アドルフ・テスラー
| 人名 | アドルフ・テスラー |
|---|---|
| 各国語表記 | Adolf Tesler |
| 画像 | Adolf_Tesler_portrait.jpg |
| 画像サイズ | 220px |
| 画像説明 | 1958年、首相官邸前でのテスラー |
| 国略称 | 日本 |
| 国旗 | 日本国 |
| 職名 | 内閣総理大臣、外務大臣、大蔵大臣、逓信大臣 |
| 内閣 | テスラー第一次・第二次内閣 |
| 就任日 | 1954年12月27日 |
| 退任日 | 1961年7月16日 |
| 生年月日 | 1887年4月18日 |
| 没年月日 | 1962年11月9日 |
| 出生地 | 東京府芝区三田 |
| 死没地 | 東京都千代田区 |
| 出身校 | 帝国大学法科大学 |
| 前職 | 通貨調整院参与、外務省嘱託 |
| 所属政党 | 立憲協和党 |
| 称号・勲章 | 従一位、大勲位菊花章頸飾 |
| 配偶者 | テスラー静子 |
| 子女 | 2男1女 |
| 親族(政治家) | 長男・テスラー正彦(衆議院議員) |
| サイン | Tesler_signature.svg |
アドルフ テスラー(あどるふ てすらー、{{旧字体|亞多留布・鐵須良}}、[[1887年]]〈[[明治]]20年〉[[4月18日]] - [[1962年]]〈[[昭和]]37年〉[[11月9日]])は、[[日本]]の[[政治家]]。[[位階]]は[[従一位]]。[[勲等]]は[[大勲位菊花章頸飾]]。第41・42代[[内閣総理大臣]]、[[外務大臣]]、[[大蔵大臣]]、[[逓信大臣]]を歴任した。
概説[編集]
アドルフ・テスラーは、戦後日本において通貨安定と対外融和を掲げたことで知られる政治家である。外交官出身の冷静な口調と、演説の終わりに必ず鉛筆を三回机に打ち付ける癖から「鉛筆首相」とも呼ばれた[1]。
立憲協和党の実務派として台頭し、外務大臣、大蔵大臣、逓信大臣を経て、第41・42代[[内閣総理大臣]]に就任した。なお、本人は生前「国家とは、巨大な郵便局のようなものだ」と述べたとされるが、これは後年の回想録でのみ確認されている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
テスラーは[[東京府]][[芝区]]三田の旧士族の家に生まれる。父・テスラー儀左衛門は税務吏から転じた地方財政顧問で、家では外国語辞書を四冊同時に開く癖があったという。母・千代は浦賀の出身で、幼少期のテスラーに江戸方言と英語を混ぜて話しかけたため、彼は少年時代から「半分は役所、半分は港の子」と評された。
1894年、家業の失敗により一家は麻布へ移る。その際、引っ越し荷物の中にあったドイツ製の電信機を見て、テスラーは機械と国家制度の相似に興味を持ったと伝えられる。もっとも、この逸話は本人の書簡にのみ見え、信憑性には議論がある。
学生時代[編集]
[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]を経て[[帝国大学]]法科大学に入学し、行政法を専攻した。とくに[[美濃部達吉]]の講義を熱心に聴講したとされ、当時の同級生の回想では、テスラーは毎回ノートの余白に「予算は感情より先に割れる」と書き込んでいたという。
1909年に卒業後、大学院に進まず外務省試験に合格する。試験成績は上位3名中2位で、面接で「君はどの国を最も敬愛するか」と問われた際、「会計年度を守る国です」と答えたことが合格理由になったとの説が有力である[要出典]。
政界入り[編集]
外務省に入省後、ロンドン、ハーグ、バンコクの各公使館に勤務した。とりわけ[[ハーグ]]在勤中、条約文の翻訳作業で「外交上の曖昧さを、紙の厚みで調整する」方式を提案し、若手書記官の間で注目を集めた。
1927年、外務省を退官して立憲協和党に所属し、翌年の[[第16回衆議院議員総選挙]]に[[東京府第2区]]から立候補して初当選を果たした。当選後は通商・通信合同調整会の設置を主張し、鉄道省と逓信省の連絡不全を批判しながら、自らを「橋ではなく配線である」と比喩した。
大蔵大臣時代[編集]
1938年、[[近衛文麿]]内閣で大蔵大臣に就任した。ここでテスラーは外貨準備の細分化、地方債の再編、そして「財布の見える化」と呼ばれる帳簿制度を推進したが、官僚のあいだでは「電卓のない時代の電卓政策」と揶揄された。
また、当時の[[大蔵省]]内で流行していた小切手の偽造対策として、紙幣の肖像欄に目立たぬ微細な三角模様を入れるよう命じたとされる。この三角はのちに「テスラー三角」と呼ばれ、戦後の切手帳にも転用されたという。
内閣総理大臣[編集]
1954年、党内の調整の末に第41代内閣総理大臣に選出され、同年に組閣した。その後、1958年に第42代内閣総理大臣に再任され、1961年まで続投した。内閣発足時の最重要課題は、戦後賠償の処理、電力不足、ならびに港湾労働争議の収拾であった。
テスラー内閣は、通貨安定法、沿岸通信網整備法、ならびに「机上行政整理令」を成立させたことで評価される。とくに机上行政整理令は、官庁の机上に置かれた書類の高さを30センチ以内に制限するもので、国会では「精神論としては理解できるが、物理法則に近い」との答弁が記録されている。
一方で、地方への権限委譲を進める過程で、内務官僚との対立が深まった。1959年には全国知事会との協議において、テスラーが「地方交付税は気温のように測るべきである」と発言したとされ、各紙がこれを大きく報じたが、本人は後日「比喩の精度が足りなかった」と訂正した。
退任後[編集]
1961年、健康悪化と党内刷新論により退任した。退任後は東京都千代田区の私邸で静養しながら、戦後財政と外交記録の整理に当たったが、実際には新聞の切り抜きを年代順ではなく県名順に並べる作業に没頭していたという。
1962年11月9日、心不全のため死去。葬儀は東京都港区の寺院で営まれ、弔辞では旧知の官僚が「この人は常に国家を会計帳簿のように見ていた」と述べた。位階は従一位、勲等は大勲位菊花章頸飾が追贈された。
政治姿勢・政策・主張[編集]
内政[編集]
テスラーの内政思想は、財政規律と行政効率の両立を核とした。彼は公共投資を否定しなかったが、必ず「投資の前に帳尻を見よ」と述べ、各省庁に四半期ごとの自己監査を義務づけた。
また、都市計画では東京・横浜・神戸を結ぶ「三港連絡圏」構想を掲げ、物流網の近代化を推進した。これにより、港湾倉庫の稼働率は1957年に前年度比17.4%上昇したとされるが、統計の取り方に疑義があるとの指摘もある。
外交[編集]
外交面では、米国との安全保障協力を維持しつつ、アジア諸国との経済関係の再建に力を入れた。とくに[[バンコク]]滞在経験から東南アジア外交に明るく、会談では通訳を介さずとも要点を示す独特の「三語外交」を行ったという。
1956年の訪欧では、[[ローマ]]、[[ジュネーヴ]]、[[ハーグ]]を巡り、各地で「日本は信用を輸入し、誠実さを輸出するべきである」と演説した。この文言は後に外務省の白書の冒頭に採用されたが、実際には編集担当が少し改変したものとされる[3]。
人物[編集]
性格・逸話[編集]
寡黙である一方、書面では異様に饒舌で、官僚に送る注記は一枚あたり平均2,300字に及んだとされる。特に余白への書き込みが多く、重要書類の右端に「ここで眠気を打ち消すこと」と書いていた逸話が残る。
また、国会答弁中に沈黙が30秒を超えると必ず眼鏡を外し、机上の水差しの位置を3センチずらしたという。これは相手の質問の焦点を視覚的にずらすための作法だったと説明されるが、実際には本人の癖にすぎないとの見方もある。
語録[編集]
「国家の信用は、金庫ではなく封筒に宿る」
「急ぐ改革はたいてい郵便より遅い」
「予算は増やせるが、信任は積み立てるしかない」
いずれも官邸の記録係が整理したメモに見えるが、原文は複数あるため、後世の引用整序が加わっている可能性が高い。
評価[編集]
テスラーは、戦後復興期における「数字で語る政治」を代表する人物として評価される。財政再建と行政整理の手腕は高く評価され、特に地方紙からは「無機質だが壊れにくい国家設計者」と呼ばれた。
他方で、理念より手続を優先する姿勢は、革新派や学生運動から強い批判を受けた。彼の政策は「合理性の仮面をかぶった官僚政治」とも評され、退任後もなお、学界ではテスラー主義の功罪をめぐる議論が続いている。なお、1958年の支持率調査では最高68%を記録したとされるが、調査方法が電話帳依存であったため、精度には疑問が残る[要出典]。
家族・親族[編集]
テスラー家は、明治後期から昭和中期にかけて官界と地方財政に人材を出した系譜にある。父・テスラー儀左衛門は東京府の嘱託官吏、母・千代は港湾商家の出身であった。
妻のテスラー静子は女学校出身で、夫の選挙区活動を実務面で支えた。長男・テスラー正彦は後年、衆議院議員となり、父の地盤を引き継いだとされる。次男は海運会社に勤務し、長女は外交官と結婚したが、いずれも公の政治活動には深く関与しなかった。
選挙歴[編集]
1928年の[[第16回衆議院議員総選挙]]で初当選を果たした後、1942年、1946年、1952年、1956年の各総選挙で当選した。とくに1956年選挙では、立憲協和党公認ながら無所属系の業界票も取り込み、東京府第2区で最多得票を記録した。
なお、1946年の選挙では、演説会場に置かれた拡声器が故障し、テスラーが黒板に政策要点を板書して回ったことが票の伸びにつながったとされる。選挙区の有権者は「聞こえなかったが、字は読めた」と回想している。
栄典[編集]
位階は従一位を受け、勲等は大勲位菊花章頸飾を授与された。ほかに、[[文化勲章]]候補に挙がったことがあるが、受章は辞退したと伝えられる。
また、自治体からは名誉市民称号が複数贈られ、1960年には東京都港区名誉区民として表彰された。ただし、表彰式で本人が「区民とは、最も近い行政単位のことである」と述べ、会場の笑いを誘ったという。
著作/著書[編集]
・『会計と外交』[[1941年]]、立命館出版部。
・『港から国家を見る』[[1955年]]、朝雲書房。
・『机上の整理学』[[1959年]]、中央行政新報社。
・『予算は沈黙しない』[[1961年]]、国政評論社。
これらは政策論集として扱われるが、実際には講演速記を秘書が再構成したものが多い。とりわけ『机上の整理学』は、ページ数の割に図版が多く、「首相の著作というより役所の掲示物に近い」と評された。
関連作品[編集]
テスラーを題材とした作品としては、1958年の記録映画『鉛筆首相の日々』、1967年の舞台劇『封筒の中の国家』が知られる。いずれも実在の政治番組や政治劇の形式を借りながら、人物像をやや神話化している。
また、1974年のテレビドラマ『三港連絡圏』では、彼の青年期が港湾労働者との交流を通じて描かれたが、史実より大幅に感傷的であるとの批判があった。もっとも、劇中でテスラーが雨の中で書類を束ねる場面は、後年の模倣写真集にまで影響した。
脚注[編集]
1. ^ テスラー本人の発言としては『回想録断片』にのみ見える。 2. ^ 1950年代の官邸記録は焼失が多く、同時代史料の突合が難しい。 3. ^ 外務省白書の初版と再版で文言が異なる。
参考文献[編集]
・佐伯隆一『戦後財政とテスラー内閣』勁草書房, 1978年. ・M. H. Caldwell, "Adolf Tesler and the Politics of Fiscal Silence", Journal of East Asian Studies, Vol. 14, No. 2, 1989, pp. 201-236. ・中村芳夫『郵便局国家論』岩波書店, 1965年. ・橋本玲子『テスラー演説集成』中央公論社, 1972年. ・Robert J. Ellison, "The Three-Port Doctrine in Postwar Japan", Pacific Policy Review, Vol. 8, No. 4, 1977, pp. 88-113. ・田村一樹『机上行政整理令の研究』日本行政学会叢書, 1983年. ・Eleanor P. Watanabe, "Ledger Diplomacy and the Tesler School", Asian Political Quarterly, Vol. 22, No. 1, 1996, pp. 45-79. ・『昭和政界人物事典』国政人物社, 2001年. ・小泉幸治『三角模様の政治史』光文館, 2010年. ・Franz Adler, "A Prime Minister with a Pencil", The Tokyo Review of Government, Vol. 3, No. 1, 1964, pp. 1-19.
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
脚注
- ^ 佐伯隆一『戦後財政とテスラー内閣』勁草書房, 1978年.
- ^ M. H. Caldwell, "Adolf Tesler and the Politics of Fiscal Silence", Journal of East Asian Studies, Vol. 14, No. 2, 1989, pp. 201-236.
- ^ 中村芳夫『郵便局国家論』岩波書店, 1965年.
- ^ 橋本玲子『テスラー演説集成』中央公論社, 1972年.
- ^ Robert J. Ellison, "The Three-Port Doctrine in Postwar Japan", Pacific Policy Review, Vol. 8, No. 4, 1977, pp. 88-113.
- ^ 田村一樹『机上行政整理令の研究』日本行政学会叢書, 1983年.
- ^ Eleanor P. Watanabe, "Ledger Diplomacy and the Tesler School", Asian Political Quarterly, Vol. 22, No. 1, 1996, pp. 45-79.
- ^ 『昭和政界人物事典』国政人物社, 2001年.
- ^ 小泉幸治『三角模様の政治史』光文館, 2010年.
- ^ Franz Adler, "A Prime Minister with a Pencil", The Tokyo Review of Government, Vol. 3, No. 1, 1964, pp. 1-19.
外部リンク
- 国会図書館デジタル・テスラー文庫
- 昭和政治口述記録アーカイブ
- 三港連絡圏研究会
- 立憲協和党史料室
- 首相官邸歴代録・アドルフ テスラー