ナマポ
| 正式名称 | 都市生活補給制度 |
|---|---|
| 通称 | ナマポ |
| 発祥 | 東京都神田区(当時) |
| 成立時期 | 1931年頃とする説が有力 |
| 管轄 | 旧厚生省 生活救済局 |
| 主な対象 | 単身労働者、失職者、長期療養者 |
| 特徴 | 週単位の現物給付と共同調理 |
| 影響 | 戦後の地域福祉と配食事業に影響 |
| 別名 | 生ポ、ナマップ |
ナマポは、初期の都市労働者の間で発生したとされる、即席の栄養補給と共同炊事を兼ねた生活支援制度である。のちに内の一部区役所を中心に制度化され、特に戦後の・周辺で独自の発展を遂げたとされる[1]。
概要[編集]
ナマポは、本来はを略した俗称であるとされるが、実際には後の仮設住居群で使われた炊き出し札が起源であったという説が有力である。札には支給区分ごとに色があり、赤はパン、青は粥、黒は味噌汁とされ、受給者は朝夕にの共同給食所へ通ったという。
制度としてのナマポは、が1930年代半ばに進めた「現金ではなく生鮮物を直接渡す」試験事業に由来するとされる。ただし、当初は事務効率が悪く、の配給所では毎月約1,400件の誤配が出ていたと記録されている[2]。このため、戦後には現物給付から定額補助へと転換されたが、名称だけが俗語として残ったとされる。
歴史[編集]
発祥期[編集]
1920年代末、の余剰野菜を利用した「生のまま渡す補助」が試みられ、これを受け取る窓口で「今日はナマでポンと渡される」と言われたことから、略してナマポと呼ばれたとする民間説がある。もっとも、当時の記録ではこの呼称は一度も使われておらず、後年の職員・渡辺精一郎が回想録で用いたのが最初とみられている。
1934年にはに「臨時生活補給相談所」が設置され、週3回の面談と月2回の米・乾麺の給付が行われた。相談票の裏面には「炊事能力・保存容器・近隣協力度」の欄があり、特に保存容器を持たない世帯は優先支給されたという。
制度化と拡張[編集]
13年、旧厚生省の内部通達「生活補給第三号」により、ナマポは全国12府県の試行制度として拡大された。試行地区には、、が含まれ、支給物資は米5合、干し大根1束、石鹸2個、そして冬季のみ「感謝状1枚」とされた。
この時期、の一部支部が配送協力を行ったほか、民間の魚市場からも端材の提供があったため、受給者の間では「今日は鯵の日」「今日は紙の日」など、給付内容によって一日の呼び名を変える慣習が生まれたとされる。なお、であるが、週末にだけ支給される「豆腐券」が家庭内の権威争いを激化させたとの証言もある。
戦後の再編[編集]
戦後の混乱期には、ナマポはの指導下で「都市生活再建補助」に再命名される予定であったが、現場職員が印鑑を作り替える予算を確保できず、結局は旧来の略称がそのまま残ったという。1952年にはの配給所で1日平均286人が利用し、月末の「麦切れ」時には職員が近隣の製麺所を自転車で回っていたと記録されている。
1958年にはの試験事業で、受給者が自ら炊事班を組織し、米を受け取る代わりに「調理奉仕」を行う方式が導入された。これにより、一人当たりの支給量は減ったが、近隣トラブルは約18%減少したとされる。もっとも、その算定方法は区内会館のアンケートのみで行われたらしく、統計としての信頼性には疑義がある。
制度の仕組み[編集]
ナマポの特徴は、現金ではなく物資・技能・共同体参加を一体で扱った点にある。受給者は月1回の面談で生活状況を申告し、、、のいずれか、または複数を組み合わせて受け取ったとされる。
また、支給額は世帯構成ではなく「台所稼働指数」に基づいて算定された。これは炊飯器の有無、窓の向き、近隣に井戸があるかどうかまで加味する、極めて複雑な方式であった。1956年版の運用手引書は全418ページに及び、実務担当者の9割が第3章までしか読まなかったという記録が残る[3]。
一方で、制度の柔軟さは評価され、では季節性の体調不良者に対し「朝の卵追加」が認められた。これが後の学校給食の副食増量に繋がったとする研究もあるが、両者の関係はなお議論の余地がある。
社会的影響[編集]
ナマポは、都市部の困窮者支援を可視化した最初期の制度の一つとされ、や町内会の配食活動に間接的な影響を与えたとされる。特に沿いでは、共同炊事の運営経験が戦後の防災訓練に転用され、非常時の「一斉鍋炊き」手順として残った。
また、制度名があまりに短く、新聞の見出しに使いやすかったことから、1950年代後半の夕刊では月に平均7回「ナマポ問題」という表現が登場したとされる。これにより、制度そのものよりも略称だけが独り歩きし、後年の俗語化につながったという。なお、であるが、当時の小学生の間で「今日はナマポ当番」という遊びが流行したとの証言もある。
文化面では、の寄席で「ナマポ師匠」と呼ばれた漫談家が現れ、配給所での人間模様を題材にした小噺が人気を博した。彼の演目「米袋の礼」は、実際の給付手続きよりも長いと評され、観客が途中で帰ることを前提にした二部構成だったという。
批判と論争[編集]
制度運用については、受給条件が曖昧で、ごとに解釈が異なったことが批判された。とりわけでは、面談担当者が盆栽の手入れ状況まで考慮していたとされ、「生活の安定と盆栽の剪定は無関係である」との抗議が相次いだ。
また、現物給付のために保管庫が不足し、では魚の切り身と石鹸が同じ棚に置かれる事例が発生した。これを受けて、1959年の内部監査では「制度は善意で動いているが、棚卸しで破綻している」と総括された。さらに、一部の高齢受給者が米よりも茶葉を好んだため、支給品の希望調査が毎回複雑化し、職員が「配るより聞くほうが重労働である」と述べた記録がある。
もっとも、制度を完全に否定する声ばかりではなかった。地域の商店主の間では、ナマポの配給日に合わせて売れ残りが減少するため、景気の「底割れ防止装置」として機能したとの見方もあった。
終焉と遺産[編集]
1960年代後半、ナマポは全国制度としては整理・統合され、現金給付中心の別制度へ吸収されたとされる。ただし、下の一部地区では「週一回の生鮮受け取り」と「相談員の見回り」が1969年まで続き、完全廃止には至らなかった。
制度の名残は、現在も地域福祉の現場に見られる。たとえばの子ども食堂の一部では、開設当初に「ナマポ倉庫」と呼ばれた保管室を再利用しており、職員の間では古いラベルをそのまま使う慣習が残っているという。また、地方自治体の研修資料では、ナマポの失敗例として「配る物が多すぎると支援の意味がぼやける」という教訓が引用されることがある。
なお、研究者の中には、ナマポを「戦前日本における生活保護の原型」ではなく、「共同炊事文化の延長線上にある都市互助システム」と見る立場もある。いずれにせよ、制度名の軽さとは裏腹に、その運用には相当の行政的重みがあったと評価されている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『都市生活補給制度の研究』生活史研究会, 1961年.
- ^ 佐々木春彦「昭和前期における現物給付政策」『社会政策史学』Vol. 8, No. 2, pp. 114-139, 1974年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Municipal Relief and Seasonal Provisioning in Tokyo", Journal of Urban Welfare Studies, Vol. 12, Issue 4, pp. 201-228, 1983.
- ^ 山本久美子『配給所の記憶――墨田川沿いの福祉史』青灯社, 1992年.
- ^ Takeshi Morita, "The Lunch Ticket System and Informal Kitchens", East Asian Social History Review, Vol. 19, No. 1, pp. 33-67, 2001.
- ^ 鈴木良平『生活救済局文書目録 1931-1954』東京都公文書館出版, 2007年.
- ^ Emilio R. Varga, "Rations, Rice, and Reciprocity in Postwar Japan", Comparative Municipal Policy Quarterly, Vol. 6, No. 3, pp. 88-121, 2010.
- ^ 小林澄子『台所稼働指数という発想』公共扶助評論社, 2014年.
- ^ 高橋伸吾「ナマポと呼称の独立性について」『都市言語と制度』第3巻第1号, pp. 5-19, 2018年.
- ^ 中村咲子『配る行政、聞く行政――戦後福祉の現場から』みすず書房, 2022年.
- ^ J. P. Ellingham, "When Soup Became Policy: The Tokyo Experimental Relief File", Municipal Archives Bulletin, Vol. 4, No. 2, pp. 41-59, 1979.
外部リンク
- 都市生活補給史資料室
- 東京市社会局アーカイブ
- 戦後配給文化研究会
- 共同炊事年表データベース
- 旧厚生省文書閲覧室