イクッシュ・ホーモ
| 名前 | イクッシュ・ホーモ |
|---|---|
| 画像 | Ikushuu_Homo_Logo.png |
| 画像説明 | 結成25周年記念に配布された筐体風ロゴ |
| 背景色 | #0e4b6a |
| 別名 | イクホモ(通称) |
| 出身地 | 東京都世田谷区(結成時の拠点) |
| ジャンル | シンセポップ / ダンス・パンク(初期) |
| 職業 | バンド |
| 活動期間 | 1980年 - (断続的活動) |
| レーベル | [[ナノリング・レコード]] |
イクッシュ・ホーモ(いくっしゅ・ほーも)は、日本の4人組[[シンセポップ]]バンドである。所属事務所は[[株式会社ミクロハート事務所]]。1980年に[[下北沢]]で結成され、1984年にメンバーの田所が脱退して以後の活動の形を作ったとされる[1]。
概要[編集]
イクッシュ・ホーモは、1980年代の[[下北沢]]文化圏から派生したとされるシンセポップバンドである。透明感のある多重和声と、妙に“工場のアラーム”のような打ち込みサウンドを特徴とする点で知られている[1]。
結成当初はアンダーグラウンド寄りのダンス・パンク要素が強かったが、1984年の田所浩二の脱退を境に方向性が再編されたとされる。また、のちに[[yazoo先輩]]の名義で語られる“口上(こうじょう)パート”が楽曲の語り口を決定づけたとする見方もある[2]。なお、現在は2人に加え[[新庄勝]]が加入していると説明されることが多い。
メンバー[編集]
現行メンバーは、ボーカルとシーケンス担当を中心に構成されている。初期の資料では“固定の役割はなく、マイクの角度で担当が決まる”という記述が残されているが、近年の本人談では否定と肯定が混在している[3]。
[[田所浩二]](作詞・作曲の核/初期リード)と[[西条拓也]](キーボード/アレンジの要)が結成以来の中心として扱われる一方、[[木村直樹]](ドラムプログラミング/初期のリズム設計)については“稀にライブの前日にだけ連絡が来る人物だった”と語られた記録がある[4]。さらに[[三浦トシ]](ベース/初期の低音ディテール)も含め、1980年代のスタジオ運用が独特だったとされる。現在は[[新庄勝]]がサポートではなく加入メンバーとして言及されることがある。
バンド名の由来[編集]
バンド名の由来は複数の説が存在する。最も頻繁に引用されるのは、メンバーが[[下北沢]]の小さな機材倉庫で見つけた英数字のラベルを、なぜかそのまま“発音しやすい形”に再配置したという説である[5]。
一方、編集者によっては“イクッシュ(10曲)で満足しないこと”を戒める意味を込めたとする説も採用している。実際、初期のデモが確認できる範囲では、同じ曲を2回目に録る際にボーカルの口形を毎回3.2度ずつ変えたというメモがあり、そこから“ホーモ=誤差の友”という冗談めいた補助語が生まれたと推定されている[6]。
ただし、当時のスタッフノートには「意味は後から付く」とも記されており、由来の確定には至っていない。
来歴/経歴[編集]
結成と初期(1980年 - 1983年)[編集]
イクッシュ・ホーモは、[[1980年]]に[[下北沢]]で[[田所浩二]]、[[西条拓也]]、[[木村直樹]]、[[三浦トシ]]が結成したとされる[1]。結成直後のライブは“客席の床に置いたテープが3分で溶ける”という噂が立ち、主に[[世田谷区]]の小規模会場で試験的に行われた[7]。
[[1981年]]には、同年の夏に開催された「小指だけの公開リハ」にて、最初期のシンセパッチが完成したとされる。なお、このパッチは“音色の粒子密度を0.74に合わせないと気持ちよく鳴らない”とメンバーが語ったと伝えられている[8]。
[[1982年]]には地域ラジオの深夜番組で短いインタビューが流れ、視聴者からは「音が冷蔵庫の中で踊る感じ」といった反応が寄せられたとされる。
田所の脱退と再編(1984年 - 1987年)[編集]
[[1984年]]、[[田所浩二]]が脱退したと記録されている[1]。脱退の理由については複数の説明があり、制作スケジュールの衝突や“鍵盤の高音だけを食べる癖が増えた”という比喩的な逸話も残る[9]。
脱退後、田所は[[yazoo先輩]]を名乗る別系統の創作活動を始めたとされ、ここから口上パートの“間(ま)”が楽曲構造の中心に来た。特に[[下北沢]]近辺の路地で録った環境音を、次のアルバムの休符に埋め込む手法が定着したとされる[10]。
[[1986年]]には、[[ナノリング・レコード]]の前身レーベルと仮契約を結び、翌年のリリースに向けた試作が進行した。試作段階では、サビの反復回数が“ちょうど12回”に固定されることが多かったと説明されている[11]。
拓也の逝去とその後(1988年 - 現在)[編集]
[[1988年]]、[[西条拓也]]が死去したと伝えられている[1]。この出来事はメディアに大きく取り上げられ、特に[[NHK]]系の地域番組では“機械音の中にある優しさ”が語られたとされる[12]。
その後、残ったメンバーは活動を縮小しつつも、[[木村直樹]]と[[三浦トシ]]が中心となり、過去素材の“再焼成(さいしょうせい)”を行ったとする説がある。実際には、当時のリミックスには元テープの再生速度を[[1.03]]倍にする指示が含まれており、結果としてテンポ感が微妙に記憶を裏切る作品になったと評価された[13]。
現在は2人に加えて[[新庄勝]]が加入しているとされ、当時のサウンドを“再現”ではなく“翻訳”する方針が取られているとされる。新庄はシンセの校正作業を担当し、ライブ前に毎回「音程を1ミリ笑わせる」儀式を行うと報じられている[14]。
音楽性[編集]
イクッシュ・ホーモの音楽性は、シンセポップの文法に沿いながら、音の輪郭だけを極端に削る実験で特徴づけられている。特に“メロディの終端”を意図的に0.12秒遅らせる手法が多用されたとされる[15]。
歌詞面では、[[下北沢]]の地形(坂・路地・駅前の人流)を比喩として繰り返し用い、恋愛や労働の描写を“機械が観測した感情”として表すことが多い。また、yazoo先輩由来の口上は、曲間のつなぎではなくサビの内部に挿入される場合もあるとされる[16]。
一方で批評家の一部からは、リズムが“丁寧すぎる”ために感情の爆発が遅れるという指摘もある。とはいえ、その遅れがファンにとっては“安心の反復”になっている点が評価されてもいる。
人物[編集]
田所浩二は作詞作曲に関して“言葉を発音する前に、意味を先に温める”タイプだったと語られる[17]。西条拓也は譜面に几帳面なだけでなく、スタジオの時計を毎回[[3分]]進めて録音するという癖があったとされるが、本人談では“誤差が気になる性格”と説明されている[18]。
木村直樹はドラムプログラミングにおいて、音のアタックを“触感として想像する”方式を取っていたとされる。三浦トシはベースの録音時に靴下を二重に履くよう指示していたという伝承があり、これが低音の丸みを作ったのではないかと推定されている[19]。
新庄勝については、加入後のインタビューで「歴史は再生じゃなくて再配線」と発言したとされ、バンドの説明文にもその言葉が引用されるようになった。
評価[編集]
イクッシュ・ホーモは、1980年代の日本のシンセポップを“都市の情景”として整理した功績があるとされる。特にアルバム『[[青の偶数号]]』(1986年)では、各曲のリフレイン間隔が平均[[47.5]]小節に揃えられていたと報じられ[20]、ファンの間で“呼吸の数学”と呼ばれた。
また、ライブでは曲間のMCが短いにもかかわらず、客が迷子にならないように照明が変化する構成が評判となったとされる[21]。さらに、メディアの一部では国民的シンセポップバンドに近い扱いを受けたとも言及されているが、同時期に同種の別バンドも多く、評価の偏りには留意が必要であるとする声もある。
一方で、後年の“翻訳方針”が賛否を呼び、過去のファンからは「当時の沈黙が足りない」という批判も見られた。
受賞歴/賞・記録[編集]
受賞歴については複数の記録が整理されているが、最も引用されるのは[[日本レコード大賞]]の前夜祭企画での“都市音響賞”である。これは公式には“音響の編集性が顕著な作品”に贈られたと説明され、イクッシュ・ホーモは『[[路地の位相]]』(1987年)で評価されたとされる[22]。
また、[[オリコン]]の年間チャートでは、シングルが“年間上位50位に7作同時滞在した”と記述される場合があるが、資料によって“5作”や“6作”に揺れがあり、編集者の取材時期に差がある可能性が指摘されている[23]。ただしファンの掲示板では平均“月に2回の再生曲が入れ替わる”という独自の指標が共有されていたという。
このほか、ライブ映像の総再生時間が[[累計]]で[[13万時間]]を超えたとする推計もあり、信頼度の議論はあるものの、熱量を示す指標として扱われている。
ディスコグラフィ[編集]
シングルとしては、初期に『[[微熱のエレベーター]]』(1983年)や『[[路面が歌う夜]]』(1984年)が挙げられる。いずれもシンセの粒立ちが話題となったとされ、前者は当時の路上で録音した足音がイントロに採用されたと説明されている[24]。
アルバムは、前述の『[[青の偶数号]]』(1986年)に加え、『[[白い誤差礼拝]]』(1989年)が代表作として参照されることが多い。『白い誤差礼拝』は、曲ごとの拍の“裏拍だけ”を微細にずらす編集思想があるとされ、聴感が時間の経過に似ると形容された[25]。
ベスト・アルバムとして『[[イクッシュ・ホーモ大全:再配線編]]』(2002年)や、映像作品『[[下北沢・静電気ライブ]]』(DVD、2007年)がリリースされたとされる。なお、配信限定シングルは“何故か毎年同じ日に公開される”という噂があり、サイトの更新ログから“2月17日に限る”とする報告もある[26]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 編集部『シンセポップ都市録:1980年代の再生』昭和音響出版, 2014.
- ^ 山路拓実「[[下北沢]]における打ち込みの社会的受容」『音楽工学ジャーナル』第12巻第3号, pp. 55-73, 1989.
- ^ 田河里奈『ポップスと誤差の年代記』青磁書房, 2006.
- ^ Dr.ミトウ・カズヤ「A Study of Repeating Silence in Japanese Synth-Pop」『Journal of Urban Electrics』Vol. 7 No. 2, pp. 101-134, 1995.
- ^ 佐伯光輝「都市の位相と歌詞の間」『日本歌謡研究』第21巻第1号, pp. 12-34, 1991.
- ^ 浅見節子『スタジオは時計を信じない』文庫シグナル, 2011.
- ^ 小川真琴「“再焼成”と呼ばれた編集技術」『録音文化の考古学』第5巻第4号, pp. 200-221, 2018.
- ^ 国立音楽アーカイブ編『関東深夜番組ログ(仮)』国立音楽アーカイブ, 2020.
- ^ 中津川編集「イクッシュ・ホーモと路地のアタック」『ポップ批評季報』第33巻第2号, pp. 77-98, 2003.
- ^ 関谷実「微熱のエレベーター分析(主観版)」『オリコン解析レポート(別冊)』第9号, pp. 1-9, 1983.
外部リンク
- イクッシュ・ホーモ公式アーカイブ
- 下北沢シンセポップ研究会
- ナノリング・レコード年表
- 都市音響賞データベース
- 再配線ファンクラブ通信