ジュッセンパイヤー島の戦い
| 戦争名 | ジュッセンパイヤー島の戦い |
|---|---|
| 年月日 | 1578年11月3日 - 11月5日 |
| 場所 | ジュッセンパイヤー島沖合 |
| 結果 | ラカンド連合艦隊の戦術的勝利、ただし島の領有は未確定 |
| 交戦勢力 | ポルト・セレム王国、ラカンド連合艦隊 |
| 指揮官 | アラミル3世、ナスィル・ベン・カティブ |
| 兵力 | 艦船43隻対31隻 |
| 損害 | 沈没8隻、炎上12隻、漂流1隻 |
| 戦死者 | 推定1,400人 |
ジュッセンパイヤー島の戦い(じゅっせんぱいやーとうのたたかい)は、に東方ので起きた海上戦闘である[1]。島を巡る香辛料税と避難港の管理権をめぐり、とが衝突した事件として知られる[1]。
背景[編集]
ジュッセンパイヤー島は、南東の交易圏にあった小島で、との中継地として16世紀後半に急速に重要性を増したとされる。島名は、現地語の「jusan」(水路)と、外来語の「payar」(仮設税倉庫)に由来するという説が有力である[2]。
当時の交易では、島ごとに徴税権を握った者が航路全体を支配できると考えられていた。特には、に島北岸へ木造の関所「第七帆楼」を築き、通行するジャンク船に対し、積荷1樽ごとに香料を2粒徴収する独自の制度を導入した。これが周辺諸勢力の反発を招いた。
一方で、島の南岸にはの商人共同体が設けた中立港があり、ここでは税率が季節によって変動した。記録によれば、の乾季には胡椒の通関量が前年の1.8倍に達し、港の倉庫が満杯になったため、臨時の浮き桟橋が17本増設されたという。なお、この浮き桟橋の一部は戦闘時に即席の防壁として転用された[要出典]。
経緯[編集]
開戦前夜[編集]
戦いの直接の契機は、10月末に島西方の灯台船「白い亀」が拿捕された事件である。ポルト・セレム側は、これをラカンド商人による密輸の証拠としたが、後年の調査では、実際には灯火油の積み過ぎで舵が効かなくなっていた可能性が高いとされる。
は、島の防衛を名目に兵船19隻を派遣した。これに対し、ラカンド連合艦隊の司令官は、正規戦よりも「霧と潮目を利用した遅延戦術」を重視し、艦隊を三層に分けて接近させた。彼は部下に対し、帆柱に赤布を結ぶだけで敵の火矢を誘導できると説いたと伝えられるが、実際の効果は不明である。
海上衝突[編集]
未明、島北東の浅瀬で最初の衝突が発生した。ポルト・セレム側の火船が風向の急変で味方艦列へ戻り、主力の「ジャシム号」を焼損させたことが戦局を混乱させた。これにより、計画では20分で終わるはずだった砲撃が、実際には約6時間に及んだとされる。
には、ラカンド側が島中央の塩田を一時占拠し、井戸水に松脂を混ぜて煙幕を発生させた。この煙幕は非常に濃く、近くの村の子どもが「昼なのに星が見えた」と証言した記録が残る。もっとも、同時代の航海日誌には「星に見えたのはイカの群れであった」との記載もあり、史料の解釈は割れている。
最終日の、島南西の珊瑚礁で両軍が接近戦となり、ナスィルは主艦の船首に大鍋を据えて熱油を注ぐ奇襲を敢行した。これにより敵艦3隻が航行不能となった一方、自艦も同じ熱油で甲板の滑り止めが失われ、味方兵27人が同時に転倒したと記録されている。戦闘は夕刻に収束したが、どちらが島を支配したかは最後まで明確にならなかった。
影響[編集]
戦後、ジュッセンパイヤー島は正式な併合を免れ、代わりに「三日交替の検問港」として運用されることになった。これは、ポルト・セレム王国とラカンド連合が、島の領有を棚上げしつつ関税収入のみを折半するという極めて珍しい合意であり、後のの先駆けとみなされている。
また、この戦いは香辛料戦争の単なる一幕ではなく、港湾戦術そのものに影響を与えた。特に、浮き桟橋を戦時に防壁へ転用する発想は、の周辺の臨時要塞にも引用されたとされる。なお、後世の軍事史家の中には、ジュッセンパイヤー島の戦いが「海戦というより税関の乱闘に近い」と評する者もいる。
島民のあいだでは、この戦いを契機に「帆をたたむ前に税を数える」という諺が生まれたとされる。もっとも、末に編纂された民俗集では、その諺が実際にはの漁師たちの賭け事から転用された可能性が指摘されている。
研究史・評価[編集]
同時代史料と再評価[編集]
末の年代記『海霧と胡椒の書』では、この戦いは「神が倉庫の鍵を取り違えた夜」と描写され、宗教的寓意として処理されている。一方、の密偵報告には、参加艦船数が「43隻ではなく41隻であった」との記述があり、以後の研究では兵力規模をめぐる議論が続いた。
に入ると、のが、島の海底遺構から焼損した船釘を採集し、熱油転倒説を再構成した。彼女は、戦闘の勝敗を決したのは砲火ではなく、むしろ潮の満ち引きと倉庫の並び方であったと結論づけたが、この見解は「港湾都市における空間の暴力性」を強調しすぎているとの批判も受けた。
また、に所蔵される写本断片には、両軍の兵士が戦闘中に同じ味噌入り粥を食べていた記録があり、これが交戦意欲を著しく低下させたともいわれる。もっとも、同資料は紙質がの再筆と一致しており、後世の脚色の可能性が高い。
近代歴史学における位置づけ[編集]
近代歴史学では、ジュッセンパイヤー島の戦いは「国家間戦争」と「交易共同体の自治闘争」の中間に位置づけられている。特にの研究では、戦闘そのものよりも、島の中立港化をめぐる制度設計が注目されてきた。
ただし、にで開かれた国際会議では、ある研究者が「戦いの実在性は高いが、日付だけが文書ごとに1か月ずれている」と発表し、会場が一時騒然となった。これに対し、別の研究者は「当時は太陰暦と潮汐暦が混在していたため、1か月程度のずれはむしろ自然である」と反論している。
この論争以後、ジュッセンパイヤー島の戦いは、史実の確定よりも「史料がどう戦いを物語化するか」を考える格好の事例として扱われるようになった。
遺産と影響[編集]
島の北岸にあった第七帆楼の跡地には、に小さな記念碑が建立された。碑文には「ここに税と潮が争い、潮のみが勝った」と刻まれており、観光案内ではしばしば「最も曖昧な戦勝記念碑」と紹介される。
また、との一部の港町では、戦いの日付に合わせて帆の結び方を競う祭礼が行われる。これは後世の創作が混じった風習とみられるが、地元では少なくとも以上続く伝承として語られている。近年では、海洋史の展示会で小型模型船と香料の匂いを再現する演出が定番となっている。
さらに、現代のゲーム史研究では、この戦いが「勝利条件の曖昧さ」を学ぶ教材としてしばしば引用される。すなわち、敵艦を沈めても港の税則が変わらなければ戦争は終わらないという、実務的でありながら妙に哲学的な教訓を残したのである。
脚注[編集]
1. ジュッセンパイヤー島の戦いを最初に体系化したのは、『Spice Ports and Floating Barricades』, 1968, pp. 112-131. である。
2. 島名の語源については、『東方交易港の異名と地名』, 1979, pp. 44-49. 参照。
3. 第七帆楼の機能については、“Custom Houses of the Coral Belt,” 『Journal of Maritime Antiquities』Vol. 14, No. 2, 2002, pp. 71-96.
4. 熱油転倒説については、“When Ships Slipped in Smoke,” 『Proceedings of the Royal Institute for Oceanic Studies』Vol. 22, No. 4, 1989, pp. 201-219.
5. ただし、の艦隊数は史料により31隻から34隻まで揺れがある。これは整備不良による途中離脱を含むかどうかの違いとされる。
6. 『海霧と胡椒の書』の写本系統については、『海上中立港の成立』, 1991, pp. 88-103.
7. による再発掘報告は、実際にはの調査船事故の直後にまとめられたため、記述の一部が過度に劇的であるとの指摘がある。
8. 所蔵の『Spice Ledger Fragment 7B』は、日付欄が帆布の焼け跡で読めないが、研究者の間ではしばしば決定的史料のように扱われる。
9. なお、戦闘中に味噌入り粥が配給された件はとされることが多いが、少なくとも「粥の粒度が武器の握りを鈍らせた」という記録は複数残る。
10. の議事録は公刊されていないが、参加者の私信が確認されている。
関連項目[編集]
脚注
- ^ A. Rahman『Spice Ports and Floating Barricades』Singapore Maritime Press, 1968.
- ^ 渡辺精一郎『東方交易港の異名と地名』海潮社, 1979.
- ^ M. S. Al-Khatib “Custom Houses of the Coral Belt” Journal of Maritime Antiquities, Vol. 14, No. 2, 2002, pp. 71-96.
- ^ Eleanor V. Hargreaves “When Ships Slipped in Smoke” Proceedings of the Royal Institute for Oceanic Studies, Vol. 22, No. 4, 1989, pp. 201-219.
- ^ K. Tanaka『海上中立港の成立』東京大学出版会, 1991.
- ^ N. Ibrahim “Taxation and Tide in the Jussenpajar Archipelago” The Archive of Indictable Seas, Vol. 7, No. 1, 1974, pp. 5-38.
- ^ 佐伯隆一『珊瑚礁の軍事地理学』南洋書房, 1986.
- ^ J. H. Wentworth “The Seventh Sailhouse and Its Afterlives” Bulletin of the Maritime Historical Society, Vol. 31, No. 3, 1997, pp. 144-168.
- ^ 田所みなみ『潮目と戦争の民俗誌』青鳴社, 2008.
- ^ F. de la Cruz “A Ledger, a Lantern, and a Lullaby: Sources for the Battle of Jussenpajar” Iberian Review of Oceanic History, Vol. 9, No. 2, 2015, pp. 233-255.
外部リンク
- 東南アジア海域史データベース
- ジュッセンパイヤー島古文書協会
- 海上中立港研究センター
- 香料戦争史料アーカイブ
- 架空海戦年表Wiki