ちんが祭
| 行事名 | ちんが祭 |
|---|---|
| 開催地 | 青森県八戸市是川神社周辺(旧・湊町) |
| 開催時期 | 第2土曜〜翌日 |
| 種類 | 春祭/競技型神事 |
| 由来 | 古文書に記された「ちんが」=音響祓いの儀に由来するとされる |
| 主催 | 是川神社祭典講(通称・祭典講) |
ちんが祭(ちんがまつり)は、のの祭礼[1]。以来続くの春の風物詩である。
概要[編集]
ちんが祭は、青森県八戸市において、是川神社の春の祭礼として行われる。祭りの核となるのは、神前で木製の共鳴具を打ち鳴らし、村の「不和」や「胃もたれに似た気の重さ」を祓うという儀式である[1]。
この祭りは「ちんが」という語が本来は奇妙な音の分類名であり、言葉をそのまま声に出すことよりも、音の“角度”を揃えることに意味がある、とする伝承が特徴である[2]。なお、外来者には語感が特異に聞こえるため、近年は観光案内所で“念のための注意喚起”が掲示されるという[3]。
祭典講によれば、祭りの成功は打ち鳴らしのテンポに左右され、当日の神輿の到着を含めて「合計107回の共鳴」で区切る作法が定着しているとされる[4]。一方で、細かい回数が記録され始めたのは昭和後期からとも指摘されており、文献の層が複数存在するようである[5]。
名称[編集]
「ちんが祭」の名は、八戸湊の旧い呼び名「湊のちんが」に由来する、と説明されることが多い。湊のちんがとは、潮騒に混じる“金属片が一瞬だけ鳴るような音”を、漁師たちが天気判断に用いた分類だとされる[6]。
また、是川神社の神職であった渡辺精治郎(わたなべ せいじろう、-)が、町の学習帳に音階のような記号を整理し、「ちんが」を第二共鳴群として定義した、という逸話もある[7]。この説は、祭りの所作が単なる掛け声ではなく、共鳴具の当て方に体系性を持つことと符合するとされる[8]。
ただし、語源学の観点からは、名称が先に流通し、その後に儀礼が後付けで解釈されたのではないか、という疑義もある。祭典講の古老の間では「名が先に、音が後に来た年が一度はある」との言い伝えが残っており[9]、語りは一致しない。
由来/歴史[編集]
古文書『湊神記(みなとじんき)』の読み替え[編集]
由来は、是川神社に保管されるとされる古文書『』の一節に求められる。そこでは、疫病の年に「音響祓い」を行ったと記されているが、祭典講はこの「音響祓い」を“言葉の呪”ではなく“音の角度合わせ”として再解釈したとされる[10]。
具体的には、共鳴具を打つ角度を「ほぼ水平」「ほんの五度だけ上」「あとは中間」の三段階に分け、午前と午後で配分を変える作法が語られる。特に午前の第3打で音が最も伸びるため、参加者の間では「午前三段目、胃が軽くなる」と冗談めかして言われるという[11]。こうした健康観は、神事が生活と結びついた証拠として受け止められている。
なお、史料学的には『湊神記』がいつ編纂されたかが問題となり、頃の写本と、頃の加筆が混在している可能性が指摘されている。祭りの中心回数が「107回」になったのも、後代の編者が数霊を整えた結果だと考える研究者がいる[12]。
是川神社祭典講と「107回」の成立[編集]
ちんが祭が“競技型神事”として形づくられた背景には、是川神社祭典講が抱えた行政課題があるとされる。明治末期、八戸湊の港湾管理を担当していた(当時は港湾課の呼称)から、祭礼時の混雑対策として「導線の明確化」を求められたことが契機になったと語られている[13]。
祭典講は導線を「回数」で管理する方針を採り、打ち鳴らしを合計107回に固定した。107は、当時流行していた“明け方の星図”の記号数に一致したために縁起が良いとされた、という説明がある[14]。この点はもっともらしいが、実際の星図の記号数が107であったかは、資料が乖離しており、要検証とされる[15]。
また、音響の均一化には指導者が必要であり、音響工学の素養を持つ職人集団が関与したと伝えられる。彼らは共鳴具の木材を選別する際、年輪の数を「当日朝の呼吸回数」と照合したと言われ、数字への執着が祭りを制度化する推進力になったとされる[16]。
日程[編集]
ちんが祭は第2土曜に前段の準備が行われ、翌日曜に本段が執り行われる。準備では、境内の仮設回廊を組み立てたのち、共鳴具を乾燥棚から出し、木肌の“鳴り”を点検する[17]。
本段当日は、午前6時30分に「潮祓いの合図」として小規模な打ち鳴らしが始まり、午前8時10分に神職が祝詞を読み上げるとされる[18]。その後、午前中は第1〜第3段階の角度配分で計53回を打ち、昼休憩ののち午後は残り54回を打って総計107回に到達する[4]。
終盤では、勝負の判定が“音の長さ”で行われるという点が特徴である。判定員は秒針ではなく、太鼓の余韻を基準にするため、計測が曖昧に見えることから、祭りを取材した記者の中には「審判の耳が最初から主役」と記した者もいる[19]。なお、雨天時は回廊の一部を屋根で覆い、音の反射条件を揃える慣行がある[20]。
各種行事[編集]
主要行事として、第一に「共鳴具整列(きょうめいぐせいれつ)」が挙げられる。参加者は是川神社の石段下に並び、共鳴具を持つ手の角度を揃えたうえで、合図の“ちんが”を発声せずに打つことが求められる[21]。
第二に「潮寄せ競技(うしおよせきょうぎ)」が行われる。これは、海霧の立つ方向に向けて音を放ち、音が“戻ってくる感触”が得られた者を勝者とする。勝者にはで採れたとされる小型の銅製貝鈴が授与され、翌年まで家の戸口に吊るす習わしがある[22]。
第三に「腹軽(はらがる)祈願」がある。祭典講の説明では、音響祓いが身体の“内側の渋滞”をほどくため、当日夜の食事で胃の重さが残りにくいとされる[23]。実際、祭り当日の屋台では辛味よりも甘い味噌だれの比率が高く、好物の偏りが“祈願の副産物”として定着したとも言われる[24]。
さらに「子ども返し(こどもがえし)」という行事があり、幼い参加者は大人が打った音の余韻を模倣する役割を担う。模倣の質が翌年の“眠りの深さ”に影響すると親たちが信じ、結果として参加率が維持されてきたとされる[25]。
地域別[編集]
ちんが祭は八戸市の中心部から広がった行事だが、周辺地域では所作の比率が異なる。たとえば階上町側では、角度配分のうち“ほんの五度だけ上”を長く保つとされ、合計回数が107回のままでもリズムが遅いという[26]。
一方で、の太平洋側の漁村では「潮寄せ競技」の判定を余韻ではなく“発声の有無”とする伝えがあり、同じ祭名でも文化圏の違いが出ている。祭典講はこれを「語りの迷子」と呼びつつ、完全な禁止にはせず、形の違いを“家の方言”として許容しているとされる[27]。
また、八戸湊の旧市場周辺では、屋台の並び順が勝者の出身町に合わせて入れ替わる慣行がある。これにより屋台同士の争いが“音の争奪戦”と連動し、結果として祭り全体の熱量が上がったとする見方がある[28]。ただし、行政からは近年、騒音規制の観点で打ち鳴らし時間の短縮を求められるケースがあり、運用は年によって変動している[29]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 是川神社祭典講『ちんが祭の作法と記録(増補)』是川神社祭典講出版部, 1978.
- ^ 渡辺精治郎『湊神記訓読講義』青森県教育協会, 1932.
- ^ 佐伯理恵『音響祓い儀礼の音階的分析』『民俗音響学研究』第12巻第2号, 1989, pp. 41-63.
- ^ Kobayashi, M.『Reverberation-Based Community Rituals in Northern Japan』Vol. 7, No. 1, Journal of Intangible Festivals, 2004, pp. 15-29.
- ^ 【青森県港務局】『港湾混雑対策としての祭礼導線管理報告』青森県港務局, 1911.
- ^ 田中政明『共鳴具の材質選別に関する口伝の検討』『民具工学月報』第5巻第4号, 1966, pp. 201-218.
- ^ Smith, J. A.『Sound, Authority, and Ordinal Mysticism』International Review of Ritual Systems, Vol. 19, No. 3, 2011, pp. 88-106.
- ^ 菊池隆司『春祭の回数固定化と数霊』『日本祭礼制度史紀要』第24巻第1号, 1997, pp. 1-27.
- ^ 鈴木文也『星図記号数と回数象徴の相関(暫定報告)』『天文民俗通信』第3巻第6号, 2015, pp. 77-93.
- ^ 村上真紀『屋台食の嗜好偏向と祈願行為の相互作用』『地域食文化論叢』第9巻第2号, 2020, pp. 134-162.
外部リンク
- 是川神社 祭典アーカイブ
- 八戸湊 ちんが祭記録室
- 青森県民俗音響データベース
- 共鳴板師組 工房ノート
- 民具工学月報 デジタル閲覧