フール・エイプリル
| 氏名 | 藤堂 春月 |
|---|---|
| ふりがな | とうどう はるつき |
| 生年月日 | 1887年4月1日 |
| 出生地 | 京都府京都市下京区 |
| 没年月日 | 1951年11月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 奇術師、広告文案家、暦研究者 |
| 活動期間 | 1908年 - 1949年 |
| 主な業績 | フール・エイプリルの提唱、反転式告知法の確立 |
| 受賞歴 | 帝都演芸協会特別名誉賞(1938年) |
藤堂 春月(とうどう はるつき、 - )は、の奇術師、広告文案家、暦研究者である。四月一日の「逆説的祝祭」を制度化した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
藤堂 春月は、末期から中期にかけて活動した日本の奇術師である。彼は「フール・エイプリル」と呼ばれる四月一日の偽装祝祭を体系化した人物として知られる[1]。
フール・エイプリルは、単なるの翻案ではなく、広告、演芸、学校行事、商店街の販促を横断する複合的な社会技法として成立したとされる。春月はの興行師たちやの新聞広告部と連携し、年に一度だけ“嘘を公共財に変える”運動を広めたという[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
藤堂 春月は、の提灯問屋の長男として生まれる。幼少期から帳簿の数字を反転して読む癖があり、家人のあいだでは「裏返しの春月」と呼ばれていたという[3]。
の寺院で暦の講釈を聴いたことを契機に、彼は日付そのものが人を驚かせる装置になりうると考えたとされる。なお、12歳のころに近隣の商家へ偽の配達札を配り、1日で42件の混乱を生じさせた逸話が残るが、出典は不明である[要出典]。
青年期[編集]
春月はにへ移り、の寄席で見習い奇術師として修業した。後年の回想録によれば、彼は門下の無名助手に師事したとされるが、同門録には名前が見当たらない。
この時期、春月は広告業者の支店と接触し、商品の発売日を“わざと曖昧にする”ことで注目を集める手法を試みた。1909年3月31日には、歯磨き粉の新製品を「翌朝には国民の八割が笑う」と予告し、実際には6割3分の購買増にとどまったとされる[4]。
活動期[編集]
、春月はへ拠点を移し、の小劇場で「フール・エイプリル宣言」を初めて口頭発表した。ここで彼は、四月一日を「失敗の許される一日」ではなく「虚構を共同で演じる一日」と定義し、演芸界に衝撃を与えた。
8年にはの別刷広告欄に、架空の蒸気機関車「月光号」の開通告知を掲載させた。翌朝の問い合わせが2,130件に達し、うち37件は実際に駅名簿の改訂要求であったという。これを契機として、春月はの実務委員に準ずる扱いを受けた[5]。
前後には、商店街向けに「反転式告知法」を講義し、真実の情報を先に小さく、虚偽の情報を後に大きく見せる配列を考案した。彼の講習会はとで合わせて19回開かれ、参加者はのべ1,476人に及んだとされる。なお、最終講座では受講者全員に“本日は休講”と記した受講票が配られ、半数がそのまま帰宅したという。
晩年と死去[編集]
戦時中、春月の活動は一時停滞したが、にの貸席で小規模な復活公演を行った。ここでは「嘘を禁じるほど人は嘘を欲する」とする持論を述べ、聴衆83人のうち11人が泣いたと記録されている[6]。
11月3日、春月はの湯河原で死去した。享年64。死因は胃潰瘍とされる一方、本人が「四月一日を待ち続けた結果、季節に取り残された」と語ったという伝聞もあり、後世の研究者の笑いを誘っている。
人物[編集]
春月は、几帳面である一方、日常会話の端々に仕掛けを入れる癖があった。たとえば名刺の肩書きを日によって「文案家」「観測士」「暦の案内人」と変え、受け取った相手がどれを信じるかを試したという。
また、彼は猫を連れて講演することを好み、猫が壇上を横切ると話がいっそう真実らしくなると信じていた。これについて弟子のは「師は嘘を語るのではなく、受け手の確信を設計していた」と回想している。
一方で、春月は極端な倹約家でもあり、湯呑みの茶渋の濃さをもとに来客の滞在時間を見積もっていた。彼の自宅には、未使用のだまし絵ポスターが1,204枚保管されていたという。
業績・作品[編集]
春月の業績として最も知られるのは、フール・エイプリルの制度化である。彼は四月一日を中心に、学校・劇場・商店街・新聞の各領域で同時多発的に“軽度の虚偽”を流通させることにより、都市の緊張を緩和するという理論を提唱した。
代表作には、講演集『嘘の使い方入門』(1921年)、広告文案集『反転する告知』(1928年)、暦随筆『三月三十二日のために』(1934年)がある。とくに『三月三十二日のために』は、の一部会員から「日付概念への反逆である」と批判されたが、実売部数は推定5万部に達した。
また、春月はに「白紙広告」という手法を考案した。これは広告面の半分を白く残し、読者自身に語られなかった文言を想像させるもので、後のや商業キャンペーンに影響したとされる。なお、晩年には「四月一日は毎週あってもよい」と主張し、関係者を困惑させた。
後世の評価[編集]
戦後、春月の評価は二分された。広告史の分野では「情報操作とユーモアの境界を可視化した先駆者」とされる一方、教育史の側では「児童に不要な疑心暗鬼を与えた」と批判された[7]。
以降は、内の演芸資料館やの民俗学研究会によって再評価が進んだ。とくにの開催に合わせて、春月の白紙広告が“都市の余白をつくる表現”として紹介され、若手デザイナーに影響を与えたという。
ただし、フール・エイプリルの実施規模については研究者の間で見解が割れており、商工会資料に現れる数値がしばしば大きく誇張されているとの指摘がある。ある研究では、春月の講座参加者のうち実際に内容を理解していた者は全体の14%に過ぎなかったと推定されている。
系譜・家族[編集]
春月の父は、母はで、いずれも京都の商家に連なる家系であったとされる。妻はで、春月の広告原稿を毎朝3本まで朱で直したという。
子女は長男の、長女のの2人がいた。俊彦は戦後に印刷会社を営み、さやはで児童劇の演出に携わった。なお、孫の代には「嘘をつくときは必ず日付を添える」という家訓が残ったとされるが、これは春月本人の創作とみられている。
また、春月の従兄にあたるはの写真館主で、フール・エイプリル初期のポスター制作を手伝った。家族史研究では、この直之助が“現実を少しだけずらす構図”を春月に教えたという説がある。
脚注[編集]
[1] 藤堂春月研究会編『藤堂春月年譜草案』私家版、1978年。 [2] 大隅義彦「四月一日の公共性」『広告史研究』Vol.12 No.3、pp.44-61。 [3] 京都府立文書館所蔵『藤堂家帳簿断簡』、箱17-4。 [4] 北川朔太郎『反転式告知法の実際』春灯社、1931年。 [5] 東京広告協会資料編纂室『大正期広告運動覚書』第2巻第1号、pp.9-28。 [6] 湯河原文化保存会『春月小伝と終焉』、1959年。 [7] Margaret A. Thornton, “The April of Falsehoods in East Asia,” Journal of Performative Commerce, Vol. 8, No. 2, pp. 113-139。 [8] 斎藤菊枝『暦と虚構の民俗学』民話出版、1984年。 [9] H. Watanabe, “White Space Advertising and Civic Laughter,” Tokyo Review of Media Studies, Vol. 4, No. 1, pp. 2-19。 [10] 『三月三十二日のために』復刻委員会編『藤堂春月全集・補遺』第5巻第4号、pp. 201-260。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 藤堂春月研究会編『藤堂春月年譜草案』私家版, 1978.
- ^ 大隅義彦「四月一日の公共性」『広告史研究』Vol.12 No.3, pp.44-61.
- ^ 北川朔太郎『反転式告知法の実際』春灯社, 1931.
- ^ 東京広告協会資料編纂室『大正期広告運動覚書』第2巻第1号, pp.9-28.
- ^ 湯河原文化保存会『春月小伝と終焉』, 1959.
- ^ Margaret A. Thornton, “The April of Falsehoods in East Asia,” Journal of Performative Commerce, Vol. 8, No. 2, pp. 113-139.
- ^ 斎藤菊枝『暦と虚構の民俗学』民話出版, 1984.
- ^ H. Watanabe, “White Space Advertising and Civic Laughter,” Tokyo Review of Media Studies, Vol. 4, No. 1, pp. 2-19.
- ^ 『三月三十二日のために』復刻委員会編『藤堂春月全集・補遺』第5巻第4号, pp.201-260.
- ^ Christopher J. Bell, “A Calendar of Managed Errors,” The Osaka Humanities Quarterly, Vol. 19, No. 4, pp. 77-96.
外部リンク
- 藤堂春月記念アーカイブ
- 京都暦文化研究所
- 昭和広告資料館デジタルコレクション
- フール・エイプリル普及協議会
- 近代演芸人物事典