庄本 京成
| 氏名 | 庄本 京成 |
|---|---|
| ふりがな | しょうほん きょうせい |
| 生年月日 | 1874年3月18日 |
| 出生地 | 広島県沼隈郡今津村 |
| 没年月日 | 1948年11月2日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗工学者、教育行政官、発明家 |
| 活動期間 | 1898年 - 1946年 |
| 主な業績 | ショウポンキョウセイの考案、巡回式識字補助法の整備 |
| 受賞歴 | 帝国教育協会奨励賞、広島県文化功労表彰 |
庄本 京成(しょうほん きょうせい、 - )は、の民俗工学者、装置発明家、地方教育行政官である。巡回式の記憶補助具「」の考案者として広く知られる[1]。
概要[編集]
庄本 京成は、後期から前期にかけて活動した日本の民俗工学者であり、地方教育行政の現場から独自の器具論を展開した人物である。とりわけ、読み書きと暗唱を同時に補助する巡回式装置の考案者として知られる[1]。
同装置は、木製の円盤・銅製の針・和紙の索引票から成る簡易機構で、のちに内の夜学やの寺子屋跡施設で採用例が報告された。庄本はこれを「知識を机上に固定せず、村落を移動させる道具」であると述べたとされるが、この定義自体が彼の講演録のどこまでを採るかで意見が分かれている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
庄本は、沼隈郡今津村の庄屋分家に生まれる。幼少期から算盤よりも農具の分解を好み、特に脱穀機の羽根車を外しては組み直す癖があったという。家督を継ぐ長兄に対して、彼だけが戸棚の裏に紙片を差し込み、家族の予定を可視化する「紙の棚札」を作ったことが、後年の発想につながったとされる[3]。
には地元のを卒え、の私塾で漢籍と測量を学んだ。ここでという実在の技師に似た名前の人物に師事した、という回想が伝わるが、同名の別人である可能性も指摘されている。
青年期[編集]
、へ出てで図面製作を学び、のちに系の外郭機関と関係のある印刷工場で校正補助を務めた。そこで活字の欠けを数える仕事に従事した経験が、庄本の「欠損を前提に整列する」という独特の思考を育てたとされる[4]。
にはで開かれた教育器具展覧会に出品した手回し式の指示盤が小さな注目を集め、これを契機に地方巡回の講話依頼が増えた。なお、当時の見学記録には「針が七回転したのちに必ず止まる」とあるが、実際には展示場の床が傾いていたためであるとの見方が有力である。
活動期[編集]
、庄本はの青年会館で初めての原型を公開した。装置は「記憶票を筒内に納め、回転軸で順次提示する」仕組みで、村役場の掲示物、時刻表、算術問題を同一機構で扱える点が評価された。翌年にはの実習教場に試験導入され、1学期で欠席連絡の誤記が17%減少したという報告が残る[5]。
からは、彼の装置は巡回講習と結びつき、各地のが「携帯式知識機」として模倣品を製作した。庄本自身は複製を半ば歓迎しつつも、木札の重心角を守らない模造品には強く反発したとされる。特にのある製作所が、内部の銅針を真鍮に置き換えたところ、指示の停止位置が一日で1.8度ずれ、庄本が「これは思想ではなく玩具である」と述べた、という逸話が有名である[要出典]。
にはの委託で識字補助の調査に参加し、の山間部を中心に実地検証を行った。庄本は、配布物の回収率や夜学の継続率を細かく記録し、の報告書では「三か月で継続率が41.3%から68.9%へ上昇」と記したが、算定方法が極めて複雑で、当時の担当官の多くが途中で読むのをやめたと伝えられる。
晩年と死去[編集]
以降は体調を崩し、郊外の親族宅で静養した。戦時下では金属不足のため、ショウポンキョウセイの針部が竹製に改修され、庄本はこれを「沈黙する発明」と呼んでいたという。
、庄本はで死去した。死後、彼の作業机から未完成の索引票が見つかり、それぞれに「雨天時は3枚減」「豆腐屋は左回し」など意味不明だが実務的な注記が残されていたため、弟子たちの間で真偽を巡る小さな論争が起きた。
人物[編集]
庄本は温厚であったが、工具の配置には異常に厳格で、鉛筆が机の縁から外れるだけで一度作業を中断したという。村の子どもに対しては寛大で、講習会の余り紙を使って即席の暗唱札を作らせ、良い出来の者には蜜柑を与えたとされる。
一方で、会議では極端に寡黙であり、質問に対して図面の端へ小さな矢印を一つ描いて答えた、という証言が複数残る。ある秘書は「庄本の返答は短いが、帰宅後に三日分の宿題として返ってきた」と回想している。また、雨の日になると必ず方面を向いて帽子を脱いだという習慣があり、故郷への執着を示すものと解釈されている。
業績・作品[編集]
ショウポンキョウセイ[編集]
ショウポンキョウセイは、庄本が頃に完成させた巡回式記憶補助装置である。円盤に貼られた索引票を回転させることで、講義内容、課題、出欠、時刻表を一括管理できる点が最大の特徴で、下では「村を一つ持ち歩く道具」と呼ばれた[6]。
構造は単純に見えるが、実際には地域ごとの方言差を吸収するため、読み上げ部に三段階の可変目盛りが設けられていた。庄本はこれを「教育の標準化ではなく、標準の揺れを記録する機械」と説明したとされ、この言い回しが後の民俗工学界隈で引用の定番となった。
補助器具と論文[編集]
庄本は装置本体だけでなく、、、など複数の補助器具を考案した。なかでも『地方夜学における回転索引の実際』はにへ掲載され、地方教育の実務誌としては異例のを印刷したとされる。
また、『竹製指針の摩耗率に関する一考察』では、竹針を使用した場合の摩耗が月平均進むと記したが、この数値は測定器の湿度補正が甘かったためだとする反論もある。とはいえ、庄本が実測を好み、机上理論を嫌ったことだけは広く認められている。
教育行政への影響[編集]
庄本の装置と方法論は、系の巡回講習、町村の夜学、の自習会に広がった。とくに、教材を「配る」のではなく「回す」という発想は、のちの貸本棚、共同掲示板、移動図書箱の設計にまで影響を与えたとされる[7]。
ただし、装置の構造がやや複雑で、最盛期でも全国普及率は推定程度にとどまった。にもかかわらず、地方の少人数教育においては高い満足度が記録され、の県内調査では「説明が長いが、使うと忘れにくい」という奇妙な評価が最多だった。
後世の評価[編集]
庄本の評価は長らく地方史研究の範囲にとどまっていたが、以降、教育メディア史やインタフェース史の文脈で再評価が進んだ。特にの研究者・が「ショウポンキョウセイは、紙と回転機構による初期の分散型情報端末である」と述べたことで、再び注目を集めた[8]。
一方で、工学史の側からは「仕組みは精巧だが、用途説明が過剰に神秘化されている」との批判もある。実際、現存する標本の多くは欠品が多く、修復のたびに別物になるため、展示ごとに解釈が揺れるという問題がある。なお、にで行われた特別展では、来場者の4割が装置を台本入れと誤認したと報告され、学芸員が少し落胆したという。
系譜・家族[編集]
庄本家は以来の農家系とされ、父・、母・の三男として育った。兄に、姉にがいたとされるが、家計簿の記載からは四男一女だった可能性もあり、ここは資料が食い違っている[要出典]。
妻はで、に結婚した。二人のあいだには長女、長男が生まれ、敬一はのちに木工師となって父の装置の複製を手伝ったという。孫の世代では庄本の名を継ぐ者は出なかったが、曾孫のひとりがで古紙回収業を営み、祖父の図面を包装紙に再利用したという話が残る。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 庄本京成研究会『回転索引と地方教育』明治図書出版, 1978年.
- ^ 佐伯倫太郎『分散型紙媒体の系譜』東京大学出版会, 1984年.
- ^ 小野寺静夫「庄本京成と山村夜学」『教育技術史研究』Vol.12, No.3, 1991, pp. 44-67.
- ^ Y. Nakamura, 'Portable Memory Devices in Pre-digital Japan,' Journal of East Asian Media History, Vol.8, No.2, 2002, pp. 115-139.
- ^ 広島県立歴史博物館編『庄本京成資料集』広島県立歴史博物館, 2011年.
- ^ 田中ゆかり「可搬索引板の摩耗測定について」『工芸と社会』第7巻第1号, 1998年, pp. 3-19.
- ^ Margaret A. Thornton, 'Rotational Pedagogy and Rural Literacy,' Cambridge Historical Review, Vol.41, No.1, 2007, pp. 88-104.
- ^ 庄本京成『地方夜学における回転索引の実際』帝国教育会雑誌別冊, 1924年.
- ^ 久保田源一『竹製指針の摩耗率に関する一考察』大阪工業史叢書, 1932年.
- ^ 佐藤峰子『ショウポンキョウセイ概説』青弓社, 2016年.
- ^ E. H. Willis, 'The Shouhon System and Community Scheduling,' Notes on Appliance History, Vol.5, No.4, 2019, pp. 201-226.
外部リンク
- 庄本京成アーカイブス
- 広島民俗工学研究会
- 回転索引資料館
- 夜学器具史データベース
- 帝国教育会デジタル文庫