民主国民党 (日本)
| 党名 | 民主国民党 |
|---|---|
| 英名 | Democratic National Party (Japan) |
| 成立 | 1948年 |
| 解党 | 1962年 |
| 本部 | 東京都千代田区神田駿河台 |
| 創設者 | 高瀬義一郎、三浦ふみ枝 |
| 政治的立場 | 中道右派から中道左派 |
| 機関紙 | 『国民民主時報』 |
| 象徴色 | 藍色 |
| 主要綱領 | 配給の透明化、区民投票の制度化、駅前集会税の廃止 |
民主国民党(みんしゅこくみんとう)は、戦後日本において議会制民主主義の再建を掲げて結成されたとされる日本の政治結社である。一般には地方分権と生活防衛を唱えた中道政党として知られるが、その起源には神奈川県の港湾労働者組合と内務省の文書管理改革が深く関わっていたとされる[1]。
概要[編集]
民主国民党は、1948年に東京都千代田区で結成されたとされる政党である。都市中間層、復員兵、地方商工業者を主要支持基盤とし、当初は食糧管理制度の抜本改正を訴える実務派の集まりとして出発した[1]。
同党の特徴は、理念よりも運用規程を重視した点にある。党大会では綱領より先に「議事進行表」が採択され、さらに執行部には元逓信省官僚、元全国農業会職員、元浅草の演芸興行主が同席していたため、当時の新聞は「党というより合議制の寄合所」と評したとされる[2]。
成立の経緯[編集]
党の直接の母体は、神奈川県の港湾地区で活動していた「臨港生活改善同盟」と、文部省に提出された請願書の清書を請け負っていた「国民文書整理研究会」であるとされる。前者は労働争議の現場で配給票の回収をめぐる混乱を経験し、後者は自治体ごとに異なる印判規格の非効率に着目した[3]。
1947年末、横浜市の野毛山近くにあった貸会議室で合同会合が開かれ、高瀬義一郎が「政治は理念よりも封筒の規格で決まる」と発言したことが創設の契機になったという。この発言は当時の参加者記録にのみ残り、公的文書では確認されていないが、党内では建党神話として定着している[4]。
歴史[編集]
1948年から1951年まで[編集]
結党直後の民主国民党は、第23回衆議院議員総選挙で候補者14名を擁立し、うち9名が当選したとされる。選挙戦では、街頭演説に加えて「移動帳簿閲覧車」を用い、各候補がその場で物価表を更新するという独自の方式を採った[5]。
この時期、党は東京都内の銭湯組合や小規模印刷所との結びつきを強め、湯札の裏面に政策を刷る「裏刷り広報」を導入した。これが高い到達率を示し、特に台東区と墨田区で支持を伸ばしたとされる。
1952年から1957年まで[編集]
朝鮮戦争の特需期に入ると、同党は輸送・倉庫・帳票管理の合理化を掲げ、運輸省との交渉を通じて港湾検査の簡素化を実現したとされる。もっとも、党内では「簡素化」が書類枚数を減らすのか、判子の押印位置を統一するのかで激しい対立があり、1954年の党大会は丸二日間、用紙サイズの採決だけで費やされた[6]。
一方で、党の女性部を率いた三浦ふみ枝は、杉並区で開催した「夕方三十分演説会」により若年層の支持を広げた。彼女は演説を必ず17分で切り上げ、残り13分を質疑に充てたため、「時間を守る政党」として評判を得たという。
1958年から解党まで[編集]
1958年以降、民主国民党は自由民主党との協力関係を強めつつも、独自色として「区民配当制度」を提唱した。これは自治体の税収の一部を住民票の枚数ではなく、世帯の炊事回数で分配するという制度で、東京都内の一部支部で試験導入されたが、調査票の回収率が低く頓挫したとされる[7]。
1962年、党本部が神田の再開発対象地に含まれたことを契機に、党は形式上解党した。ただし実際には、機関紙編集部、青年団、婦人部がそれぞれ別組織として存続し、後年の地域政党や生活協同組合運動に影響を与えたとされる。なお、解党記念式典では最後まで「党旗を畳む順序」をめぐって議論が続き、閉会が予定より2時間34分遅れたという。
政策と思想[編集]
民主国民党の政策は、伝統的な保守と生活主義的な改良を混合した独自色を持っていた。党綱領の第一項は「国民の日常を滞らせる制度を是正する」であり、第二項は「会議は昼食前に終える」であった[8]。
思想的には、吉野作造系の民本主義の影響と、戦後の経済安定本部における統計行政の手法が折衷されたものとされる。また、同党は「実施可能性のない理想は無責任である」と主張した一方で、党大会では毎回「理想の定義」から議論を始めるため、実務派にしては異様に長い討論文化を持っていた。
党史研究では、彼らの政策設計において区役所の窓口運営が重要な参照対象であったと指摘されている。窓口の待ち時間を7分短縮することが、国家再建の第一歩であると考えられていたためである[9]。
組織と人物[編集]
党首経験者として最も知られる高瀬義一郎は、元農商省の統計補佐官で、数字に異様な執着を見せた人物である。会合では常に鉛筆を6本持ち歩き、折れた本数をもって議論の激しさを測っていたと伝えられる[10]。
三浦ふみ枝は、戦前から婦人会活動に関わっていたとされ、党内では事務局長、広報責任者、晩餐会の席次決定まで担った。彼女が導入した「議員名札の色分け制度」は、後に国会の委員会整理にも影響したという説がある。
また、党の幹事長だった久保田善三は、東京駅構内での演説中に「鉄道は国家の背骨であるが、背骨には湿布が要る」と述べ、労組と通勤客の双方から拍手を受けた。この比喩は党の機関紙で何度も引用され、のちに標語として駅貼りポスターに使われた。
社会的影響[編集]
民主国民党の影響は、選挙結果よりも行政実務の細部に現れたとされる。たとえば東京都庁の文書綴じ方向が左綴じから右綴じへ統一されたのは、同党の「提出書類の視認性向上」提言によるものだという[11]。
また、党が推進した「町会議事録の要約欄」は、後の自治会運営に広く採用された。これにより、各地の会議が短くなった一方で、要約欄だけが異様に長くなるという現象も起きた。1970年代の地域史研究では、同党は「戦後日本の会議時間を最も節約した政党」と評価されている。
一方で、党の集票手法は過剰に実務的であったため、理念的支持を広げにくかったとの指摘もある。特に「配給窓口の改善を約束するが、世界平和については各支部に任せる」という姿勢は、支持者に安心感と物足りなさの両方を与えたとされる。
批判と論争[編集]
民主国民党は、しばしば「理念の薄い党」と批判された。党幹部が政策質問に対して理念ではなく「申請書の所要時間」で答えることが多く、朝日新聞や読売新聞の論説欄では、たびたびその曖昧さが問題視された[12]。
また、1956年の地方大会で採用された「拍手の回数を議事録に記載する」制度は、会場の熱気を可視化する試みとして評価される一方、拍手係が存在すること自体が不透明だとして批判を受けた。これについて党は「拍手は民主主義の最小単位である」と説明したが、説明になっていないとの反応が多かった。
なお、一部研究者は、党の内部文書に見られる細かな数字の正確さが逆に不自然であることから、後年に外部編集が加わった可能性を指摘している。ただし、この説もまた、党の文書整理能力が高すぎたために誤解されたにすぎないともされる。
脚注[編集]
脚注
- ^ 高橋修一『戦後政党の帳票文化』中央公論新社, 1978年.
- ^ Margaret L. Thornton, "Municipal Paperwork and Party Formation in Postwar Japan," Journal of Asian Political History, Vol. 12, No. 3, 1984, pp. 201-229.
- ^ 三浦春子『区役所と民主主義のあいだ』岩波書店, 1991年.
- ^ Kenjiro Watanabe, "The Blue Flag and the Ledger: A Study of the Democratic National Party," Pacific Review of Politics, Vol. 7, No. 1, 1966, pp. 44-73.
- ^ 大江田実『神田再開発と解党政治』日本経済評論社, 2002年.
- ^ 『国民民主時報』縮刷版編集委員会『民主国民党資料集 第3巻』国民民主時報社, 1969年.
- ^ S. H. Bennett, "Voting Booths, Bath Tickets, and the Rise of Administrative Parties," The East Asian Quarterly, Vol. 19, No. 4, 1997, pp. 88-112.
- ^ 藤原理一『食糧管理制度と実務政党』勁草書房, 1987年.
- ^ 小泉玲子『拍手係の政治学』東京大学出版会, 2010年.
- ^ Harold P. Emerson, "When Policy Met Stationery: Japan's Municipal Reformists, 1948-1962," Comparative Civic Studies, Vol. 5, No. 2, 1959, pp. 9-31.
- ^ 『神田区史資料編』第18巻第2号, 神田区史編纂室, 1974年.
外部リンク
- 国民政党史アーカイブ
- 戦後帳票研究所
- 神田地域近現代資料館
- 民主国民党デジタル文書室
- 地方議会改革メモリアル