トンブラ条例
| 正式名称 | 岩手県沿岸部風害軽減及び拍板掲示に関する条例 |
|---|---|
| 通称 | トンブラ条例 |
| 施行日 | 1954年4月1日 |
| 廃止日 | 1973年11月17日 |
| 対象地域 | 久慈市、宮古市、田野畑村ほか沿岸6地区 |
| 主務官庁 | 岩手県沿岸生活安定課 |
| 関係法令 | 地方風俗整理令、沿岸保全補則 |
| 通達番号 | 沿安第14号 |
| 愛称の由来 | 木製拍板の打音が「トン、ブラ」と聞こえたことによる |
トンブラ条例(トンブラじょうれい)は、北東部の沿岸部で定着したとされる、家屋の軒先に木製の拍板を掲げることで強風と塩害を回避するための地方条例である。制定の契機には28年の「久慈西方の逆潮事故」があったとされ、のちにとの一部で準備運動のように運用された[1]。
概要[編集]
トンブラ条例は、の沿岸漁村において、冬季の強風で家屋の戸締まりが損なわれることを防ぐ目的で成立したとされる地方条例である。条例名の「トンブラ」は、風見板を二度打ちする際の音を表す漁民語に由来し、後に役場文書上で定着したとされている。
一般には家屋の軒先に幅九寸以上の木板を掲げ、朝夕に二回ずつ叩くことで、潮風による「家の気荒れ」を鎮める制度として知られる。なお、県の公報では衛生・景観・避難誘導の三目的が掲げられていたが、実際には近隣同士の張り合いを抑えるための半ば儀礼的な側面が強かったとする見方がある[2]。
成立の背景[編集]
起源については、20年代前半の周辺でたびたび発生した「軒先逆戻り現象」がきっかけであるとされる。これは強風の日に洗濯物や漁網が同じ位置へ戻ってくるという奇妙な現象で、県立の前身組織が、塩分を含んだ気流が木材の共鳴を誘発していると報告した、という記録が残る。
当時の県議であったは、1952年の臨時沿岸対策協議会で「風に対しては硬さではなく、先に名乗らせるべきである」と発言したとされ、これが条例構想の原型になったとされる。ただし、この発言録は写ししか残っておらず、原本がの閲覧簿に突然二重登録されている点から、後年の脚色ではないかとの指摘もある[3]。
条例案は、漁港の整備と防潮林の植栽を巡る予算折衝の副産物として、内部の「沿岸生活安定課」が作成したとされる。文案では、板を掲げる行為そのものよりも、掲示時に「トン」「ブラ」と唱和することで住民の連帯感を高めることが重視されていた。
制度の内容[編集]
拍板の規格[編集]
条例第3条では、拍板は地元産のまたはを用い、厚さ一寸五分、長さ三尺二寸以上とされた。板面には所有者の氏名ではなく、家屋番号と「風受け等級」が焼き印で記され、等級はAからDまでの四段階であった。A等級の家は風に強いとされたが、実際には単に海から遠い家が多かっただけであると説明されている。
唱和と巡回[編集]
毎年二月第一土曜日には、地区ごとに「トンブラ巡回」が行われ、、消防団、婦人会、青年団が交代で拍板を打った。巡回は最長で四時間半に及び、最も風の強い重茂地区では、拍板を打つ順番を誤ると塩煙が逆流すると信じられていた。なお、1970年の記録では、参加者のうち17名が同じ節回しを三回以上繰り返し、結果として隣家の鶏が一斉に早産したとの報告がある。
運用と地域社会[編集]
条例の運用は、行政命令というより慣習法に近く、実務はの「風俗調整係」2名が担ったとされる。毎月の点検では、軒先の拍板の角度、縄の結び方、板に付着した潮の粒数まで確認され、報告書には「一棟あたり平均14.7粒」といった妙な統計が残された。
一方で、条例は沿岸部の冠婚葬祭にも影響を及ぼした。結婚式の前には新郎新婦が共同で拍板を打つ「双打ち」の習慣が広まり、これを行わない家は翌年の風当たりが強くなると考えられた。こうした慣行はの他地域にも波及したが、では魚市場の競りと時間が重なるため定着しなかったという。
また、条例の副作用として、板を叩く速さを競う「トンブラ早打ち大会」が自然発生し、1958年にはで観客3,400人を集めた。優勝者は平均秒間4.2回の打音を記録したが、審査員からは「音が軽すぎて風が聞き流してしまう」と評された。
批判と論争[編集]
条例は制定当初から、衛生名目の割に宗教的・儀礼的要素が濃いとして批判された。特にの民俗学者は、1961年の論文で「拍板掲示は風害対策ではなく、家長権の可視化装置である」と指摘し、沿岸生活安定課から強い反発を受けた。
また、風速計測を担当したの調査では、拍板の有無による実際の建物損耗率に統計的有意差は見られなかったとされる。しかし、同報告の脚注には「住民の安心感は有意に増大」とあり、これが条例存続の最大理由になったともいわれる[4]。このため、廃止論は常に「科学」と「納得」のどちらを優先するかの議論にすり替わっていった。
最終的には1973年、県の財政再建計画の一環として廃止された。ただし、廃止後もの一部では「旧トンブラ式」と呼ばれる板掲示が続き、現在でも台風前夜に物置の戸を二度叩く家があるとされる。
歴史[編集]
草創期(1950年代)[編集]
1954年の施行直後、対象は沿岸の42戸に限られていたが、半年で217戸に拡大した。県は「自発的参加が8割を超えた」と発表したが、実際には防潮堤工事の補助金申請に拍板設置が紐づいていたためであるとされる。
拡張期(1960年代)[編集]
1963年にはの県庁前広場で実演展示が行われ、来場者が1日で9,800人を記録した。これを機に県外メディアも取り上げたが、見出しは「風を打ち返す岩手の知恵」から「板を叩く県政の謎」へと変化していった。
終焉と残響(1970年代)[編集]
廃止時点の登録家屋は618戸で、維持費は年間約2,900万円に達していた。廃止後、拍板は観光土産化され、の売店では小型版が「出張トンブラ」として販売されたが、湿気で鳴りが変わるため返品率が高かった。
文化的影響[編集]
トンブラ条例は、の沿岸文化において、単なる行政措置以上の象徴として扱われた。民謡の歌詞に「トン、ブラ、海は黙る」といった一節が増え、学校教育でも「地域の知恵」として紹介された時期がある。
また、1980年代にはテレビ番組『県民ひろば』で特集が組まれ、出演した元消防団員が「うちは板を叩かないと祖父が落ち着かなかった」と証言し、視聴者投稿が相次いだ。これにより、条例は実在した行政制度というより、生活の不安を言語化するための共同幻想として再評価されるようになった。
近年では、の郷土資料館で毎年一度「トンブラの日」が設けられ、保存会による実演が行われている。もっとも、展示解説の最後には「当時の県資料には誇張が含まれる可能性がある」と小さく書かれており、学芸員の慎重さがうかがえる。
脚注[編集]
[1] 岩手県沿岸生活安定課『沿岸風害対策史料集 第一輯』1955年。
[2] 佐藤和雄「拍板儀礼と行政言語」『東北地方史研究』Vol.18, No.2, 1968, pp.44-57.
[3] 渡辺精一郎関係文書整理委員会『臨時沿岸対策協議会議事録写』岩手県公文書館内部資料, 1979.
[4] 県農試験場『風速計測と住民心理の相関に関する報告』第4巻第1号, 1971, pp.12-19.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 岩手県沿岸生活安定課『沿岸風害対策史料集 第一輯』1955年.
- ^ 佐藤和雄「拍板儀礼と行政言語」『東北地方史研究』Vol.18, No.2, 1968, pp.44-57.
- ^ 渡辺精一郎関係文書整理委員会『臨時沿岸対策協議会議事録写』岩手県公文書館内部資料, 1979.
- ^ 県農試験場『風速計測と住民心理の相関に関する報告』第4巻第1号, 1971, pp.12-19.
- ^ Margaret L. Haversham, "Administrative Rituals in Northern Coastal Japan" Journal of Regional Folklore, Vol.9, No.1, 1972, pp.88-103.
- ^ 山口泰三『岩手沿岸部における拍音慣行の変遷』北斗社, 1983年.
- ^ Takeshi Morinaga, "The Tonbra Effect and Community Compliance" Pacific Civic Studies, Vol.4, No.3, 1970, pp.201-219.
- ^ 高橋克己『風を叩く県政—トンブラ条例の成立と終焉—』陸奥新報出版局, 1991年.
- ^ Anne P. Kettering, "Boards, Bells, and Coastal Anxiety" The Quarterly of Unusual Ordinances, Vol.2, No.4, 1969, pp.33-41.
- ^ 岩崎鈴子『トンブラ条例と沿岸女性組織の参与』地方自治と民俗, 第11巻第2号, 1986, pp.5-22.
外部リンク
- 岩手県郷土行政資料アーカイブ
- 三陸民俗政策研究会
- 久慈市風俗史デジタルライブラリ
- 東北地方自治奇譚館
- 沿岸拍板保存会