ほいんへい
| 分類 | 合図語・舞台語(口承) |
|---|---|
| 主な用法 | 掛け声、開始合図、間(ま)調整 |
| 起源とされる場所 | 新潟県中越地方の作業場 |
| 関連領域 | 民俗音声学、舞台技法、労働歌 |
| 伝播経路(仮説) | 鉄道職員の社内講習→町の寄席→学校行事 |
| 表記ゆれ | ほいん平、ホインヘイ、叩きほいん |
ほいんへいは、(音の調子を重視する)民俗芸能の語彙として日本各地で用いられたとされる合図語である。もとは労働現場の段取りを同期させるために生まれ、後に講談や郷土芸能の舞台語へと変容したと説明される[1]。
概要[編集]
ほいんへいは、特定の動作のタイミングを揃えるために発せられる短い合図語として、口承の範囲で語られてきたとされる。主に「開始」「切り替え」「間を均す」といった場面で用いられ、声の高さや息継ぎの長さが重要視されたと説明される。
近世以降、ほいんへいは労働歌のリズムと結びつけて語られることが多くなり、明治期には町の寄席や講談の“舞台の呼吸”を整える言い回しとしても利用されたとされる[2]。このため、単なる語感の遊びではなく、作法としての技術(段取りを聴覚で管理する方法)である点が強調されることが多い。
ただし、用例の記録は方言研究の文献に分散しており、現在のようにひらがなで統一された表記は比較的遅いとする見解もある[3]。結果として、研究者の間では「同一語か、複数の合図語が後からまとめられたものか」が争点になるとされる。
歴史[編集]
労働同期の合図としての成立(作業場起源説)[編集]
ほいんへいの成立をめぐっては、新潟県中越地方の農耕・流通の作業場に起源があるとする作業場起源説が有力である。とくに、稲刈り後の干し場で「足場の移動→荷の積み替え→縄の締め直し」を同時に進める必要があったため、口頭合図が採用されたのだとされる[4]。
この説では、ある大型荷車の運用記録が根拠として挙げられることがある。すなわち、車輪の軸を調整する段取りに「7呼吸」「3叩き」「1半歩」の順序があり、合図語を発するタイミングがズレると縄の結び目が崩れるため、終端の“へ”音を意図的に長く伸ばしたのがほいんへいだとされる[5]。この細部(呼吸数・叩き数・半歩)が後世の創作を誘発し、研究者によっては“儀礼化された民間技術”として整理されている。
なお、作業場起源説に対しては、「音響的に最も聞き取りやすい語として自然発生した」とする反論もある。一方で、同地では『荷綱の点検日誌』に「ほいんへい=結びの角度の揃え」を示す欄があったと記録されているため、単なる偶然ではないとする意見もある[6]。
鉄道職員講習から寄席舞台へ(近代伝播仮説)[編集]
明治末から大正にかけて、ほいんへいが寄席の舞台語として流通した経路として、東京府内の鉄道職員講習が指摘されることがある。鉄道の車内清掃や車両連結の手順では、人員の動きを短い合図で同期させる必要があり、発声の語彙が“標準化”されていったとされる[7]。
特に架空とされるが、日本国有鉄道の教育用小冊子に「呼吸同期語彙表 第2版(明治44年)」があったとする逸話が流通している。その中でほいんへいは「終端音を鋭く切り、次の動作開始を遅延させない」語として採用され、研修では“壁に向かって囁き声で50回”発する訓練が推奨されたとされる[8]。この数字は、後年の郷土史家が「なぜ50回なのか」に答えようとして増幅されたと考えられている。
寄席へは、職員が退職後に町の寄席へ通い、座布団の上で“間(ま)”を指示する隠語として使ったという伝承がある。落語家の弟子が「へ」の音を合図にして障子を押すなど、舞台上の小道具操作と結びついたため、ほいんへいは“段取りを聴覚で操る合図語”として残ったと説明される。
学校行事化と表記の統一(継承と変形)[編集]
昭和期には、地域の学校行事においてリズム合図として取り入れられた例があるとされる。文部省系の通達が直接語彙を指定したというより、地域の青年団が「体操の号令に抑揚を付ける」目的で口伝した結果、表記が揺れつつも“ほいんへい”が残ったと考えられている[9]。
さらに、戦後の放送教材では「ほいんへい」を効果音的に扱う場面があったとされる。ただし、その教材を作成した編集者の名前が複数の資料で食い違い、「渡辺精一郎」という人物名が繰り返し出てくることから、後世の編纂で便宜的に置き換えられたのではないかとする見方もある[10]。
このように、ほいんへいは当初の作業同期の目的から離れ、“わかりやすい語感を持つ儀礼のフレーズ”として誇張されていったとされる。一方で当時の講師資料には「語を変えると遅れる」という注意書きがあり、単なる記号ではなく身体の反応(足幅や肩の角度)と連動していた可能性が示唆されている[11]。
用法と特徴[編集]
ほいんへいの用法は、少なくとも三種類に整理されることが多い。第一に開始合図としての用法であり、集団作業や隊列の動きにおいて「声を聞いた者が先に身体を動かす」設計だとされる。第二に切り替え合図であり、道具の位置換えや役割交代の直前で使われたと説明される。第三に間(ま)調整であり、演目や体操の“遅れ”を吸収する合図だとされる。
音響面では、「へ」の前に短い“のどの詰まり”を作ると遠くまで届きやすいとされる[12]。このため、地方によっては「ほいんへい」を“鼻濁音寄り”にする訓練が行われたとされ、結果として方言差が表記ゆれ(ほいん平、ホインヘイ)として残ったとされる。
また、ほいんへいには“言い切り”の長さに関する細則が語られることがある。たとえば寄席の小道具係では、障子を押し始めるタイミングが0.2秒ずれると舞台の照明が追いつかないため、ほいんへいは「へ」を0.6秒以上伸ばすべきだと口伝されたという[13]。数字があまりに具体的であることが、かえって物語性を強めている。
社会的影響[編集]
ほいんへいの影響としてまず挙げられるのは、合図語が“作業の技術”として扱われた点である。文字どおりに見ると、短い語の発声に過ぎない。しかし実際には、呼吸・身体動作・道具操作が同期される設計思想が共有されたことに意義があるとされる[14]。
また、ほいんへいは人々のコミュニケーション様式にも影響したと説明される。口承の語彙が標準化される過程では、地域の差異が“聞こえ方の差”として吸収され、結果的に共同作業の責任分界が曖昧になったとする見解もある。一方で、合図語が統一されると衝突の原因(誰が先に動いたか)が減り、作業事故が減少したと語られることもある[15]。
さらに、寄席舞台語としての定着は、声のタイミングが芸の質に関わるという考え方を広めたとされる。落語家は「言葉ではなく“間”を売る」として知られるが、その具体的な制御装置としてほいんへいが語られたことで、舞台技法が“記号化”された側面があったとされる。
批判と論争[編集]
ほいんへいに関しては、学術的には記録の乏しさが問題視される。民俗音声学の観点では、同名の語が複数の地域に独立に成立した可能性があり、単一起源説には慎重な態度が求められるとされる[16]。
また、鉄道職員講習経路については、文書の所在が確認できないという指摘がある。『呼吸同期語彙表』に相当する一次資料が見つかっていないため、後世の編纂で作られた“便利な物語”ではないかと疑われている[17]。ただし、講習後に寄席へ流れたという伝承は各地で似た語り口を持つため、完全な創作と切り捨てるのは難しいともされる。
一方で最も有名な笑いどころは、ある批評家が「ほいんへいは本当は“平安の宮廷合図”の残骸である」と断じた点である。その論文では「平」の部分が“食器の位置”を示し、宮廷では儀礼のたびに“3膳目の手前で叫ぶ”とまで述べられた[18]。常識的に無理があるものの、百科事典風の文体で真顔に書かれているため、逆に信じた読者が続出したとされる。
脚注[編集]
脚注
- ^ 鈴木丈一郎「合図語の音響特徴と集団同期」『民俗音声学紀要』第12巻第2号, 1998年, pp. 41-63.
- ^ 田中みな子「労働現場における掛け声の段取り機能」『日本語社会史研究』Vol. 7, 2003年, pp. 105-132.
- ^ Watanabe, Seiiichiro「Rhythm-Control Utterances in Village Work Songs」『Journal of Folk Phonetics』Vol. 19, No. 4, 2011年, pp. 210-229.
- ^ 伊藤幸蔵「中越地方の荷綱点検と合図語」『新潟郷土資料叢書』第3巻, 新潟郷土文化研究所, 1976年, pp. 12-58.
- ^ Kobayashi, Haruka「Stage-Management Calls in Japanese Popular Entertainment」『Asian Theatre Review』Vol. 28, 2015年, pp. 77-96.
- ^ 【日本国有鉄道】教育課「呼吸同期語彙表 第2版(付録:囁き訓練)」『鉄道職員研修資料』第44号, 1915年, pp. 3-19.
- ^ マルグレット・A・ソーントン「Collective Timing and Spoken Cues」『Proceedings of the International Symposium on Rhythm』Vol. 3, 2009年, pp. 55-71.
- ^ 渡辺精一郎「ほいんへいの“へ”音に関する覚書」『声の技法と舞台間』東洋音声出版社, 1962年, pp. 88-101.
- ^ 斎藤勝彦「学校行事におけるリズム合図の継承」『教育民俗学』第5巻第1号, 1989年, pp. 33-60.
- ^ Rossi, Elena「Anomalous Historical Claims in Folk Lexicons」『International Journal of Misinformed Philology』Vol. 2, No. 1, 2020年, pp. 1-9.
外部リンク
- 民俗音声データベース(地域語彙)
- 寄席間研究会アーカイブ
- 新潟中越作業歌資料室
- 鉄道訓練史料館 旧研修ページ
- 口承文化アトラス