びんびんば
| 氏名 | びんびんば 中里理 |
|---|---|
| ふりがな | なかざと さとし |
| 生年月日 | 10月14日 |
| 出生地 | 名古屋市 |
| 没年月日 | 3月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | アニメータ |
| 活動期間 | 1963年 - 2008年 |
| 主な業績 | 手描き“振動線”表現の体系化 |
| 受賞歴 | 文化映像賞(第19回)など |
びんびんば 中里理(なかざと さとし、 - )は、のアニメータ。『ビンビンの鼓動』シリーズを生み出したことで広く知られる[1]。
概要[編集]
びんびんば 中里理(以下、中里理)は、のアニメータとして知られる。彼は“音が見える”と評された作画法を確立し、特に電子楽器のように手で「びん、びん」と輪郭が鳴る表現を体系化した。
業界では通称「びんびんば」として呼ばれ、初期作品の仕上げ工程で用いた独自のメモリック・レイヤ(通称「鼓膜紙」)が話題になったとされる[1]。その一方で、本人は「名前は発火装置。絵が燃えなきゃ意味がない」と語ったと伝えられる[2]。
生涯[編集]
中里理は名古屋市の、小さな印刷所の家に生まれた。父は活版職人であり、少年時代に活字の欠けを数えながら遊んでいたという。記録として残るのは、失われた鉛の欠片を毎月17個ずつ集めていたという“偏執的な家計簿”であるとされる[3]。
青年期には、の見習いアニメ工房(実名は当時の契約書により伏せられた)で彩色補助を担当した。ここで彼は、塗りの濃度を色相ではなく「音速の体感」に換算する癖を身につけたとされ、最初は先輩に「何を聞いてるんですか」と笑われたという[4]。
活動期に入ると、の作画スタジオ「映光線画社」で企画・作画の両方を担うようになった。特に1969年に関わった短編『壁の向こうでびんびんする』は、静かな場面でさえ振動線を増やす演出が特徴として扱われ、翌年には工程マニュアル(社内版)に採用されたとされる[5]。
晩年は創作よりも教育に比重を移し、弟子の“線の鳴らし方”を採点するために、独自の尺度「ビビ指数」(1〜100点)を作ったと記録されている。ただし本人は「数値は嘘つく。だから線のほうが先に喋れ」とも言ったとされる[6]。3月2日、内で持病の合併症により死去したと伝えられる。死去時の年齢は71歳とされる[7]。
生い立ち[編集]
彼の学習は、学校の国語よりも家の印刷台帳に影響されたとされる。父が“文字の揺れ”を許さなかったため、中里理は逆に意図的な揺れを研究し始めたという。少年期のノートには「揺れの周期=呼吸、太さ=緊張」といった手書きのメモが残っていたと伝えられる[8]。
また、名古屋市内の菓子店で働く親戚から、焼き菓子の膨らみを観察する作法を学んだとされる。ここでの観察ノートが、のちの“鼓膜紙”に応用されたという見解もある[9]。
青年期[編集]
青年期の転機は、で開催された即売会「彩稿夜市」で出会った老アニメータの助言だとされる。助言は「動きは矢印で描かない。音の縁で描く」と要約され、彼はこの言葉を“線の音階表”として自分で書き直したという[10]。
当時の彼は、1枚の原画に対し鉛筆の硬度を“平均13.6”に揃えようとしていたという、根拠が不明な数字が伝わっている。後年、これが作業の安定には役立ったが、芸術性には逆効果だったと自己批判していたともされる[11]。
活動期[編集]
活動期の中心は、作画工程の“音響化”である。中里理は、線が硬いと音が乾く、線が遅いと音が残るという感覚で、透明フィルムを重ねて試作したとされる。彼の設計したレイヤは、下塗りの上に直接貼るのではなく、仕上げの直前に“鼓膜紙”を挿入する方式だったという[12]。
また、スタジオ内では「びんびんばチェック」と呼ばれる口頭審査が行われ、完成稿を見た瞬間に“びん”と聞こえるかどうかを言語化させる慣行があったとされる[13]。
晩年と死去[編集]
晩年には、作画の若手へ向けた手引き『線が鳴るまで』を私費出版したとされる。発行部数は300部、うち42部は校正用として本人が残したとされるが、真偽は定かではないとされる[14]。
には最後の商業作として『駅前の鳴子(なりこ)』に協力したのち、表舞台から退いた。退いた理由については、健康悪化のほか「音の表現をもう一度壊して作り直したかった」との本人発言が伝えられている[15]。
人物[編集]
中里理は温厚な性格だったとされるが、作画机では几帳面に“沈黙の時間”を守らせたという逸話がある。スタジオには「沈黙10分ルール」が掲示され、線を引く10分間は会話を禁じるとされていた。違反した場合には、本人が罰として消しゴムの粉を袋に回収し、翌日に弟子へ分配したという[16]。
趣味は天体観測だったとされ、特に“瞬き”を記録することに熱中したと伝えられる。望遠鏡で星が瞬く様子を、後年の振動線設計へ転用したという解説もある。なお、本人はその転用を否定し「星は星。線は線」と語ったともされる[17]。
人間関係では、色彩設計の担当者と対立した時期があったとされる。彼は「彩度は音を覆い隠す」と主張し、逆に相手は「音は彩度で守られる」と主張したという。両者の折衷として、彩度を固定し、線幅だけで“びん”の度合いを調整する方式が採られたとされる[18]。
業績・作品[編集]
中里理の代表作として、長編『ビンビンの鼓動』(1976年 - 1979年)と、その派生短編集が挙げられる。シリーズは“静かな主人公”が、街の音に導かれて自分の輪郭を見つけていく物語として知られている。作画面では、音を表す振動線を背景にまで侵入させる演出が多用され、のちに同種の表現を模倣する作品が増えたとされる[19]。
また、短編『壁の向こうでびんびんする』(1969年)は、音のない場面で振動線だけが増えるという逆転構図で注目された。中里理はこの作品で、線の発生頻度を1秒あたり平均7.3本に設定し、以後の“ビビ指数”の基準値になったとされる[20]。
教育面では、前述の“鼓膜紙”を用いる手順をまとめた社内講座が記録として残っている。受講者には修了証ではなく、本人が描いたミニ色紙(署名入り)が配布されたとされる[21]。
後世の評価[編集]
後世では、中里理の作画法は「振動線の言語化」として評価されている。とくに研究者のは、音響的イメージを視覚へ翻訳する技法が、のちの“主観的演出”の基礎になったと論じたとされる[22]。
一方で批判もあり、振動線の多用が“感情の説明過剰”に繋がるという指摘がある。映画評論家のは、作品によっては「びんが先行し人物が遅れる」と評したとされる[23]。
ただし、スタジオ関係者の聞き取りでは、中里理は線を増やすほど“間”を減らしたわけではないとされる。彼は「音が増えるなら、息も増える」と語っており、結果としてテンポ設計に重心が置かれていた可能性が指摘されている[24]。
系譜・家族[編集]
中里理の家族関係は、作風同様に“周辺の音を拾う”方針に特徴があると語られる。父は名古屋市で活版職人をしていたとされ、母は印刷所の帳簿整理を担っていたとされる。兄弟は2人で、長兄は写真現像の技師、次兄は木工所の設計補助だったという[25]。
弟子として知られる人物に、後年「びんびんば派」を名乗ったがいる。レンは中里理の死後も講座を続け、ビビ指数を公開していたとされるが、その詳細は当人しか知らないとされる[26]。
なお、本人の家系図には「びんびんば」が本名ではないことを示す筆跡の違いが見つかったという。これに関しては、契約上の通称として使われた時期と、作品のヒットによって定着した時期が混同されている可能性があると指摘されている[27]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 田邊光夫『音の輪郭——視覚作画の音響化史』東京書籍, 1998.
- ^ 清水岬『間と線の関係(第3版)』映像批評社, 2003.
- ^ 映光線画社編『鼓膜紙手順書:社内版の復刻』映光線画社出版部, 1981.
- ^ 小池ユウ『線が鳴るまで』私家版, 2008.
- ^ Margaret A. Thornton『Animation as Sonic Notation』Kyoto University Press, 2006, pp. 41-63.
- ^ Hiroshi Nakamura「The “Vibration-Line” Technique and Audience Perception」『Journal of Cartoon Mechanics』Vol.12 No.2, 2001, pp. 77-92.
- ^ 佐久間慎一『日本アニメ工程の小数点:1960年代から1970年代へ』工芸出版, 2015, 第1巻第2号, pp. 12-29.
- ^ 『文化映像賞受賞者名簿(第19回〜第22回)』文化庁映像振興局, 1990.
- ^ ビンビンば作画研究会『びんびんばチェックの記録』作画研究会, 2009.
- ^ R. Takahashi『Suturing Time in Hand-Drawn Frames』Blue Lantern Books, 2010, pp. 150-165.
外部リンク
- 鼓膜紙アーカイブ
- ビビ指数研究所
- 映光線画社・作画資料室
- 彩稿夜市の回想館
- 振動線スタジオログ