ジョニーの涙
| 名称 | ジョニーの涙 |
|---|---|
| 別名 | Johnny's Tears / 泣き砂糖 |
| 発祥 | アメリカ合衆国東海岸の港湾地区とされる |
| 成立年代 | 1910年代後半 - 1930年代初頭 |
| 主材料 | 精製糖、塩化アンモニウム、柑橘抽出液 |
| 用途 | 保存食、儀礼菓子、慰撫用嗜好品 |
| 関連産業 | 舞台小道具、港湾食文化、移民互助会 |
| 代表的伝承地 | 、 |
| 研究機関 | 東亜民俗食品研究会 |
ジョニーの涙(ジョニーのなみだ、英: Johnny's Tears)は、20世紀前半のとの技術が混交して成立したとされる、の微細な結晶を主成分とする保存食兼嗜好品である。主にので普及したとされ、のちにでも「泣かせる菓子」として知られるようになった[1]。
概要[編集]
ジョニーの涙は、結晶化させた砂糖に微量の塩分と香料を含ませ、ひと粒ごとに涙滴状へ整形した食品である。見た目は小粒の琥珀飴に近いが、噛むと最初に強い甘味、その後に遅れて塩味と金属的な余韻が来るのが特徴とされる[2]。
名称の由来については、の港で働いていたイタリア系労働者ジョヴァンニ・“ジョニー”・マルティネッリが、貨物事故の慰謝と士気維持のために配ったのが始まりとする説が有力である。ただし、同時期の新聞には「泣いているのは労働者ではなく糖蜜の方だった」との記述もあり、起源は半ば寓話化している[3]。
成立の経緯[編集]
港湾労働者の間での成立[編集]
最初期のジョニーの涙は、沿岸部で配布された即席菓子であったとされる。長時間の荷役で塩分と糖分が同時に失われることに着目したのエドワード・L・ウィンスローが、にを極小比率で混ぜる処方を提案し、マルティネッリ家がこれを涙滴状に固めて配ったという[4]。
しかし、後年の回想録では、実際には菓子そのものよりも「配る仕草」に価値があったとされる。列の最後尾まで渡し切ると運が移る、というの俗信が加わり、菓子は次第に労務安全の御守りとして扱われるようになった。
劇場と移民街への拡散[編集]
頃になると、の小劇場群がこの菓子を楽屋用の差し入れとして採用した。舞台照明の熱で喉を乾かす俳優に向け、控え室で一粒だけ口に含ませると声が通ると宣伝され、のちに「泣ける芝居の前に食べる菓子」として定着した。
この時期の広告文には、ジョニーの涙を舐めた後に朗読するとの悲劇が2割ほど上手く聞こえる、という誇大な表現が見られる。なお、当時の演劇批評家は「甘味と悲哀を同じ紙袋に入れた最初の実験」と評している[5]。
製法と特徴[編集]
標準的な製法は、精製糖を150度前後で溶解し、柑橘由来の酸を少量加えたのち、涙滴型の金型へ落とし込むものである。冷却後に塩化アンモニウムを霧状にまぶすため、表面は甘く、中核はわずかに苦い。この構造が「喜びの外皮に悲しみの芯がある」と解釈され、宗教家からは不謹慎、民俗学者からは優れた象徴装置として扱われた。
特筆すべきは、一袋ごとに必ず1粒だけ不完全な形状のものを混ぜる慣習である。これは「完全な涙は作為的であり、欠けた涙こそ本物である」というの職人倫理に由来するとされるが、実際には型抜き時の歩留まり対策だった可能性が高い[6]。
社会的影響[編集]
労働運動との結びつき[編集]
のでは、ジョニーの涙が配給パンに代わる連帯の象徴として配られた。組合側は「泣きながらでも持ち帰れる賃金」と宣伝し、参加者数は一時的に通常の1.3倍に膨らんだと記録されている[7]。
一方で、雇用主側は「糖分依存を煽る政治的菓子」として持ち込みを禁じたため、逆に市場価値が上がった。禁制期には1箱あたり通常の4.8倍の価格で取引され、密売人が港の書類箱に紛れ込ませる事例が相次いだ。
日本への伝播[編集]
、経由で渡来した復員船員が、これを「泣き飴」として持ち帰ったことが日本国内での最初の受容とされる。特にとの喫茶店では、アイスコーヒーに合わせる小菓子として提供され、1960年代には百貨店の催事で「世界の涙菓子」として短期的なブームを起こした。
その後、和菓子職人のが黒糖と梅酢を用いた国産版を開発し、地方の土産物店に広がった。ただし、梅酢版は本家よりかなり酸っぱく、子ども向け試食会で泣き出す者が続出したため、販売促進には逆効果だったとも言われる。
批判と論争[編集]
ジョニーの涙をめぐっては、当初から「食品なのか慰霊具なのか」が議論されてきた。特に系の一部団体は、涙の形を大量生産することは悲嘆の記号を商品化する行為だとして批判したが、当事者団体は「悲しみを単独で抱え込ませないための共有装置である」と反論した。
また、にが行った成分分析では、標準品に法定上限ぎりぎりの塩化アンモニウムが含まれていたとされる。これにより一時は販売停止寸前となったが、業界団体は「涙は当然しょっぱい」という声明を出し、逆に一般認知を拡大させた[8]。
現代における位置づけ[編集]
現在のジョニーの涙は、の老舗菓子店との一部民芸菓子メーカーによって細々と継承されている。観光土産としては限定人気があるが、真に価値があるのは味よりも儀礼性であるとされ、卒業式、転職祝い、引退試合の差し入れなどに用いられることがある。
また、2020年代に入ると、涙滴形のグミやクラフトビールのフレーバー名としても流用され、ブランド名だけが先行する現象が起きた。なお、の文化人類学講座では、ジョニーの涙を「工業化された共感の最小単位」と呼ぶ小論が提出されている[9]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Margaret H. Ellison, 'Commodity Mourning in Early Harbor Districts', Journal of Urban Folklore, Vol. 18, No. 2, pp. 41-66, 1987.
- ^ 渡辺精一郎『港湾菓子の成立と移民共同体』東海民俗出版社, 1969.
- ^ Alfred J. Morton, 'The Tear-Shaped Confection and Labor Solidarity', American Social History Review, Vol. 22, No. 4, pp. 203-219, 1994.
- ^ 高井喜一『日本における泣き飴の受容』神戸文化叢書, 1978.
- ^ M. R. Clark, 'A Sweetness Too Sad for the Stage', Theatre and Society Quarterly, Vol. 7, No. 1, pp. 11-29, 1930.
- ^ 東亜民俗食品研究会編『涙滴菓子の比較民俗学』港都書房, 2003.
- ^ Edward L. Winslow, 'A Minor Sodium-Sugar Remedy for Dock Fatigue', Proceedings of the New Jersey Medical Association, Vol. 5, No. 3, pp. 118-123, 1919.
- ^ 島田葵『戦後輸入菓子の流通と記憶』みなと出版, 1991.
- ^ Peter R. Halden, 'Industrialized Empathy and the Portable Tear', Journal of Material Culture Studies, Vol. 14, No. 2, pp. 77-95, 2012.
- ^ J. A. Whitcomb, 'The Annual Tears Export Ledger of 1932', Port Commerce Archives Bulletin, Vol. 3, No. 9, pp. 1-14, 1933.
外部リンク
- 東亜民俗食品研究会デジタルアーカイブ
- ブルックリン港湾菓子保存委員会
- 神戸近代食文化資料室
- ジョニーの涙博物誌
- 移民菓子年表プロジェクト