アーリチェスク
| 名称 | アーリチェスク |
|---|---|
| 別名 | 早皿、arlišek |
| 種類 | 発酵乳と香草を用いる薄焼き食品 |
| 発祥 | ボヘミア南部から周辺にかけて |
| 考案年代 | 1890年代後半 |
| 主材料 | ライ麦粉、ケフィア、ディル、燻製塩 |
| 関連行事 | 冬至前夜の共同食、職場の締め日祝い |
| 記録媒体 | 帳簿押印皿、婚礼皿台帳 |
| 分類 | 祭礼食・保存食 |
アーリチェスク(Arichesk)は、末の系移民社会で生まれたとされる、薄焼きの生地に香草と発酵乳を重ねるである。のちにの都市労働者の間で「持ち運べる祝い皿」として普及し、現在では年末年始の献立史を語るうえで欠かせない存在とされている[1]。
概要[編集]
アーリチェスクは、薄く延ばした生地を二度焼きし、その上に発酵乳と香草を重ねて供する料理である。表面に入れる細かな切れ込みがのように見えることから、のあいだで「時刻を食べる料理」とも呼ばれた。
名称は、の「早い」を意味する語と、食器を示す地方語尾が混成したものと説明されることが多いが、実際にはの税務用語から転用されたという説もある。いずれも確証は乏しいが、19世紀末の北部の食堂記録に、類似の語形が断片的に残っている[2]。
名称[編集]
アーリチェスクの語源については、少なくとも四つの説がある。最も広く知られるのは、の巡回料理人ヤン・シュトリャールが、仕込み時間の短さを強調するために「arý-」という擬声的接頭辞を付したとする説である。
一方で、の食品史研究家マグダ・ヴァーリは、これはの早朝食券「早食券(arah-券)」をもじった俗称が独立したものであるとした。ただし、この説は券面の実物が1枚も見つかっていないため、現在では「魅力的だが要出典」とされることが多い[3]。
歴史[編集]
起源[編集]
最初期のアーリチェスクは、に近郊の製粉所で記された「朝食用の丸い板」にほぼ一致するとされる。これは粉塵対策として厚みを極端に薄くした結果生まれたもので、当初は食用ではなく、熱い鍋を運ぶための敷物として用いられたという。
その後、同じ敷物に残った乳酸菌が自然発酵を起こし、作業員たちがこれを「味のある事故」として食べ始めたことが発展の契機とされる。工場監督のは日誌に「昼休みの前に皿が消える」とだけ記しており、これが後世の研究者にとって決定的な証拠とみなされている。
都市への拡散[編集]
頃にはの駅売店で、紙包みに入れた携行型アーリチェスクが販売された。1枚あたりの重さは平均87グラムとされ、当時の新聞はこれを「昼食をポケットに収めた革命」と評した。
また、期には、前線の炊事班が塩分補給のために燻製塩を増量したことで、アーリチェスクが兵站食として再評価された。とくに方面の部隊では、1日最大3回まで支給された記録があり、兵士のあいだでは「三度目は生き残りの証」とまで言われた。
標準化と工業化[編集]
、の食品規格委員会は、アーリチェスクの直径を28〜31センチメートル、切れ込み数を平均14本とする暫定規格を示した。これにより、家庭ごとに異なっていた厚みや香草の量がある程度揃えられ、都市部の食堂でも安定供給が可能になった。
ただし、規格化の過程で「二度焼きは文化的に過剰である」とする反対意見も出された。反対派は、焼き直しを一度に減らした派生版をと呼んだが、こちらは歯ごたえが弱すぎるとして市場では定着しなかった。
製法[編集]
伝統的な製法では、ライ麦粉七割、薄力粉三割、ケフィア、塩、少量の蜂蜜を合わせ、12分ほど寝かせる。生地はの棒で限界まで薄く延ばし、鉄板で一度焼いたのち、温度を9度下げて再度焼成するのが特徴である。
仕上げにはディル、クミン、刻み玉ねぎ、場合によっては燻製にしたのクリームが用いられる。なお、家庭ごとの作法として「最初の一切れは時計回りに食べる」「祖父母のいる家では左手で皿を支える」などがあり、これを破ると翌年の発酵が鈍ると信じられていた[4]。
地域差[編集]
ボヘミア式[編集]
周辺のボヘミア式アーリチェスクは、香草を強く効かせ、表面に粒状の粗塩を多めに散らす。地元ではビールの泡と合わせる文化があり、1枚を3人で分けるのが礼儀とされた。
この地域では、結婚式の翌朝に新郎が最初に皿を片付けると家運が安定するとされていたが、実際には台所の人手不足を儀礼化したものではないかとも指摘されている。
ウィーン式[編集]
式はより薄く、発酵乳の層に甘味がわずかに加えられる。コーヒーハウス文化と結びつき、午後3時台の軽食として定着した。
1913年に沿いの菓子店が、アーリチェスクを三角形に折って銀皿に載せたところ、同じ皿で提供されたシュトルーデルより売れたという記録がある。ただし、売上表の紙質が後年のものと一致しないため、研究者の間では半ば伝説化している。
港湾労働者式[編集]
やの港湾労働者は、保存性を高めるために燻製魚の欠片を挟んだ派生版を好んだ。荷揚げの合間に片手で食べられることから重宝され、やがて船員たちが地中海各地へ持ち込んだとされる。
この系統では、1枚の直径が35センチメートルを超えることもあり、現地の食堂では「皿より大きい皿」と呼ばれていた。
社会的影響[編集]
アーリチェスクは、単なる食べ物ではなく、就業時間と休憩時間の境界を象徴する存在として扱われた。の改正期には、昼休みをアーリチェスク1枚で測る職場が現れたとされ、の新聞は「皿の出る時刻が鐘の代わりになった」と報じている。
また、婚礼や葬礼のいずれにも用いられたため、共同体の結束を可視化する料理として研究されてきた。特にの没後記念行事では、追悼用に塩を極端に減らした「静かなアーリチェスク」が振る舞われたというが、これを最初に提唱したのが誰かは定かでない[5]。
批判と論争[編集]
20世紀半ば以降、アーリチェスクは「伝統食を装った都市の便宜食」にすぎないと批判されることがあった。とくにのでは、香草の選定が恣意的であるとして、複数の家庭版が「規格外の文化」として分類された。
さらに1980年代には、冷蔵流通に適応させるため乳酸発酵を人工的に再現した製品が大量流通し、これが「アーリチェスクの死」と呼ばれた。しかし地方の保存会は、むしろこの時期に祭礼食としての意味が再発見されたとしており、現在でも毎年で復元焼成会が開かれている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Ivan Kral, “The Portable Feast: Arichesk and Urban Labor in Late Habsburg Diets,” Journal of Central European Food Studies, Vol. 14, No. 2, pp. 113-147, 2008.
- ^ 佐伯冬馬「アーリチェスクの規格化と共同体儀礼」『東欧食文化研究』第7巻第1号, pp. 21-39, 2012.
- ^ Magda Vári, *Station Tickets and Savory Boards: A Culinary Origin of Arichesk*, Budapest University Press, 1999.
- ^ Karel Dvořák, “On the Double-Baked Disc: Notes from Brno Mill Ledgers,” Bohemian Historical Gastronomy Review, Vol. 3, No. 4, pp. 44-58, 1976.
- ^ 渡辺精一郎『都市労働者の皿と時間感覚』みなと学術出版, 2004.
- ^ Elsie M. Thornton, “Fermented Milk Layers in Imperial Borderlands,” *Proceedings of the Vienna Institute of Food Anthropology*, Vol. 9, pp. 201-229, 1987.
- ^ 中村璃子「港湾労働者式アーリチェスクの成立と流通」『海事と食の民俗誌』第12巻第3号, pp. 90-108, 2018.
- ^ Pavel Hrubý, *Arlišek nebo Arichesk? A Philological Misreading*, Moravian Texts Series, 2011.
- ^ Franz Heller, “Too Thin to Fail: Standardization Attempts in Interwar Prague,” *Central European Diet and Industry*, Vol. 6, No. 1, pp. 7-33, 1931.
- ^ 高橋美和子「静かなアーリチェスクと追悼食の政治学」『儀礼と食卓』第5巻第2号, pp. 155-171, 2020.
外部リンク
- 中央ヨーロッパ食文化アーカイブ
- 南モラヴィア発酵食品保存会
- プラハ都市食史研究所
- ウィーン駅売店史料室
- アーリチェスク復元焼成連盟