にょれい
| 名称 | にょれい |
|---|---|
| 別名 | 反り礼、曲応法 |
| 起源 | 18世紀末の長崎通詞圏 |
| 提唱者 | 渡辺宗介、マルガレータ・シュルツ |
| 分類 | 民俗礼法・応答技法 |
| 主要伝承地 | 長崎、東京、神戸 |
| 実践媒体 | 書簡、口頭応答、会合儀礼 |
| 衰退 | 1970年代以降 |
にょれいは、後期にの通詞たちのあいだで用いられたとされる、微細な反りと抑揚のずれを記録するための応答補助法である。のちにの民俗語彙調査で再発見され、中期には一種の礼法として広まったとされる[1]。
概要[編集]
にょれいは、相手の発話の末尾にわずかな上昇調を添え、肯定・保留・謝意を同時に示すとされる日本の応答様式である。現在ではほぼ忘れられた作法とされるが、期の都市中産階級のあいだでは「返事が柔らかくなる」として一定の評価を受けた[2]。
この技法の特徴は、言葉そのものよりも「語尾の置き方」に重きが置かれる点にある。たとえば「承知しました」に対し、息を0.3拍遅らせて「しょうち、しましたにょ」と置く古式が伝わるが、これは後世の口伝が誇張したものともいわれる。なおの旧商家では、商談の成否をにょれいの深さで決めたという記録が残る[3]。
歴史[編集]
長崎通詞圏での成立[編集]
最初期のにょれいは、年間の出島周辺で、通詞の渡辺宗介がオランダ商館員との応酬を円滑にするために考案したとされる。宗介は、相手の語調に合わせて返答末尾だけを僅かに持ち上げることで、相互の警戒を下げる効果を観察したと伝えられるが、同時代史料は乏しく、後年の『旧記』にのみ断片が見える[4]。
この時期のにょれいは、まだ儀礼というよりも通訳上の工夫であった。ところが3年の冬、宗介の弟子が商館内で「にょれいの低い者は嘘をつきやすい」と発言し、これが外交上の簡易信用判定として受容されたことから、技法は急速に制度化したとされる。
明治期の都市礼法化[編集]
20年代になると、にょれいはの女学校と速記講習所で「音の所作」として教授され始めた。とくにの私立女子学院では、来客応対の練習において「目礼・半礼・にょれい」を三段階で教える独自カリキュラムが存在したという[5]。
この普及に関わったのが、国語学者のと、在日ドイツ人音声研究者のマルガレータ・シュルツである。二人はに共同で『応答の音価と社会的摩擦』を著し、にょれいを「日本語話者の対人距離を0.8〜1.2メートル縮める装置」と記述した。なお、この数値は後世の研究者から「やけに精密である」と批判されている。
大正・昭和初期の標準化運動[編集]
末期から初期にかけて、は職員接遇の改善を目的に、にょれいを含む「柔応訓練」を試験導入した。地方庁舎の窓口では、返答の最後を0.5音節だけ持ち上げることが推奨され、失敗した場合は「硬応」として注意票が配られたという。
一方で、の『都市生活と声の作法』には、にょれいの過剰使用が「会話を終わらせない印象を与える」とする批判もみられる。とりわけの貿易商のあいだでは、にょれいが洗練の象徴として流行した半面、交渉が長引きやすくなるため実務では敬遠された。
技法[編集]
にょれいは一般に、語尾の上昇、間の延長、軽い鼻音化の三要素から成るとされる。これらは独立ではなく、会話の相手や場面に応じて割合が変化し、もっとも熟達した者は「上昇2、間1、鼻1」の比率で安定したにょれいを作るという。
古い実践書『』によれば、茶席では短く、商談では長く、弔問では「ほぼ無音」に近いにょれいが望ましいとされる。とくに弔問での使用は難度が高く、の老舗茶舗では毎年11月に「静にょれい試験」が行われ、合格者のみが帳場に立てたという。
また、地方差も大きい。では末尾をやや内向きに落とす「しずにょれい」、では語気を明るく保つ「はなにょれい」が好まれたとされ、同じ語でも印象が正反対になる。研究者の間では、この差異が現代の方言終助詞研究に影響したとみる説がある[6]。
社会的影響[編集]
にょれいは、単なる言語習慣にとどまらず、身分秩序を可視化する装置として機能したと考えられている。役所、商家、学校、寄席などで応答の高さが暗黙の序列を示し、声の抑揚ひとつで「親しいが無礼でない」距離感が測られた。
とりわけ30年代の都市部では、テレビの普及によりにょれいの「見える化」が進んだ。公開収録番組『』では、出演者のにょれいの深さを表示するために画面下に小さな矢印が出る演出があったとされ、これが家庭内での模倣を促したという。もっとも、この番組の実在性についてはが付くことも多い。
その後、企業研修でも採用され、にはの一部講座で「顧客との距離を詰めすぎない礼節」として紹介された。結果として、にょれいは日本独自の接遇技法として海外の礼法研究者の関心を集め、東洋学研究室では「Nyorei Effect」という仮称まで作られた。
批判と論争[編集]
にょれいに対しては、成立当初から「形式が先行しすぎる」との批判があった。特に40年代の言語平準化運動では、にょれいは階層差を温存する旧弊として攻撃され、一部の学校では使用を禁じる試みすら行われた。
しかし一方で、廃止論者の多くが会話をぶっきらぼうにしすぎ、かえって対人摩擦を増やしたことから、にょれいは「やりすぎないための緩衝材」として再評価された。1981年の『声の礼儀と日本人』では、にょれいを完全に否定するのではなく「週に3回までに抑制すべき」と記されているが、著者自身が講演では毎日使っていたとされ、当時の学生からは半ば笑い話として語られている。
なお、のある町内会では、にょれいの有無を巡って自治会長選が二度やり直された記録がある。票差はそれぞれ2票、1票であったというが、当事者の証言は食い違っており、現在も議論が続いている。
衰退と再評価[編集]
にょれいの実践は、以降、電話応答やメール文化の普及によって急速に縮小した。顔や声の微細な抑揚よりも、定型句と絵文字が優勢になったためである。ただし、の『現代礼法白書』では、若年層の間で「文末のやわらかさ」を示す代替表現として機能が残存していると報告された。
には、音声アプリの自動敬語補正機能が「疑似にょれい」を再現するようになり、これが逆に注目を集めた。とくにのIT企業が開発した「Nyorei Voice 2.1」は、会議通話で発言終了時に0.2秒だけ音色を丸める機能を搭載し、導入社内では会議の空気がやや穏やかになったとされる。
今日では、民俗学と音声学の境界領域における珍説の一つとして語られることが多い。もっとも、の一部の老舗では今なお「にょれい帳」が保管されているとされ、研究者が見学を申し込むと、なぜか皆一様に返答が少しだけやわらかくなるという。
脚注[編集]
[1] 佐伯広道『通詞と抑揚の民俗史』, 2007年, pp. 41-58.
[2] 福井久太郎『都市応答論序説』, 1912年, pp. 9-17.
[3] 長崎商家資料編纂会『旧商家口上録集成』, 1968年, pp. 203-206.
[4] 『旧記 第14巻』, 1889年, pp. 88-91.
[5] マルガレータ・シュルツ, 福井久太郎『応答の音価と社会的摩擦』, 1897年, Vol. 3, No. 2, pp. 112-139.
[6] 河合澄江『終助詞と都市感情のゆらぎ』, 1936年, pp. 77-83.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯広道『通詞と抑揚の民俗史』岩波書店, 2007年.
- ^ 福井久太郎『都市応答論序説』中央公論新社, 1912年.
- ^ 長崎商家資料編纂会『旧商家口上録集成』長崎市史編纂室, 1968年.
- ^ 『長崎奉行所旧記 第14巻』地方文書刊行会, 1889年.
- ^ Margaretha Schulz and Hisataro Fukui,
- ^ 『応答の音価と社会的摩擦』ベルリン東洋研究叢書, 1897年.
- ^ 河合澄江『終助詞と都市感情のゆらぎ』勁草書房, 1936年.
- ^ 高瀬真一『にょれいの実践と崩壊』朝日選書, 1984年.
- ^ A. Thornton, Nyorei in Early Urban Courtesy, Vol. 12, No. 4, pp. 201-229.
- ^ 山口一平『声の礼儀作法と近代学校』吉川弘文館, 1959年.
- ^ 斎藤蓉子『微笑と抑揚の社会史』筑摩書房, 2011年.
外部リンク
- 長崎通詞研究所
- 都市礼法アーカイブ
- にょれい保存会
- 日本応答文化資料館
- 東洋音声民俗学会