はんぺん禁止法
| 正式名称 | はんぺん禁止法 |
|---|---|
| 通称 | 白膨法 |
| 管轄 | 内務省衛生局・食料統制臨時委員会 |
| 施行 | 1927年(昭和2年) |
| 廃止 | 1958年(昭和33年)一部失効 |
| 主な対象 | 魚肉練り製品、蒸し製造、学校給食、駅弁販売 |
| 制定理由 | 膨張事故、保存不良、都市景観の悪化 |
| 関連政策 | 白色食品規制、港湾衛生取締、冷蔵庫普及奨励 |
| 通称の由来 | 断面が過剰に膨らむ現象を白膨と呼んだことによる |
| 特徴 | 食品法令でありながら美観規定を強く含む |
はんぺん禁止法(はんぺんきんしほう、英: Hampen Prohibition Act)は、においてのうち、とくにの流通・広告・共同調理を制限するために構想されたとされる法令群である。一般には末期のを契機に成立したとされるが、その成立過程には複数の異説がある[1]。
概要[編集]
はんぺん禁止法は、を中心に問題化したとされるはんぺんの過剰流通と、膨張に伴う事故・苦情を抑制するために整備されたとされる法令である。名目上は衛生法規であるが、実際にはの市場景観、学校給食の統一規格、における荷役の簡素化まで含む広範な統制を目指した点に特徴がある。
法令名に「禁止」とあるものの、全面的に食用そのものを禁じたわけではなく、一定のサイズ以上に膨張したはんぺん、夜間販売用の照明下で白色が強調される商品、ならびに祭礼時に拍子木と同時に売られる形式が重点的に制限されたとされる[2]。このため、実務上は「食べること」よりも「見せること」を規制した珍しい法であったとされている。
成立の背景[編集]
はんぺん禁止法の直接の契機は、にの共同炊事場で発生した「白膨騒動」と呼ばれる一連の混乱であるとされる。蒸籠内で異常に膨らんだはんぺんが蓋を押し上げ、湯気で曇った窓から飛び出して通行人に直撃した事件が、新聞各紙で面白半分に報じられたことが立法の追い風になったという。
また、当時の都市衛生学者であるは、はんぺんが「表面白度に比して内部空隙が多く、都市生活における期待値を不必要に上げる」と論じ、これを社会不安の一種として分類した。もっとも、この理論は後年の研究で「測定器が魚肉に適していなかった可能性」が指摘されている[3]。
一方で、は港湾倉庫での腐敗事故を減らす名目で統制強化を進めており、の仲買人組合との風紀係が協議を重ねた結果、1927年春に試験的な告示が出された。ここで「禁止」という強い語が選ばれたのは、当時の法文起草者が欧州の禁酒法令を過剰に参照したためであるといわれる。
法案成立の経緯[編集]
白膨対策臨時委員会[編集]
、は「白膨対策臨時委員会」を設置し、医師、料理研究家、港湾監督官、さらには所属の構造工学者まで招いて密度試験を行った。委員会は18回にわたり会合を重ね、最終的に「家庭用蒸し器での再現率が高すぎる」として規制対象を広げる方針を採ったとされる。
帝国議会での攻防[編集]
帝国議会では、衆議院議員が「庶民の冬の慰めを奪うものではないか」と反対し、これに対してが「慰めであるならばなおさら数量を控えるべきである」と応じたというやり取りが有名である。議事録上は淡々としているが、傍聴席では練り物商組合が木札を鳴らして抗議していたと伝えられる。
公布後の例外規定[編集]
最終条文には、祭礼供物、病人食、港湾労働者への塩分補給用、ならびに「長さ一尺二寸未満のもの」は例外とする条項が盛り込まれた。このため、実際には全面禁制ではなく、細かな寸法管理を伴う認可制度へと変質した。結果として、各地で「はんぺん秤」と呼ばれる専用の計量器が普及したが、精度が毎年ばらつくため、役所ごとに合格基準が異なった。
運用と社会への影響[編集]
施行直後、では「白物隠し」と呼ばれる抜け道商法が流行した。表面に焼き目をつけた上で内部のみをはんぺんにする、あるいは「かまぼこ」と称して薄く四角く切ることで規制を回避する例が相次いだため、は1930年に「断面監視班」を設置したとされる。
学校給食への影響も大きく、は1932年に「はんぺん代替食指導要領」を通達した。代替として麦粉と卵白を練った「代白球」が配られたが、これが煮るとやや桃色に変化したため、児童の間では「禁白」と呼ばれて人気を博した。なお、栄養学上は元のはんぺんよりタンパク質が少なかったという調査結果が残っている。
また、やの駅弁業者は、弁当箱の白色比率を下げるために漬物を過剰に増やしたとされる。これにより塩分摂取量が増大し、結果として別の健康被害が生じたため、厚生省内では「白を禁じたことで黄と緑が増えた」と総括されたという。
違法はんぺん文化[編集]
禁止法の施行後、裏社会では「夜白」と呼ばれる密造はんぺんが出回った。とくにの倉庫街では、薄い布で包んだはんぺんを「石鹸」と称して運搬する手口が横行し、摘発時に泡立て器まで押収された記録がある。
の寄席では、禁制品を題材にした演目『白いものほど危ない』が人気を集め、客席で本物のはんぺんを食べると通報されるという都市伝説まで生まれた。これに対抗して一部の料亭は、透明な寒天の中に魚肉を極薄で封入した「見えぬはんぺん」を開発し、法解釈の妙味として話題になった。
なお、1941年頃には軍需優先の配給制度と結びつき、はんぺんは「贅沢品」ではなく「整備不能な白色資材」と見なされるようになったため、むしろ禁制の象徴として価値が上がったとされる。これが戦後の闇市での再評価につながった。
批判と論争[編集]
法制定当初から、料理文化への過干渉であるとの批判は根強かった。とくにの食文化史家は、はんぺんは祭礼、病食、漁村の保存食の各機能を持つため、これを単一の衛生危険として扱うのは「魚肉に対する都市行政の過剰な想像力」であると述べた[4]。
一方で、支持派は「白い食品は不安を誘発する」という心理学的議論を展開し、初期の新聞社説でも、白粉、石灰、はんぺんを同列に論じる記事が見られた。ただし、のちにこの理屈は「色彩衛生学」という疑似学問として整理され、ほぼすべての学会で支持を失っている。
もっとも興味深いのは、1950年代の再評価である。冷蔵技術の普及により問題の大半が解消されると、禁止法は「食の抑圧」の象徴として扱われる一方、地方によっては観光資源にもなった。たとえばでは、条例の条文を印刷した包装紙に入れた復刻はんぺんが名物となり、現在も年に約2万4千個が販売されているとされる。
廃止とその後[編集]
、の整理に伴い、はんぺん禁止法の大部分は失効した。ただし、学校施設や港湾検疫に関する一部条項は慣例として残り、形式上は1970年代まで「白膨注意」と書かれた内規が回覧されていた。
廃止後、業界はむしろ規格化を進め、現在では「はんぺん禁止法以前の粗製乱造時代」を再現した商品が土産物として人気である。とくにの一部地域では、直径・厚み・反発係数まで規定した「公認白膨はんぺん」が販売され、毎年冬季に観光客が買い求める。
また、法の名残は言葉としても残り、「はんぺん禁止法みたいだ」という表現は、過剰な規制や細かな口出しを揶揄する比喩として使われることがある。もっとも、実際の用例は40年代の週刊誌記事に偏っており、一般化の程度については議論がある[5]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『白膨と都市衛生』内務衛生研究会, 1928年.
- ^ 松井久子『魚肉加工史序説』東京帝国大学出版会, 1934年.
- ^ Charles H. Fenwick, "On the Prohibition of Aerated Fish Cakes", Journal of Comparative Food Law, Vol. 12, No. 3, 1931, pp. 41-68.
- ^ 大野辰之助『議会における食品統制の語法』帝国行政叢書, 1932年.
- ^ Margaret A. Thornton, "White Foods and Civic Anxiety in Interwar Tokyo", East Asian Regulatory Review, Vol. 7, No. 1, 1949, pp. 5-29.
- ^ 『白色食品規制史料集 第4巻』食糧統制資料刊行会, 1961年.
- ^ 清水義雄『庶民食と法の境界』日本都市文化協会, 1930年.
- ^ Kenji Arakawa, "The Legal Status of Hampen and Similar Spongiform Products", Pacific Journal of Food Ordinance, Vol. 19, No. 2, 1959, pp. 113-140.
- ^ 『横浜港衛生年報 第11号』横浜港務局, 1929年.
- ^ 松井久子『見えぬはんぺんの民俗学』東洋食文化出版社, 1956年.
外部リンク
- 白膨文庫アーカイブ
- 東京食法研究所デジタル年報
- 港湾衛生史料室
- 練り物法令史ミュージアム
- はんぺん規格協会