フリューゲル糾創都市国家社会主義労働者ポムポム党事件
| 事件名 | フリューゲル糾創都市国家社会主義労働者ポムポム党事件 |
|---|---|
| 年月日 | 1962年11月14日 - 11月19日 |
| 場所 | 大阪市港湾再編区、大阪港、此花埠頭 |
| 結果 | 政府側の鎮圧、党組織の解体、首謀者の国外逃亡 |
| 交戦勢力 | 糾創都市国家社会主義労働者ポムポム党 / 近畿臨時治安連合・港湾警備隊 |
| 指導者・指揮官 | フリードリヒ・ポム、松井重彦、国枝トキオ |
| 戦力(兵数) | 党側約1,860名、政府側約4,300名 |
| 損害 | 死者214名、負傷者約670名、行方不明31名 |
フリューゲル糾創都市国家社会主義労働者ポムポム党事件(ふりゅーげるきゅうそうとしこっかしゃかいしゅぎろうどうしゃぽむぽむとうじけん)は、37年()に港湾再編区で起きた内乱である[1]。港湾労働者団体と都市再建派の武装衝突に端を発し、のちに一帯を主戦場として行われた短期政変として知られる[1]。
背景[編集]
この事件は、後半におけるの再開発と、初頭の港湾労働争議が複雑に絡み合ったことに端を発するとされる。とりわけ周辺では、埋立地の再編計画により倉庫街の立ち退きが進められ、これに反発した労働者組合の一部が、独自の自治機構としてを名乗った[2]。
は、もとは出身の港湾技師であったが、に経由で来日し、倉庫火災の復旧計画に携わった人物であるとされる。彼は都市を「機能で編成し直すべき生体」とみなす独自思想を説き、これが労働者の一部に受け入れられた。一方で、党名に含まれる「ポムポム」は、当初は荷役用の緩衝球を指す現場用語であったが、のちに掛け声化し、集会では拍子木の代わりに用いられたとする説が有力である[3]。
当時の当局は、港湾の再開発を国策として推進していたが、住民移転の補償額をめぐって不満が高まっていた。また、が臨時編成された上旬には、武器流入を示す密輸船の摘発が相次ぎ、事件直前には方面で小規模な放火が三件、倉庫の窓ガラス破損が41件確認されている[4]。
経緯[編集]
開戦[編集]
未明、糾創都市評議会の決議を受けた党員約600名がを封鎖し、税関施設と連絡桟橋を占拠した。彼らは「都市の労働による再創造」を掲げ、赤と橙の二色旗を掲揚したが、旗布の縫製が粗く、の速報映像では一部が風で裏返って党章が読めなくなっている[5]。
これに対し、府警機動隊と港湾警備隊が出動し、午前7時40分ごろに最初の銃撃が発生した。党側は倉庫クレーンを即席の遮蔽物として用い、からの朝霧を利用して隊列を分散させたが、警備側は無線傍受により補給経路を把握し、9時台には沿岸へ迂回部隊を展開した。
展開[編集]
中盤ではの冷凍倉庫群をめぐる攻防が最大の焦点となった。党側の国枝トキオは、港湾労働者の支援を受けて大型フォークリフト18台を改造し、車体前部に鉄板を溶接した「移動壁」を投入したと記録される。一方で、政府側はの直接投入を避け、あくまで治安出動の範囲にとどめたため、現場では消防局の放水車が遮断線の形成に使われた[6]。
この局面で、率いる一隊が沿いの配電塔を制圧し、港湾全域の停電を引き起こした。停電は27分間続き、その間に党側は放送車を用いて「都市憲章の即時公布」を宣言したが、アナウンスの一部が混信し、近隣の市場では実際に「ポムポム割引」が始まったという逸話が残る。
転機と結末[編集]
事件の転機は夜、の西防波堤で起きた爆発である。公式には党側の火薬庫が誤爆したとされるが、破片の飛散方向からみて外部からの迫撃があったとの指摘もある[要出典]。この爆発により党本部が設置されていた倉庫棟が炎上し、フリードリヒ・ポムは方面へ退避したのち、翌日未明に小型貨物船で国外へ脱出した。
午後、残存部隊は集団降伏し、事件は実質的に終結した。港湾再編区では停戦後も散発的な投石が続いたが、の非常議会で「都市秩序回復条例」が可決され、評議会は解散された。なお、降伏文書の末尾に「ポムポムの鼓動、なお未完」と記されていたことが後年まで引用され、事件を象徴する文句となった。
影響・戦後・処分[編集]
事件後、は港湾労働者の大規模な身元再審査を実施し、約1,200名が一時的に就労停止となった。首謀者とみなされた松井重彦はにで無期懲役判決を受け、国枝トキオは証言取引により懲役18年となった。フリードリヒ・ポムはへ逃れた後、で都市計画顧問を名乗ったが、の雑誌インタビュー以降は消息不明である。
また、この事件を契機として、港湾地区の自治運営と労働者協議会の関係を整理するため、が制定されたとされる。同法は、倉庫の転用届出を年4回から月1回に変更し、さらに拡声器の出力を85デシベル以下に制限したことで知られている。これにより暴力的衝突は減少した一方、労働歌の合唱が「行政上の騒音」として扱われるなど、奇妙な副作用も生じた[7]。
社会的には、事件は「都市再編における労働者参加の限界」を示す典型例とされるが、同時にポムポム党が掲げた配給制度の一部は後年の港湾福利厚生に取り入れられた。特に、夜勤者へ温食を配る「第二朝食制度」は、代までの一部倉庫で存続した。
研究史・評価[編集]
研究史上、当初は単なる暴動として扱われたが、以降は都市政治と労働運動の交差点として再評価が進んだ。のは、事件を「港湾の近代化が生んだ制度疲労の噴出」と位置づけ、党の急進性よりも行政の硬直性を強調した。一方、のは、党の宣伝文書に見られる語彙が系の技術用語との口語を奇妙に混ぜた独特の文体であったことから、半ば演劇的な政治運動であったと論じている[8]。
ただし、近年の研究では、事件当夜の兵数や死者数には大きな幅があり、公式記録の214名という数字は過少である可能性が指摘されている。また、党が実際に「国家社会主義」を掲げていたのか、それとも港湾管理会社への皮肉として後年貼られた名称なのかについても見解が割れている。特に所蔵の匿名手記では、参加者の多くが党名を正確に言えず、単に「ポムの集まり」と呼んでいたことが記されている[9]。
評価は割れているが、都市史の文脈では、日本における大規模な政変の一つとして参照されることがある。もっとも、戦闘現場における移動壁や配電塔占拠などの逸脱的手法が強く印象づけられたため、学術的な議論よりも、テレビ再現ドラマや港湾博物館の常設模型で有名になった側面が大きい。
関連作品[編集]
事件は後年、複数の作品に翻案された。映画『』()は、実際の攻防を元にしつつ、フリードリヒ・ポムを寡黙な都市建築家として描き、配給パンが空中で回転する長回しで話題となった。
また、テレビドラマ『』(・)では、国枝トキオを演じたの演技が高く評価され、放送当時の視聴率は関西地区で21.4%を記録したとされる。なお、劇中で用いられた「ポムポム行進曲」は実在の労働歌ではなく、編曲者が現場のサイレン音を譜面化したものとされている[10]。
ほかに、による舞台『』、評論集『』などがあるが、後者は事件後の倉庫犬の増加を論じた章が過剰に有名となった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 佐伯良介『大阪港政変史の再構成』関西近代史研究会, 1994, pp. 41-89.
- ^ 中村桂子『都市再編と労働者神話』東京大学出版会, 2002, pp. 112-146.
- ^ Martin H. Keller, The Pompom Doctrine and Urban Insurgency, Vol. 18, No. 3, Cambridge Journal of Port Studies, 1988, pp. 201-233.
- ^ 藤原昌平『港湾再編区の政治社会学』ミネルヴァ書房, 1979, pp. 9-58.
- ^ Eleanor P. Whitfield, Workers, Whistles, and Warehouses, Vol. 7, No. 2, Journal of East Asian Civic History, 1991, pp. 77-104.
- ^ 大阪市立中央図書館編『此花埠頭聞き書き集』大阪市文化資料刊行会, 1981, pp. 155-190.
- ^ 国枝トキオ『停電二十七分の記録』港湾資料社, 1968, pp. 3-29.
- ^ 平井栄一『労働歌と拡声器の戦後史』岩波書店, 2009, pp. 201-247.
- ^ Naomi L. Carter, The Theory of Moving Walls, Vol. 2, No. 1, Osaka Urban Review, 1976, pp. 1-19.
- ^ 渡辺精一郎『糾創都市とその犬たち』新潮社, 1987, pp. 88-133.
外部リンク
- 大阪港歴史アーカイブ
- 近畿港湾政変研究所
- 糾創都市事件資料館
- ポムポム党文書室
- 関西戦後都市史データベース