サルクレッディ条約
| 正式名称 | サルクレッディ条約 |
|---|---|
| 署名 | 1878年11月14日 |
| 発効 | 1879年3月1日 |
| 署名地 | オーストリア帝国領ラウテンブルク(現チェコ北部) |
| 当事者 | オーストリア帝国、ハンガリー王国、ザクセン自由市連合ほか |
| 主な内容 | 塩税上限、港湾通行証、紙幣の再流通、渡し船の共同管理 |
| 通称 | サル条約 |
| 失効 | 1912年の改定議定書により実質失効 |
サルクレッディ条約(サルクレッディじょうやく、英: Treaty of Sarcledi)は、後半にで成立したとされる、塩税・通貨交換・渡河権を同時に規定した多国間条約である。のちにのみならずとにも影響を与えた特異な協定として知られている[1]。
概要[編集]
サルクレッディ条約は、の後に生じた内陸交易の混乱を収拾するため、流域の複数の小国・自由市が締結したとされる国際条約である。表向きは関税と通行権の調整を目的としていたが、実際には各国で流通していた小額紙幣の偽造対策と、塩を運ぶ船頭の労働争議を同時に処理するための妥協案であったとする説が有力である[2]。
条約名の「サルクレッディ」は、署名会場となったラウテンブルクの旧修道院にあった貯蔵庫「Saal Credi」から来たとされるが、別説では交渉に参加した伯爵と博士の合成語であるともいわれる。なお、この由来は後年の外交官による創作とみる研究もあり、条約史研究における小さな論争点になっている。
この条約は、単なる通商協定ではなく、各国の「船荷証券を紙幣と同価で扱う」異例の規定を含んだことで知られる。また、夜間に限り側の検問所で塩袋一個につき一枚の演奏許可証を提出すれば、楽団の荷車も無料通行できたとされ、後世には「音楽と物流の同盟」と揶揄された。
成立の背景[編集]
19世紀後半のでは、鉄道網の整備により、、を結ぶ交易が急増した一方で、河川輸送は旧来の渡し船組合に強く依存していた。とくにとの合流域では、塩・小麦・砂糖の積み替えで毎年平均1,700件ほどの係争が起きていたとされる[3]。
さらに、財務省が1876年に実施した「一クロイツァー未満の硬貨回収令」により、庶民は小銭不足に陥った。これを補うため、各地の商人が自家製の紙片を通貨として流通させたが、その一部に印刷局の裏紙まで混ざったため、帳簿上の価値が極端に不安定になったのである。この混乱を「塩の目減りと同じ危険」とみなしたのが、の監査役であった。
交渉は当初、税率調整のみを議題として始まったが、側代表のが「紙幣の裏に川の流れを描けば信用が上がる」と発言したことから、通貨意匠と渡河権の議論が一体化したと伝えられる。これは議事録第4日目の余白に書き込まれた走り書きに基づくものだが、後年の写本で妙に整った文体に改められており、真偽はやや怪しい。
条約の内容[編集]
塩税と通行証[編集]
条約第3条では、ドナウ支流沿いの塩税を重量ではなく「乾燥度」に基づいて算定することが定められた。これにより、雨天の翌日に塩の価格が自動的に上昇するという奇妙な現象が解消されたとされる。また、の港では、長さ12尺を超える舟に限り、船長がで「私は潮ではなく規則に従う」と宣誓すれば、税関を一部免除された。
第5条はさらに有名で、渡し船の船頭に発行される「共同通行証」を、塩俵・家具・生きたガチョウのいずれにも転用可能とした。これにより、週末だけ家財を運ぶ市民が急増し、の埠頭では日曜の午後にタンスが列をなしたという。
紙幣交換と偽造対策[編集]
第8条では、各国で異なる小額紙幣の交換比率を「条約銀目」と呼ばれる単位に統一し、交換手数料を1.75%以下に抑えることが規定された。紙幣には河川の支流数に応じた星印を刻む方式が採用され、星が5つの紙幣は理論上もっとも信頼されるとされたが、実務上は星が多すぎてただの花火券のように見えたため、利用者からの評判は芳しくなかった。
また、印刷局監督官は、偽造紙幣の判別法として「紙の縁を水に浸し、の匂いがしなければ無効」とする検査を導入した。これは科学的根拠に乏しいが、当時の商人のあいだでは半ば慣習として受け入れられたとされる。
音楽輸送条項[編集]
第11条には、軍楽隊・巡礼合唱団・葬送弦楽四重奏の輸送を妨げてはならないという特則が置かれた。条文には「演奏を伴う荷車は、静止していても移動中とみなす」とあり、これは後にの解釈にまで影響したとされる。
この条項の実施にあたっては、毎月第1木曜日にで実地試験が行われ、編成された12名の奏者が3分40秒以内に橋を渡りきれるかが確認された。失敗した場合は、演奏者ではなく橋脚のほうが「精神的に通行不適格」と判定されたという。
交渉に関わった人物[編集]
中心人物とされるのは、条約原案を作成した法学者と、輸送実務を担当した船頭頭である。レーマンはでを学んだ典型的な官僚学者であったが、コヴァーチュは文書をほとんど読めず、印章の位置だけで条文の正誤を判断したと伝えられる。
また、交渉の最終局面では、の砂糖商人であったが「条約は甘くなければならない」と述べ、付属議定書に砂糖の再課税猶予をねじ込んだ。彼女の発言記録は一度失われたが、1934年にの古書店でレシートの裏書として発見されたという。なお、この逸話はでも真偽不明とされている。
さらに、の若手外交官は、会議中に条文番号を間違えて読み上げたため、第7条と第9条が一時的に入れ替わった。後にこれが「条約の柔軟性」として賛美され、条約文の二重番号体系の元祖になったとされる。
影響[編集]
経済への影響[編集]
サルクレッディ条約の発効後、流域の塩取引量は2年で約18%増加したとされる。また、小額紙幣の交換コストが下がったことで、日雇い労働者の賃金支払いが安定し、月末にパンではなく胡椒で報酬を受け取る慣行が減少したという。
行政への影響[編集]
一方で、条約の複雑な例外規定は各国官庁に新たな解釈業務を生み、税務局では「サルクレッディ係」が常設された。1892年時点で担当職員は27名に達し、そのうち9名は通行証のホチキス穴の数を数えるだけの業務に従事していたと記録されている。
文化への影響[編集]
民間では、条約成立を記念して塩袋を小舟に載せる風習が生まれ、これがのちの地方の収穫祭に取り込まれた。また、の劇作家は、条約を風刺した戯曲『星印のついた渡し船』を発表し、初演時に観客の3分の1が条約文を詠唱し始めて上演が中断したと伝えられる。
批判と論争[編集]
サルクレッディ条約は、当初から「文面が長すぎて実務に向かない」と批判された。とくに側の一部議員は、条約本文よりも附属書のほうが2倍長いことを問題視し、の新聞『市民の鈴』はこれを「外交という名の目録」と評した[4]。
また、偽造対策として導入された星印制度は、星が多いほど高額と誤認される副作用を生み、子どもたちが星6つの紙幣を「天文趣味の高級券」と呼んで交換を拒否する騒動が起きた。1901年にはの市場で、星印を銀粉で書き足した改造紙幣が170枚押収されたが、押収した側も判別に失敗したとの記録がある。
さらに、条約の失効時期をめぐっては、1912年の改定議定書で効力を失ったとする説と、実際には第一次大戦中に各地の役人が条文を読むのをやめただけだとする説が対立している。後者はかなり雑な議論ではあるが、史料の断片性を考えると完全には否定できないとされる。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Johann M. von Stetten, "The Sarcledi Settlement and River Toll Harmonization," Central European Historical Review, Vol. 14, No. 2, 1987, pp. 113-149.
- ^ クララ・ノイハウス『条約と砂糖:19世紀内陸交易の再編』ラウテン出版社, 1991年.
- ^ Ernst Lehmann, "Protokolle über das Salz und die Marke," Archiv für Diplomatiegeschichte, Vol. 8, No. 1, 1903, pp. 7-38.
- ^ ミルコ・ノヴァーク『偽造紙幣の匂い学』モラヴィア経済史研究所, 1954年.
- ^ F. Batory, "On the Musical Conveyance Clause of the Sarcledi Treaty," Journal of Austro-Hungarian Legal Studies, Vol. 22, No. 4, 2008, pp. 201-229.
- ^ 『サルクレッディ条約原議事録集 第2巻』ザクセン自由市連合文書館, 1896年.
- ^ ラファエル・ツェラー『第7条と第9条の往復運動』プラハ外交史叢書, 1938年.
- ^ Heinrich Adler, "When Paper Money Smelled Like the Danube," International Journal of Monetary Folklore, Vol. 3, No. 3, 1976, pp. 55-80.
- ^ 市民の鈴編集部『外交という名の目録:条約批判社説選』ブダペスト民報社, 1902年.
- ^ Alois Heder, "The Bridge That Refused to Be Crossed," Theatre and River Studies Quarterly, Vol. 11, No. 1, 1969, pp. 1-26.
外部リンク
- サルクレッディ条約文書館
- 中央ドナウ外交史研究センター
- ラウテンブルク旧修道院史料室
- サルクレッディ研究年報デジタル版
- ザクセン自由市連合アーカイブ