と足運びの民俗学』国語資料出版, 1989.
- ^ 森下きよ『浜見楼句会覚え書』熱海文化館, 1981.
- ^ 小松原ふみ『雪窓の一句—巡業記録1968-1998』信濃書房, 2002.
- ^ Y. Tanaka,
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外部リンク
- 全国姥俳人連盟アーカイブ
- 熱海民俗芸能資料室
- 俳壇舞台化研究会
- 昭和宴会文化データベース
- 湯けむり五七五放送史資料館