九州帝国工業専門学校
| 正式名称 | 九州帝国工業専門学校 |
|---|---|
| 英称 | Kyushu Imperial Industrial College |
| 種別 | 旧制専門学校 |
| 設立 | 1909年 |
| 閉校 | 1947年 |
| 所在地 | 福岡県久留米市・八女郡境界地帯 |
| 学科 | 機械・電気・製糸・火薬応用 |
| 校訓 | 強熱、精密、再現性 |
| 略称 | 九帝工専 |
九州帝国工業専門学校(きゅうしゅうていこくこうぎょうせんもんがっこう)は、末期から初期にかけて地方の鉱工業振興を目的として設置されたとされる旧制の工業教育機関である。の外れにあった仮設校舎を起点に、のちに軍需研究と地域産業の標準化を担った学校として知られる[1]。
概要[編集]
九州帝国工業専門学校は、における製鉄・製糖・紡績・造船関連技術者の養成を名目として設置されたとされる旧制の高等工業教育機関である。設立当初は直轄の臨時施設であったが、のちにの地方改良事業とも結びつき、地域産業の「実地試験場」として独特の発展を遂げたと伝えられている[2]。
一般にはの農商学校から転換したという説が流布しているが、学校史ではの大暴風で消失したの機械倉庫を接収し、そこから校地が形成されたとされる。なお、初代校長のが「工学とは書類を湿気から守る技術である」と述べたという逸話が残るが、出典の確認は難しい[3]。
設立の経緯[編集]
官製産業育成計画との関係[編集]
学校の創設は、に内で起案された「地方動力均衡案」に由来するとされる。この案は、流域で頻発した水車の故障と、周辺への技術者偏在を是正するため、九州各県に小規模な工業教育拠点を置く構想であった。計画書には「旋盤一台につき二名の学生を常置させること」といった異様に具体的な条項が含まれていたとされ、後年の校風にも影響した[4]。
仮校舎と最初の寄宿舎[編集]
開校時の校舎は、の旧蚕具集積所を改修した木造二階建てで、延床面積はわずか412平方メートルであった。学生の寄宿舎はさらに奇妙で、の舟運で使われていた米倉を移築したものであり、冬季には床下を流れる風のために「冷却式読書室」と呼ばれた。創立年の在籍者は本科31名、聴講生9名で、全員が入学時に木製の滑車を1個ずつ支給されたという[5]。
校名に「帝国」が付いた理由[編集]
校名に「帝国」が含まれる理由については諸説あるが、もっとも広く引用されるのは、向けの部材供給契約を得るため、当時の後援者が「帝国」の語を先置することで予算審査を通しやすくしたという説である。実際には、同時代のに比べて設備は質素であったにもかかわらず、学校印だけが妙に立派で、卒業生の一部は名刺の肩書を半ば誇張して用いたとされる。
学科と教育内容[編集]
同校の教育課程は、機械・電気・製糸・応用化学の四学科を基本としつつ、地域事情に応じて「火薬応用」「農具改良」「塩田排水」の講義が季節限定で開講された。特に学科は、糸の均一性を測るために学生が自作の振り子装置を用いたことから、のちにの前史として語られることがある。
授業の特徴として、講義よりも実習が過剰に重視された点が挙げられる。たとえばの電気工学実習では、発電機の巻線より先に「停電時の礼法」を学ばせた記録が残り、また機械科ではボルトの締結精度を競う「無言試験」が年2回実施された。最優秀者は校内食堂で白飯の大盛りを許可される制度があり、これが学生の士気に大きく寄与したとされる[6]。
一方で、同校の教材には不明な点も多い。『九帝工専蒸汽機関図説』と題された冊子には、蒸気機関の断面図の横にの潮流表が併記されており、実験における潮位補正を強く意識していたことがうかがえる。
校風と学生生活[編集]
九帝工専の学生は、一般に「油に強く、雨に弱い」と評された。これは、寮の屋根が開校から10年以上も柿渋で補修され続けたためであり、雨天時には上級生が教室の桶配置を指示するという奇妙な自治が成立していた。
また、毎年に行われた「測定祭」では、学生がノギス、分銅、温度計を手に市内を練り歩き、商店街の陳列棚の傾きを勝手に計測する慣習があった。商店主からは概ね好意的に受け止められたとされるが、少なくとも2件の苦情がに寄せられた記録がある。
著名な逸話として、の冬に起きた「石炭の逆配給事件」がある。暖房用石炭が誤って理化学教室へ優先搬入された結果、学生たちは2週間にわたり講義室でコートを着たまま授業を受けたが、この環境がかえって集中力を高め、同年の卒業設計合格率が93%に達したという。
研究と社会的影響[編集]
筑後地方の標準化運動[編集]
同校の最も大きな社会的影響は、地方における製造規格の統一である。学校附属の「簡易計量局」は、味噌樽の蓋径、縄の撚り数、提灯の骨数まで標準化し、これが後の地方工業組合の規約に取り入れられた。特にに発行された『筑後地方工業標準摘要』は、紙幅の3割が単なる寸法表で占められているにもかかわらず、当時の職人から高く評価された。
軍需転用と論争[編集]
に入ると、同校の機械科と火薬応用講座は軍需研究に接近した。とくにの演習地向けに納入された「耐湿式信管収納箱」は、校内の木工倉庫で学生が夜間に組み立てたものとされる。この点については、戦後になって「教育目的を逸脱していた」との批判がなされたが、当時の校報には「箱の耐久性は教育そのものの証左である」と反論する社説が掲載されている[7]。
卒業生ネットワーク[編集]
卒業生は九州各地の工場、港湾局、鉄道局に散らばったが、互いに学校独特の符牒である「三回叩いて一回戻す」を合図に便宜を図ったとされる。これにより、の修理工場では九帝工専出身者が管理職の半数を占めた年もあったという。なお、同窓会名簿には時点で1,142名が掲載されているが、同一人物が学科別に重複登録されている疑いがある。
校地と施設[編集]
校地は当初、久留米市外縁の低湿地に置かれたが、後半には排水路整備によって「半島のような校舎配置」と呼ばれる独特の景観を形成した。中央には時計塔が建てられたが、実際には鐘の代わりに蒸気圧で鳴る警報笛が装備され、正午になると市内の鳩が一斉に方向感覚を失ったと伝えられている。
実習棟は、機械棟・電気棟・材料試験棟の三棟から成り、材料試験棟にはレンガ、鉄材、焼酎瓶、乾燥藺草などが保管された。これらは地域産業の素材比較に用いられ、特に焼酎瓶の衝撃試験は「九州らしさの可視化」として学生に人気であった。
また、図書館にはに満たない蔵書しかなかったが、その代わりに教員自筆の講義ノートが異様に多く、閲覧者は必ず筆箱の中身を点検された。これは盗難防止ではなく、鉛筆の硬度が課題提出の合否に影響したためであるとされる。
批判と論争[編集]
九帝工専をめぐる批判の第一は、地方産業への貢献が過大評価されているという点である。とくに戦前の広報資料では、同校の卒業生がの発電所や港湾の近代化を「ほぼ単独で」支えたかのような記述が見られるが、実際には多くの現場で現職の職工と二重三重の調整が必要であった。
第二に、規律の厳しさを誇る校風が、しばしば学生の創造性を損ねたという指摘がある。これに対して同窓会は、むしろ「測定の厳格さこそが自由の前提である」と反論しているが、毎年の寄付金募集でこの文句が使われるたびに、古参卒業生が少し黙り込むという。
なお、に行われた学内祭典で、機械科の展示物が自走式ではなく単なる傾斜台であったことが露見し、新聞紙上で小さな騒ぎになった。学校側は「実験上の省エネ」であると説明したが、これが九帝工専最大の広報失策だったとする回想録もある[8]。
閉校後の扱い[編集]
の学制改革により同校は閉校し、校地の一部は新制大学の分校に転用された。もっとも、旧実習棟の基礎は頑丈すぎて撤去が進まず、結果として新校舎の地下倉庫として再利用されることになった。
戦後は「九帝工専式」と呼ばれる教育法が、短期技術講習や企業研修の場で断片的に復活した。とくに、図面を完成させる前に模型の重心を測らせる手法は、の中小工場で一定の支持を得たとされる。
現在、跡地の一角には石碑が残り、毎年の同窓会有志によって油性チョークで年号が書き足されている。もっとも、石碑の銘文にはとが併記されており、創立年をめぐる論争は今も完全には収束していない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『九州帝国工業専門学校創立誌』九州帝工専出版部, 1936.
- ^ 中村房吉『筑後工業と専門教育』地方産業研究会, 1941.
- ^ Harold E. Minster, “Industrial Schools of Southern Japan,” Journal of Imperial Technical Studies, Vol. 12, No. 3, 1934, pp. 201-229.
- ^ 田島正雄『九帝工専の機械科における湿度管理』工学評論社, 1958.
- ^ Margaret L. Wren, “Standardization Before Standardization: Kyushu Workshop Traditions,” Asian Technical Review, Vol. 7, No. 1, 1962, pp. 44-68.
- ^ 九州帝国工業専門学校編『蒸汽機関と潮位補正』校内資料, 1925.
- ^ 松浦信一『戦時下専門学校の記憶』新潮社, 1978.
- ^ A. K. Felton, “The Silent Examination System at Kyushu Imperial Industrial College,” Transactions of the East Asian Engineering Society, Vol. 5, No. 4, 1949, pp. 88-97.
- ^ 九州教育史編纂室『旧制工業教育史料集 成』福岡文庫, 1989.
- ^ 古賀春彦『校章に見る帝国意匠の変遷』美術工芸通信社, 2003.
- ^ Helena S. Carver, “Humidity, Steam, and Pedagogy,” The Review of Provincial Technology, Vol. 18, No. 2, 1971, pp. 113-140.
外部リンク
- 九帝工専資料館アーカイブ
- 筑後近代工業史研究会
- 旧制専門学校デジタル年鑑
- 九州産業教育年表データベース
- 門司港工学同窓録