アフガニスタンのユリウス・カエサル
| 氏名 | 阿部 迦才 |
|---|---|
| ふりがな | あべ かさい |
| 生年月日 | 1847年3月14日 |
| 出生地 | 江戸・本所相生町 |
| 没年月日 | 1911年9月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 冒険商人、軍政顧問、翻訳官 |
| 活動期間 | 1871年 - 1910年 |
| 主な業績 | カーブル商路の測量、部族会議の儀礼化、砂漠郵便制度の整備 |
| 受賞歴 | 王立地理協会準金章、カーブル臨時顧問表彰 |
阿部 迦才(あべ かさい、 - )は、日本の冒険商人、軍政顧問。アフガニスタン辺境の交易路再編と「三日議会制」の導入で知られる[1]。
概要[編集]
阿部 迦才は、明治期にからへ渡った日本人の冒険商人であり、現地では「の」と呼ばれた人物である。軍事的征服者ではなく、交易・通訳・儀礼改革を通じて諸部族の均衡を調整したことから、この異名が定着したとされる[1]。
彼の名は、の市場税改定、方面の隊商護衛契約、さらには三日ごとに開かれる臨時評議会の制度化によって知られる。もっとも、同時代の記録には誇張が多く、彼が実際に何を「征服」したのかについては、現在でも研究者の間で見解が分かれている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
阿部は、江戸の本所相生町に、薬種問屋の次男として生まれた。幼少期から算術と地図写本に興味を示し、近所の寺子屋では「半紙を無駄にするほど地名を書き並べる子」と評されたという。父・阿部庄右衛門は、後年の証言で「この子は金勘定より道程を覚える方が早かった」と述べたとされる。
の明治維新後、輸出入業に関わるようになり、横浜の外国商館で英語とペルシア語の片言を身につけた。なお、この時期に彼がオスマン帝国経由の地図帳を入手し、そこから中東への関心を深めたという説がある[3]。
青年期[編集]
、阿部は綿花取引の下調べを名目にへ渡航し、その後方面へ抜けた。同行した英人実業家ヘンリー・W・グレイヴズによれば、彼は砂嵐の中でも帳簿を手放さず、隊商が迷った際には「方位は風ではなく商人の泣き声で読むべきだ」と語ったという。
この時期、彼は地方豪族の仲裁役としても活動し、には近郊で発生したラクダ税紛争を、香辛料36箱と銀貨2,400ルピーを用いた交換条件で収束させたとされる。もっとも、この数字は後年の回想録で増幅された可能性が高い。
活動期[編集]
からにかけて、阿部はを中心に、隊商路の再編と通行証の標準化を進めた。彼が提案した「三日議会制」は、各部族代表が3日ごとに短時間だけ集まり、略奪の禁止区域、井戸の使用順、駐屯地の焚き火の位置まで決めるもので、後世には半ば戯画的な制度として語られている。
また、彼はの測量官と協力し、流域に11か所の中継所を設けた。これにより、従来14日を要した砂漠横断が9日半に短縮されたとされ、商人たちの間では「阿部の石標が見えれば今日の分は終わったも同然」とまで言われた[4]。
晩年と死去[編集]
以後、阿部は持病の発熱と耳鳴りに悩まされ、南方の山荘で半ば隠遁生活を送った。晩年にはペルシア語の詩編注釈に没頭し、現地の若い書記たちに「帝国は地図に描かれるが、税は茶の葉に描かれる」と説いたという。
、で死去した。死因は腸熱と記されることが多いが、私信では「寒暖差の激しい谷間で毎晩同じ靴を乾かし続けた疲労」とする記述もある。葬儀は郊外の小高い墓地で行われ、参列者は日本人2名、商人17名、部族長6名であったとされる。
人物[編集]
阿部は温厚で話術に長けた一方、帳簿の数字が合わないと一晩中眠らない性格であった。彼の蔵書には、、および帳面の余白に書き込まれた自作の航路図が混在していたといわれる。
逸話として有名なのは、にという英国人記者へ渡した名刺の裏に、から京都までの仮想商路を一筆書きで描いた件である。記者はこれを「東西をまたぐ最も無礼で最も実用的な地図」と評した[5]。
業績・作品[編集]
制度改革[編集]
阿部の最大の業績は、現地慣習に合わせて通行税を再編し、部族間の境界紛争を「市場の日程」として管理し直した点にある。とくにに導入された「白布証票」は、綿布の端切れに押印するだけの簡易証書で、偽造が極めて困難だったとされる。なお、白布証票はまで断続的に使用されたというが、実物確認例は少ない。
また、彼はの井戸管理台帳を統一し、水利権を3層に分けて扱う制度を整えた。これにより、夏季の争乱が年平均で27件から9件に減少したとする報告があるが、算出方法は不明である。
著作[編集]
著作としては、『』『』『』などが伝えられる。とくに『』は、1章ごとに「ラクダの機嫌」「茶の相場」「夜間の星の並び」が並列で扱われる異色の実用書で、後世の隊商業者に愛読された。
ただし、現存する版本の多くは以降の写本であり、阿部本人の筆致かどうかは断定されていない。一部研究者は、弟子筋が便覧を拡張し、実務書から半ば叙事詩へ変質させたとみている[6]。
後世の評価[編集]
阿部は、日本では長らく無名に近かったが、後半になると中央アジア交易史の再評価の中で注目された。系の研究では、彼は「帝国の前線にいた協調主義者」として位置づけられることが多い。
一方で、現地では、彼の評価は地域により大きく異なる。ある村では「井戸を守った日本人」として祀られ、別の地域では「税の帳面を増やした男」として警戒されたとされる。この二面性こそが、彼の異名をより的なものにしたという見方もある[7]。
系譜・家族[編集]
阿部の父は阿部庄右衛門、母は千代と伝わる。兄に阿部金次郎、妹に阿部ふさがいたとされ、金次郎は後にで舶来品商を営んだ。阿部は生涯独身であったという説が有力だが、の翻訳助手を妻と呼んだ書簡が残っており、家族関係の解釈には揺れがある。
養子については、にで少年書記を一人引き取ったという記録がある。その少年は後に「アブドゥル・カリーム・アベ」と名乗り、阿部流の帳簿術を各地に広めたとされるが、系譜としての確証は乏しい[8]。
脚注[編集]
[1] 阿部迦才研究会編『砂上の顧問録』東洋史料出版社、1988年、pp. 14-19.
[2] Margaret A. Thornton, “Trade, Tribute, and Three-Day Councils in Kabul”, Journal of Frontier Studies, Vol. 12, No. 3, 1994, pp. 201-227.
[3] 佐伯隆一『明治商人の中央アジア渡航記』北山書房、2001年、pp. 88-91.
[4] Faridullah Khanzada, “The Stone Markers of Helmand”, Afghan Historical Review, Vol. 8, No. 1, 1979, pp. 33-49.
[5] Charles H. Hartley, “A Merchant’s Map with No Mercy”, The Bombay Gazetteer Quarterly, Vol. 5, No. 2, 1893, pp. 7-12.
[6] 山根由美子『写本と実務書のあいだ』港北大学出版会、2012年、pp. 140-153.
[7] Abdul Rahman Sediqi, “Two Faces of Abe Kasai in Provincial Memory”, Kabul Institute Bulletin, Vol. 21, No. 4, 2007, pp. 55-73.
[8] 井上志朗『養子縁組の帝国史』青磁社、1999年、pp. 232-239.
[9] Evelyn C. Moore, “Sand, Ink, and Arbitration”, Proceedings of the Royal Geographical Society, Vol. 41, 1900, pp. 98-115.
[10] 中島真吾『白布証票制度の研究』関西辺境史研究会、2018年、pp. 61-77.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 阿部迦才研究会編『砂上の顧問録』東洋史料出版社, 1988.
- ^ Margaret A. Thornton “Trade, Tribute, and Three-Day Councils in Kabul” Journal of Frontier Studies, Vol. 12, No. 3, 1994, pp. 201-227.
- ^ 佐伯隆一『明治商人の中央アジア渡航記』北山書房, 2001.
- ^ Faridullah Khanzada “The Stone Markers of Helmand” Afghan Historical Review, Vol. 8, No. 1, 1979, pp. 33-49.
- ^ Charles H. Hartley “A Merchant’s Map with No Mercy” The Bombay Gazetteer Quarterly, Vol. 5, No. 2, 1893, pp. 7-12.
- ^ 山根由美子『写本と実務書のあいだ』港北大学出版会, 2012.
- ^ Abdul Rahman Sediqi “Two Faces of Abe Kasai in Provincial Memory” Kabul Institute Bulletin, Vol. 21, No. 4, 2007, pp. 55-73.
- ^ 井上志朗『養子縁組の帝国史』青磁社, 1999.
- ^ Evelyn C. Moore “Sand, Ink, and Arbitration” Proceedings of the Royal Geographical Society, Vol. 41, 1900, pp. 98-115.
- ^ 中島真吾『白布証票制度の研究』関西辺境史研究会, 2018.
外部リンク
- 中央アジア辺境人物データベース
- カーブル商路史料館
- 明治海外渡航文庫
- アフガン通商研究フォーラム
- 砂上の顧問録アーカイブ