お鎮鎮
| 行事名 | お鎮鎮 |
|---|---|
| 開催地 | 新潟県上越市(須賀輪神社・直江津一帯) |
| 開催時期 | 12月上旬(大凪の日) |
| 種類 | 鎮め祈願・家内安全・海の豊漁を祈る年中行事 |
| 由来 | 津波の鎮静を願う“鎮鎮の笛”に由来するという説 |
| 主催 | 須賀輪神社祭礼奉賛会(通称:鎮鎮講) |
(おちんちん)は、のの祭礼[1]。より続くのの風物詩である。
概要[編集]
は、が中心となってで行われる、冬季の鎮め祈願祭である。行事名は、声に出して唱えると“波が落ち着く”と信じられ、地域では「悪さを鎮め、縁を鎮め、最後に家の火を鎮める」ものとして親しまれている[2]。
祭礼当日は、海辺に向けて太鼓と鈴が交互に打たれ、最後に甘い米飴を煮詰めた蜜が振る舞われる。なお、蜜の煮詰め度合いは毎年“22手目”で止めるとされ、地元の和菓子職人の間では半ば儀礼化している[3]。
名称[編集]
「お鎮鎮」は敬称の「お」が付いた形で、漢字表記は資料によって揺れるとされる。祭礼要綱では「鎮鎮(ちんちん)」と記される一方、口承では「鎮め鎮め(しずめしずめ)」の圧縮語であるとも説明されている[4]。
地元の語りでは、この言葉が潮風の中で響くほど、海が静まるという“音響神話”が語られてきた。特に祭の前日、の港倉庫群を歩いて回る「鎮鎮巡回」は、誰にも聞こえないほど低く唱えるのが作法とされ、これに失敗すると「翌朝の霜が五分だけ多い」などの言い伝えが残っている[5]。
また、外来者には一種の滑稽さがある語として扱われることもあるが、祭の継承者は「笑いは波に似ている。寄せては引くが、引く側を選ばないと呪いが残る」と述べ、表向きは否定しつつ内心では気にしていると記録されている[6]。
由来/歴史[編集]
発端と“鎮鎮の笛”[編集]
由来は、中期の港町に遡るとされる。上越地方の史料群では、ある冬、海からのうねりが“三度だけ”陸に寄り、住居の戸締りが間に合わなかった夜があったとされる[7]。
この夜、漁師の一人である渡辺精之助(わたなべ せいのすけ)と、の神職補佐であった梅津和助(うめつ わすけ)が、古い灯台の金具から笛を削り出し、波の高低に合わせて三段階の音階を吹いたという。後にこの笛は“鎮鎮の笛”と呼ばれ、吹き終えた瞬間、波が「引き(ひき)が七寸」「戻り(もどり)が一尺二寸」に収まったと伝わる[8]。
さらに、当時の台帳には、笛の材料となった金具の数が「27片」と記載されているとされるが、写本の系統によっては「29片」ともあり、どちらが正しいかは祭礼での“口上”によって左右されるとも指摘されている[9]。この食い違いこそが、祭の“本物らしさ”を支えているという見方もある。
近世から近代への再編[編集]
以降は、疫病流行の年に祈祷が濃縮され、は単なる海の鎮めから「家内の火伏せ(ひよけ)」へと重点が移ったとされる。特にの災害記録では、火事の発生件数が年間で「3,142件」、そのうち“空き家由来”が「112件」とする集計が引用されており[10]、この数字が神社側の説得材料になったという伝承がある。
ただし当時の火事統計は全国単位の集計であり、だけを切り出した根拠は薄いとする批判もある。にもかかわらず、奉賛会は「鎮鎮は波だけでなく、灯りのゆらぎを鎮める術である」と唱え、祈祷の対象を拡大する方針を固めたとされる[11]。
近代化で交通が整うと、港倉庫群の巡回は徒歩から馬車(のちに自転車)へ変わり、参加者が道端で歌う“鎮鎮歌”の旋律は、内の音楽学校の合唱譜に寄せた形で統一されたと記録されている[12]。
日程[編集]
は12月上旬、天候が“静止”を示すとされる「大凪(たいなぎ)の日」に合わせて行われる。例年は、とが重なる前後2時間を目安として定められ、神社の掲示板では「海面のささ波が白くならぬ時刻」を基準にすると説明される[13]。
祭礼は基本的に三段階で、前夜の「低唱(ていしょう)」、当日の「笛打(てきだ)」「蜜止め(みつどめ)」、翌朝の「返礼(へんれい)」で構成される。なお、蜜止めの“22手目”は必ず時計を見ないで数えるとされ、見てしまった人は「数が十の位で迷子になる」などの言い回しが残っている[14]。
各種行事[編集]
当日はまず、の境内で鈴と太鼓が交互に鳴らされ、「鎮鎮の十六拍」と呼ばれる一定の拍が打たれる。拍子は16回ごとに一息入れる作法であり、息継ぎの長さは“氷が指先に触れてから3数”とされる[15]。
続いて行われるのが「海門(うみもん)奉納」である。神社の横から海へ向けて、長さ3間(約5.4メートル)ほどの縄を張り、参加者が縄をくぐると波が門の向こうへ押し返されると信じられている。ここで縄をくぐる順番は、年齢ではなく「家の火のにおいが弱い順」だとされ、審査は神職の鼻で行うとされる[16]。
夜には、灯台の模造灯が消えたり点いたりを繰り返し、その周期が「鎮鎮の笛」と同期するとされる。最後に行われる「蜜止め」では、米飴の鍋を「火加減—混ぜ—寝かせ」を合計で33回繰り返し、22手目で火を止める。止めた直後に蜜を一口だけ口の中で“温度計のように”舐め、甘さが舌の奥で広がらなければ「今年は働きが浅い」として追加の祈祷が行われる[3]。この判定は真顔で行われるため、初参加者には強い印象を与えると報告されている[17]。
また、祭の途中で「お鎮鎮紙(ちんちんがみ)」と呼ばれる細長い護符を配るが、これは書き間違えると逆に厄を増すとされ、配布係がペン先を舐めて確認する慣習があるとされる。衛生面の観点から異論は出たものの、奉賛会は「厄は湿気で育つ。乾いたまま触る方が危ない」として従来を守っている[18]。
地域別[編集]
の中心部では、海門奉納の縄は白い麻で統一される。一方、港から少し離れたでは、縄を黒く煤(すす)で染める“煤縄(すすなわ)”が用いられるとされ、色の違いは「煤は夜の影を縫うから」と説明される[19]。
また、内陸の南部では、海へ向けるのではなく、雪囲い(ゆきがこい)に向けて“鎮鎮歌”を歌う形式が残っている。ここでは歌詞の終句を必ず「ちん…」と伸ばす必要があるとされ、伸ばし不足の年は屋根雪の滑りが悪くなるといわれる[20]。
さらに、同じでも祭礼奉賛会の代替わりにより、護符の配布速度が年によって変動する。記録上は「前年の配布者が14名なら、当年は17名」といった単純な増減で整えられる傾向があり、参加者は「神様より人の都合の方が神秘的」と冗談めかして語ることがある[21]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 須賀輪神社祭礼奉賛会『直江津・冬の鎮鎮誌』須賀輪出版, 1934.
- ^ 渡辺精之助『鎮鎮の笛日記(写本系)』上越府文庫, 1892.
- ^ 梅津和助『海門の作法(抄)』須賀輪神職養成所, 1911.
- ^ 新潟県地方史編集委員会『上越地方年中行事の地誌』新潟郷土資料刊行会, 1978.
- ^ Hiroshi Kanbe, “Acoustic Rituals in Coastal Winter Festivals: A Case Study of O-chinchin,” Vol.12, No.3, 『Journal of Regional Myth Studies』, 2009, pp. 41-66.
- ^ Margaret A. Thornton, “Bells, Breath, and Belief: Timing Practices in Japanese Worship,” Vol.5, No.1, 『Ethnomusicology of Everyday Life』, 2016, pp. 88-109.
- ^ 佐藤元太『小さな拍、長い祈り—鎮鎮十六拍の検証—』『民俗音響学研究』第3巻第2号, 2002, pp. 12-29.
- ^ 田中律子『蜜の温度と共同体—蜜止め儀礼の数え方—』『日本食文化季刊』第19巻第4号, 2011, pp. 201-227.
- ^ 上越市『災害記録要約(明治期)』第1集, 上越市役所, 1889.
- ^ R. Watanabe, “Fire Statistics and Folk Explanations in Meiji Coastal Towns,” Vol.2, No.7, 『Reconstructed Archives』, 1998, pp. 1-15.
外部リンク
- 鎮鎮講 公式記録庫
- 須賀輪神社 季節行事アーカイブ
- 上越民俗音響研究会
- 冬の蜜止め研究サロン
- 海門奉納フォトレポート