カラスが住み着く校舎
| 分類 | 校舎文化、鳥類共生建築 |
|---|---|
| 成立 | 大正末期から昭和中期にかけて形成 |
| 主な地域 | 東京都、埼玉県、長野県、愛知県、島根県、福岡県 |
| 関連組織 | 文部省学校建築調整局、全国鳥害対策協議会 |
| 代表的な研究者 | 伊勢崎文雄、Margaret H. Weller、井上千枝子 |
| 保存指定 | 準文化的景観として一部自治体が独自認定 |
| 象徴 | 黒板の粉、屋根裏の巣材、始業の合図に合わせて鳴く群れ |
| 通称 | 烏校舎、鳴き梁校舎 |
カラスが住み着く校舎(カラスがすみつくこうしゃ)は、東京都から九州にかけて点在した旧制・新制学校のうち、屋根裏や講堂の梁にカラスが恒常的に営巣し、人の出入りにもかかわらず世代交代を続けた校舎群を指す呼称である。教育史、鳥類生態、そして建築保存の三領域が交差する現象として知られている[1]。
概要[編集]
カラスが住み着く校舎とは、校舎の老朽化や立地条件によりカラスの営巣が常態化し、学級運営や校内放送にまで影響を及ぼした建物を指す俗称である。一般には単なる鳥害として扱われることが多いが、実際には昭和初期の木造校舎に採用された換気構造と、周辺のの残存率が高かったことから、半ば「人工的に育った繁殖地」として機能したとされる[2]。
この現象は文部省の学校建築標準化以前に建てられた地方校に多く見られ、なかでも長野県北部の山間校と福岡県筑後平野の縁辺部の校舎が有名である。なお、古い記録では「朝礼の前に三羽以上鳴いた日は欠席者が減る」とする教員日誌が残されているが、統計的裏付けは乏しい[3]。
成立の経緯[編集]
起源は大正14年ごろ、東京都下谷区の私立補習学校で屋根瓦の隙間に営巣した一組のに求められるとされる。校務員のが巣を撤去しなかったことから、翌年には三組が定着し、さらに教材倉庫の隙間に古新聞を運び込んで冬季の断熱材として利用したため、校舎側も結果的に保温性を得たという。
この「撤去しないほうが壊れにくい」という逆説は、のちに帝国大学工学部の非常勤講師だったによって論文化され、の『校舎屋根と鳥類の相互補完性』で注目を集めた。もっとも、この論文は一部で「鳥の好意を建築学に持ち込んだ」と批判された一方、地方の教育委員会では補修費圧縮の根拠として歓迎された。
歴史[編集]
木造校舎期[編集]
木造校舎期においては、梁と梁の間にできた微細な隙間が巣材の保持に適していたため、カラスの定着が進んだ。とくに埼玉県北部では、運動場の外周に植えられたが「見張り木」として機能し、群れが毎朝7時12分に校門へ移動する習性が記録されている。
この時期の教員たちは、糞害対策として黒板消しを天井に吊るしたり、職員室の窓辺にを並べたりしたが、効果は限定的であった。むしろカラス側がそれを「外部警戒装置」と誤認し、帽子の下に必ず一羽が停まるようになったという逸話が残る。
戦後復興期[編集]
以降の戦後復興期には、資材不足から校舎補修が遅れ、カラスの営巣環境はむしろ拡大した。とりわけの一部では、焼け残ったのトラス構造が巣の棚として重宝され、最大で32巣・推定118羽の群れが同一建物内で観測されたとする県教委報告がある。
このころが設置されたが、実際の活動は「追い払う」よりも「どの梁を残すか」の選別に移っていった。結果として、校舎を全部直すのではなく、一部の梁だけを『鳥用保存梁』として残す折衷案が各地に広がった。
保存運動と観光化[編集]
に入ると、老朽校舎の取り壊しが進む一方で、カラスが長年住み着いた校舎は「地域の記憶装置」として再評価された。愛知県の旧東濃第二尋常小学校では、毎年10月の文化祭に合わせて「烏梁観察会」が開かれ、最大2,400人を集めた年もある。
ら保存運動家は、校舎を単なる遺構ではなく「人間の時間と鳥の時間が重なった場所」と表現した。ただし、観光化が進むと餌やり客が増え、逆にカラスが午前中しか来なくなるという本末転倒の事態も生じた。
構造的特徴[編集]
カラスが住み着く校舎には、いくつかの共通した構造的特徴がある。第一に、屋根裏の通気口が現行基準よりやや大きく、カラスの出入りに適していること、第二に、長い廊下と広い庇が風の巻き込みを生み、巣材が吹き寄せられやすいことである。
第三に、教室の窓枠に使われた古いが劣化して柔らかくなり、クチバシで少しずつ剥がせる状態になっていた点が挙げられる。さらに、校庭の片隅に設置されたや雨水槽が、巣立ち前の雛にとって安定した給水源になったとされる。
一部の校舎では、朝の始業チャイムとカラスの第一声がほぼ同時刻に重なったため、教員のあいだで「鳴き時刻表」が作成された。これによれば、4月からにかけては6時58分、は7時04分に最も活発になるとされ、季節ごとの校務手引にも転記された。
社会的影響[編集]
この現象は、地域社会に複合的な影響を及ぼした。児童生徒にとっては、毎朝の登校が「騒がしいが安心できる」経験となり、欠席率の低下につながったとする学校もある。反面、運動会の応援合戦にカラスが割り込むため、赤組・白組とは別に「黒組」ができた年もあったという。
また、の古い通達では、カラスが常駐する校舎について「屋根補修を急ぐより、地域で記録を残すべき場合がある」と記されていたとされ、これが後年の保存行政の先例になったと主張する研究者もいる。ただし、通達原本は未確認であり、要出典とされることが多い。
民俗学的には、カラスが住み着く校舎は「学びの場に先に来ていたのは誰か」という問いを可視化した例とみなされる。地元の高齢者の証言によれば、卒業生よりも長く同じ教室を見守った個体が少なくとも7羽いたという。
批判と論争[編集]
もっとも、こうした評価には批判も多い。鳥類学者のは、1982年の論文で「校舎を安易に共生モデルとして称揚するのは、衛生管理の失敗を美談化する危険がある」と指摘した。実際、糞の堆積による雨樋の詰まり、配線への接触、授業中の突然の鳴き声など、現場には深刻な問題もあった。
一方で、保存派は「問題があったからこそ校舎は記憶された」と反論し、屋根の破損部分をわざと1枚だけ残す『不完全保存』を提唱した。これに対して建築士会は「不完全を制度化するのは無責任である」と声明を出したが、翌年には同会の会報表紙にカラスが採用され、議論は妙な形で収束した。
なお、福岡県のある中学校では、カラスが給食室の換気扇に巣を作ったことから全校で追い払い訓練が実施されたが、訓練のたびに同じ三羽が屋上から見学していたため、最終的に訓練時間が彼らの休息時間として固定された。
現在の扱い[編集]
現代では、耐震補強と感染症対策の観点から、恒常的にカラスが住み着く校舎はほとんど見られない。ただし、旧校舎を活用した資料館や地域センターでは、当時の梁の跡や落下した羽根を保存し、「鳴き梁」の名称で展示する事例が増えている。
長野県の旧山ノ内第三小学校では、毎年に「朝礼時刻再現展示」が行われ、実際のチャイムに合わせて録音されたカラスの声が流される。来館者の多くは演出だと思って笑うが、地元では「本物より静かで物足りない」と評されることもある。
このように、カラスが住み着く校舎は、鳥害、保存、地域史の境界にある特殊な存在として扱われている。現在でも教育史研究者のあいだでは、単なる逸話ではなく、戦前戦後の学校建築の変化を読み解く手がかりとして引用され続けている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 伊勢崎文雄『校舎屋根と鳥類の相互補完性』学校建築研究 第12巻第3号, 1937, pp. 41-68.
- ^ 渡辺重吉『下谷補習学校日誌抄』東京教育史料刊行会, 1941, pp. 9-17.
- ^ Margaret H. Weller, "Crow Habitation in Rural School Structures," Journal of Avian Urbanism, Vol. 8, No. 2, 1982, pp. 113-129.
- ^ 井上千枝子『鳴き梁の民俗学』地方史資料叢書, 1979, pp. 22-54.
- ^ 長野県教育委員会『山間校舎鳥害実態調査報告書』第4集, 1956, pp. 3-29.
- ^ 全国鳥害対策協議会編『学校施設における鳥類共存指針』中央印刷, 1968, pp. 71-93.
- ^ K. A. Sutherland, "Adaptive Nesting in Human Learning Spaces," Architecture and Fauna Review, Vol. 15, No. 1, 1991, pp. 5-24.
- ^ 東京都下谷区史編纂室『補習学校と都市鳥類』下町文化研究 第6号, 1952, pp. 88-101.
- ^ 福岡県学校施設協会『給食室換気扇営巣事件の記録』資料編I, 1986, pp. 14-19.
- ^ 中村良一『不完全保存の美学――校舎と群鳥の間』建築と記憶 第3巻第4号, 2004, pp. 201-233.
外部リンク
- 全国烏梁保存会
- 旧校舎群と鳥類の記憶アーカイブ
- 学校建築鳥害史研究室
- 地域資料館連絡ネットワーク
- 朝礼音響復元プロジェクト