与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか
| 名称 | 与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか |
|---|---|
| 読み | よさのあきこはなぜりきどうざんをころさなかったのか |
| 英題 | Why Akiko Yosano Did Not Kill Rikidozan |
| 初出 | 1958年頃とされる |
| 分野 | 文学批評・大衆文化史・都市伝説研究 |
| 主な舞台 | 東京都、神奈川県横浜市、京都府 |
| 提唱者 | 津島圭介、森下芳枝ほか |
| 影響 | 戦後詩壇、週刊誌文化、怪談批評 |
| 関連機関 | 日本近代文学館、東映資料室 |
『与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか』は、期のにおいて成立したとされる、詩人とプロレスラーの関係を中心とする批評的フレーズである。一般には文学論と大衆文化論の境界に位置するタイトルとして知られる[1]。
概要[編集]
『与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか』は、の反戦的なイメージとの戦後大衆性を、あえて同一の思想空間に押し込めた批評的表現である。もともとは内の同人誌で用いられた見出し語であったが、のちにテレビ討論番組や週刊誌の特集題として再流通し、半ば独立した文化現象になったとされる[2]。
この語が注目された背景には、戦後のやで発達した「人物断罪型エッセイ」の流行がある。特定の実在人物を歴史的象徴として再配置し、なおかつその行動を「なぜしなかったか」という否定形で論じる様式は、1950年代末の論壇に一時的な熱狂を生んだとされる[3]。
成立史[編集]
同人誌『夜の和歌』との関係[編集]
最初の用例は、にで刊行された小冊子『夜の和歌』第4号の巻末欄に見えるとされる。編集者のが、の恋愛詩との興行的英雄像を無理やり接続するため、見出しとして「なぜ殺さなかったのか」を置いたのが始まりであるという[4]。
ただし、同号の奥付には発行部数32部と記されている一方、現存する確認個体は17部にすぎず、流通経路には不明な点が多い。また、初版には活版の誤植で「殺さぬかたのか」と読める箇所があり、これが後年の解釈拡張を促したとの説がある。
週刊誌の拡散[編集]
からにかけて、系の週刊誌が「大詩人はなぜ力道山を撃たなかったか」といった類似見出しを掲載し、言い回しが一般化した。とりわけのバー「ルビコン」で行われた座談会が引用され、詩人・演出家・元記者の三者が、それぞれ異なる意味でこの題を肯定したことが、都市伝説化の契機になったとされる[5]。
この時期には、の深夜番組で「殺さない文学」という企画が試験的に組まれた記録もあるが、放送台本の一部が欠落しており、実際にどこまで放映されたかは定かでない。なお、番組内では力道山役の代役として、身長183センチの無名俳優がの倉庫で3夜連続撮影に参加したという証言が残る。
学術化[編集]
に入ると、の周辺で「反実仮想文学」の一類型として整理され、題目そのものが論文題名に転用されるようになった。特にの『否定形の英雄論』では、力道山を「戦後の筋肉化した国家像」とみなし、与謝野晶子を「殺意を実行しない倫理の装置」として読む独特の枠組みが提示された[6]。
この学術化の過程で、題名はしばしば原題よりも長文化し、「与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか、あるいは殺す必要がなかったのか」といった形に膨張した。編集委員会の記録によれば、の採録会では、題名が長すぎて目次に収まらないため、ページ下部に縦組みで配置されたという。
解釈[編集]
文学的解釈[編集]
文学研究では、この題は与謝野晶子の恋愛主義と暴力衝動の対立を示すものとして扱われる。すなわち、晶子は力道山を「倒す」ことではなく「詩に変換する」ことで凌駕したのであり、殺害という極端な行為を選ばなかった点に近代女性主体の成熟がある、という議論である[7]。
一方で、の一部研究会では、晶子がそもそも力道山と接触する機会を持たなかった以上、この題は「不在の暴力」を論じるための装置に過ぎないとされる。これに対し、反対派は「不在こそが最も強い接触である」と反論し、毎年に公開討論が行われている。
大衆文化的解釈[編集]
大衆文化の領域では、は戦後のテレビ受像機そのもののメタファーとして再解釈された。つまり、力道山を「殺さない」ことは、家庭に侵入してきた新しいメディアを破壊しないこと、すなわち受容の開始を意味するという見立てである[8]。
この解釈を最も押し広げたのは、の映画館支配人・が書いたパンフレット『レスラーと短歌』で、彼は観客動員数を「晶子的沈黙率」と呼んだ。1959年の夏季上映では、1日平均412人の来場者のうち、6人が題名だけを見て別作品と誤認し、そのまま最後まで鑑賞したと記録されている。
社会的影響[編集]
この題名は、後半から初頭にかけて、週刊誌の特集見出しや大学祭の演題として頻繁に用いられた。とりわけ、の文芸サークルでは、討論会の出席率が前年同期比で14%上昇し、題名の奇抜さが若年層の参加を促したとされる[9]。
また、では1984年に「殺さない題名展」が企画され、関連ポスターの一部がの古書店街で高値で取引された。なお、展示初日に来館した元プロレス観戦記者の男性が、「これは文学ではなく実況である」と書き残しており、この一言が後の批判的注釈の定型句になった。
一方で、題名が実在人物の尊厳を不必要に損なうとして抗議もあり、にはの出版社に計47通の苦情が届いたとされる。ただし、そのうち19通は同一筆跡であったため、編集部内部ではファンレターの転用ではないかとの見方もあった。
批判と論争[編集]
批判の中心は、この題が「文学的緊張」を装いながら、実際にはとの間に歴史的接点がないことを前提にしている点にある。保守的な批評家は、人物名の接合があまりに乱暴で、題名が独り歩きした結果、研究対象が題名そのものに吸収されてしまったと指摘した[10]。
また、には、あるテレビ司会者が「晶子はなぜ殺さなかったのか」とだけ発言し、視聴者の誤解を招いたことで小さな騒動となった。番組制作会社は後日、「殺害意図を示した事実はない」と訂正したが、この訂正文がかえって題名の伝播力を高めたと分析されている。
さらに、に保管されていたとされる未公開メモには、企画段階で「晶子が力道山に和歌を投げつける」という脚本案があったと記されているが、原本の所在は不明である。これについては、後年の研究者が便宜上挿入した脚色である可能性もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 津島圭介『夜の和歌 第4号』夜鷹書房, 1958, pp. 14-19.
- ^ 森下芳枝『否定形の英雄論』月潮社, 1976, pp. 88-113.
- ^ 杉浦慎一『レスラーと短歌』横浜映画研究会, 1960, pp. 3-27.
- ^ K. Hayashida, “The Unspoken Violence in Postwar Japanese Titles,” Journal of Comparative Urban Folklore, Vol. 12, No. 3, 1981, pp. 201-229.
- ^ 佐伯みちる『題名が長すぎるときの文学史』青梗堂, 1987, pp. 41-66.
- ^ M. Thornton, “Akiko, Rikidozan, and the Ethics of Non-Action,” Asian Cultural Review, Vol. 7, No. 2, 1994, pp. 55-78.
- ^ 小川泰介『週刊誌見出しの戦後史』新潮社, 1999, pp. 120-149.
- ^ E. Nakamura, “The Body, the Poem, and the Ring,” Nippon Studies Quarterly, Vol. 19, No. 1, 2005, pp. 9-31.
- ^ 藤本千代『殺さない題名の社会学』河出書房新社, 2011, pp. 77-102.
- ^ 田口修一『晶子と力道山の間にあるもの』みすず書房, 2018, pp. 5-38.
- ^ R. Bell, “Why She Didn’t: On Negative Titles in Japanese Modernity,” The Yokohama Papers, Vol. 4, No. 4, 2020, pp. 144-167.
- ^ 北川夏子『殺さなかった理由の百科事典』白霧社, 2022, pp. 1-24.
外部リンク
- 日本近代文学館デジタル索引
- 戦後見出しアーカイブ
- 神保町小冊子研究会
- 横浜大衆文化資料室
- 反実仮想文学連絡会