久々豆 針子
| 名称 | 久々豆 針子 |
|---|---|
| 読み | くくまめ はりこ |
| 英語名 | Kukumame Hariko |
| 起源 | 江戸時代後期 |
| 主な用途 | 祭礼具、縁起物、護符装飾 |
| 主材料 | 乾燥豆、漆、麻糸、和針 |
| 保存団体 | 日本民俗装飾保存協会 |
| 伝承地 | 東京都、埼玉県、千葉県北部 |
| 衰退期 | 昭和初期 |
| 再評価 | 平成中期以降 |
久々豆 針子(くくまめ はりこ)は、後期に成立したとされる、乾燥豆を極細ので縫い合わせて装飾片を作るの民俗工芸である。主に祭礼具や縁起物に用いられ、以降は一部の内の職人工房で再評価されたとされる[1]。
概要[編集]
久々豆 針子は、乾燥させた豆の表皮に微細な孔を開け、とで縫い留めながら文様を構成する技法、またはその作品群を指すとされる。名称の「久々」は長期保存、「豆」は素材、「針子」は針仕事に由来するとされるが、地方によっては「針で豆を子細に扱う者」を意味したという異説もある[2]。
この工芸は、もともとの門前で売られた小型の縁起物に端を発したとされ、年間には豆の割れ目を花弁に見立てる意匠が流行したという。もっとも、同時代の記録は極めて少なく、後世の工房日誌に依拠する部分が多いため、成立事情にはなお不明な点が多い[3]。
歴史[編集]
成立と初期の広まり[編集]
伝承では、にの豆問屋・沢村久兵衛が、湿気で傷みやすい青豆を祭礼用に転用する方法を考案したのが始まりとされる。彼の妻・針子(はりこ)という女性が、欠けた豆を糸で連ねて数珠状にしたところ、の門前客に「たまたま厄除けに見える」と評判になり、以後その名が付いたとされる。
ただし、期の商家帳簿に「久々豆」の語が見える一方、「針子」は人名なのか技法名なのか判然としない。後年の研究者は、商標的な呼称が先に定着し、人物伝承が後から付与された可能性を指摘している[4]。
職人化と都市文化への浸透[編集]
20年代になると、やの小間物商が参入し、久々豆 針子は「見世物細工」から「小型工芸」へと位置づけを変えた。特にの元教員・高瀬志津子が、豆の孔を一定角度で開けるための「三点留め法」を体系化したとされ、これにより月産は平均18点から46点へ増加したという。
一方で、豆の収縮率を見誤ると完成品が一晩で弾ける事故が続き、31年にはの展示会で86点中14点が展示中に崩壊したと記録されている。この事件は「豆が泣いた」と新聞に書かれ、かえって話題を呼んだ[5]。
衰退と再評価[編集]
初期には、保存の手間と原料確保の難しさから生産が激減し、時点で都内の常設工房は3軒にまで減少したとされる。戦時中は豆類が配給統制の対象となり、久々豆 針子は「贅沢な民俗」として事実上姿を消した。
しかし14年、の特別展「針と豆のあわい」において、戦前の見本帳17冊が公開されると、若手デザイナーの間で再評価が進んだ。特にのギャラリーで開催された復元講座では、参加者28名中11名が一度も完成させられず、講師が「これは手芸ではなく、忍耐の測定である」と述べたことが記録されている[6]。
技法[編集]
久々豆 針子の基本は、豆を完全乾燥させたうえで、温湿度を管理しながら孔を開け、糸で結節する点にある。使用される豆は、、が中心であるが、伝承上は「七粒以上は使わない」という作法があり、これを破ると「余剰が祟る」とされた。
職人のあいだでは、糸を引きすぎると豆が裂け、緩すぎると文様が崩れるため、「豆は締めず、説得する」と表現される。また、完成時にはを一滴垂らすことで艶を出すとされるが、これを行うと虫が寄るため、実際には塩の代わりにを用いる工房も多かった。要出典とされるが、関係者の証言は妙に一致している。
社会的影響[編集]
久々豆 針子は、末期から初期にかけて、節分や地鎮祭の小道具として広く流通したため、豆を「食べるもの」ではなく「祈るもの」として再定義したといわれる。とくに北西部では、婚礼の引き出物に針子細工を入れると新婦が家を守るという俗信が生まれ、昭和10年代には年約2,400組の婚礼のうち318組に類似の習慣が確認されたとする調査がある[7]。
また、豆を縫う作業が極端に細かいため、老若男女を問わず視力検査の代用として使われた時期があったという。ある町工場では、二時間で9個以上仕上げられた者にのみ入門を認めたため、入門試験が「豆眼(まめめ)」と呼ばれた。なお、この語は後に眼科医療の隠語として転用されたとされる。
批判と論争[編集]
久々豆 針子には、保存団体による「原型尊重派」と、現代作家による「豆以外使用容認派」の対立がある。後者はレンズ豆や小石を用いた拡張表現を試みたが、の関連企画で「それはもはや縫う鉱物である」と批判され、論争となった。
また、の内部資料には、伝承の中心人物「針子」が実在したかどうかを確認できないとして、1960年代の登録作業から一時外された経緯が記されている。これに対し、保存会は「人物が曖昧であること自体が民俗である」と反論しており、この点は現在も意見が分かれている[8]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 沢村久兵衛『久々豆針子帳』浅草豆工房出版部, 1831年.
- ^ 高瀬志津子「豆孔角度と結節安定性」『東京工芸補習学校紀要』Vol. 12, No. 3, 1896, pp. 41-58.
- ^ 山野辺玄太郎「門前小物における縁起構造」『民俗装飾史研究』第4巻第2号, 1922, pp. 7-29.
- ^ 小松原理恵「久々豆の商標化と呼称の混交」『日本商習俗論集』Vol. 8, No. 1, 1957, pp. 99-117.
- ^ 国立歴史民俗博物館編『針と豆のあわい 展覧会図録』千葉:歴民出版, 2002年.
- ^ 佐伯千鶴『都市手芸と近代視力』みすず書房, 2008年.
- ^ M. Thornton, “Beans, Needles, and Ritual Scale in Eastern Tokyo,” Journal of Imagined Ethnography, Vol. 19, No. 4, 2014, pp. 201-226.
- ^ 日本民俗装飾保存協会『久々豆針子 保存技法標準書 第3版』東京:協会刊, 2016年.
- ^ 渡会善一「豆が泣いた日——上野展示事故の再検討」『展示史評論』第15巻第2号, 2020, pp. 13-36.
- ^ P. Hargreaves, “The Quiet Discipline of Hariko Beans,” Proceedings of the Pacific Folklore Institute, Vol. 7, 2021, pp. 55-79.
外部リンク
- 日本民俗装飾保存協会
- 国立歴史民俗博物館 特別展示アーカイブ
- 浅草門前文化資料室
- 東京豆工芸連盟
- 針子復元プロジェクト