埼玉商業学院工業大学
| 設立 | 1919年(学院として) / 1958年(大学昇格) |
|---|---|
| 創立者 | 加須栄一郎、田島トメ、ほか3名 |
| 種別 | 私立 |
| 所在地 | 埼玉県川越市・熊谷市境界域 |
| 学部 | 商学部、工業経営学部、夜間帳簿学部 |
| 学風 | 実務主義、簿記第一、旋盤第二 |
| 校訓 | 算盤を回せ、歯車を止めるな |
| 略称 | 埼商工大、SCI |
| 校章 | 六角ナットに算盤珠を重ねた意匠 |
埼玉商業学院工業大学(さいたましょうぎょうがくいんこうぎょうだいがく、英: Saitama College of Commerce and Industrial Engineering)は、を本拠とする商業・工業・会計技術の複合教育機関である。特に後期に発明された「帳簿駆動式工学」を教育の中心に据えたことで知られる[1]。
概要[編集]
埼玉商業学院工業大学は、北部の産業化に伴い、商業教育と工業教育を一体化する目的で設立されたとされる大学である。創設期にはの米穀問屋との機械工場が共同で寄付を行い、学生は午前に簿記、午後に鋳造を学ぶ独特の時間割を採用していた[2]。
同学の特徴は、帳簿・機械・統計を一体で扱う「三位一簿」の教育理念にあるとされる。とりわけ1950年代に導入された自動仕訳旋盤は、回転軸の振動を仕訳帳に転記する装置として話題を呼び、後にの試験導入対象になったという[3]。
成立の経緯[編集]
学院時代[編集]
起源は8年、上州から移住した商家の子弟に職業教育を与える目的で設けられた「埼玉商業講習所」にさかのぼる。発起人の加須栄一郎は、当時の地元紙『』において「帳面の読めぬ者に蒸気機関は扱えぬ」と述べたとされ、この言葉が校是の原型になったと伝えられている[4]。
当初は夜学中心で、生徒数は時点で43名にすぎなかったが、冬季に行われた「算盤速打ち選手権」が評判を呼び、近隣のやからも入学希望者が増えた。もっとも、選手権の優勝者が後に税務署へ就職する割合が極端に高かったため、周辺では「就職率100%、退職率も100%」と冗談めかして語られたという。
工業化と大学昇格[編集]
に入ると、地域の機械工場が戦後復興で拡張し、商業教育だけでは人材需要を満たせなくなったため、学院は工業部門を吸収して現在の名称となった。昇格準備委員会の議事録には、旋盤工に簿記を教えるべきか、簿記係に旋盤を教えるべきかで3か月間議論が続いた記録がある[5]。
の大学昇格式では、来賓のがテープカットの代わりに伝票を切り、校舎前に設置された巨大な歯車型黒板に「収支一致」の文字が表示されたとされる。この演出は地方紙で「学術というより決算」と評されたが、結果として同大の実務偏重イメージを決定づけた。
独自技術の導入[編集]
同学の名を全国区に押し上げたのは、1964年に工業経営研究会が開発した「試算表連動式エレベーター」である。これは乗員の体重を月次原価に自動反映する仕組みで、期間中に視察した海外研究者の間で強い関心を集めたとされる[6]。
ただし、実際には階数表示板と電卓をワイヤーで接続しただけであり、雨天時に誤差が±18kgまで膨らむ欠点があった。なお、この欠陥を逆手に取り、体育会系学生の増量期を把握する「部活会計」システムとして学内では長く使われた。
学風と教育理念[編集]
埼玉商業学院工業大学の教育理念は、理論よりも「現場で帳尻が合うこと」を重視する点に特色がある。授業では、、が横断的に扱われ、学生は木材の強度を学びながら在庫回転率を計算するのが通例であった。
また、同大には「欠損値を補う前に欠損理由を訪ねよ」という口癖があり、これは統計学の精密さと商家の対人感覚を融合したものとされる。一方で、卒業論文においても領収書の添付が必須であったため、研究倫理と経費精算が事実上同義になっていたとの指摘がある[7]。
組織と施設[編集]
キャンパスは、、の3地区に分かれている。中でもの本館には、昭和30年代に設置された「自動検印塔」があり、風で回転するたびに印影が異なることから、学生証の有効期限を半ば天候に委ねる運用が行われていた。
工学部の実習工場には、全国でも珍しい「仕入台帳式旋盤」や「月末締切ボール盤」が置かれていた。これらは一見すると古びた機械に見えるが、目盛りの単位がすべて円と銭で刻まれており、加工精度の代わりに利益率を測るのが特徴であった。
社会的影響[編集]
同大の卒業生は、地方銀行、製菓工場、建設会社、税理士事務所に幅広く就職したが、特に南部の中小企業経営に強い影響を与えたとされる。1970年代には、卒業生が経営する豆腐工場が独自の原価計算を用いて1丁あたりの利益を0.8円向上させたことから、近隣自治体で「埼商工式利益改善法」が模倣された[8]。
また、同校出身者は祭礼の山車制作にも関わり、の一部地区では、山車の部材ごとに固定資産台帳番号が振られる慣行が生まれたという。学問が地域文化に浸透した稀有な例として紹介されることが多い。
批判と論争[編集]
一方で、同大の教育は過度に実務へ傾き、純粋な研究大学としての性格を欠いていたとの批判もある。特に1978年の学園祭で、哲学研究会が発表予定だった講演が「利益率が不明」として却下され、代わりに在庫棚卸し実演に差し替えられた事件は、学内外で議論を呼んだ[9]。
また、1980年代には「夜間帳簿学部」の学生の半数以上が、講義中に電卓の音で居眠りを防いでいたことが調査で判明したが、大学側は「学習効率の高い覚醒法」であるとして問題視しなかった。なお、この調査報告は後年、なぜかの閉架で再発見されたとされる。
歴史[編集]
戦前[編集]
戦前期には、同学は後の物資流通混乱を背景に、配給帳の読み方を教える「配給実務科」を設置した。受講者には米袋の重量だけでなく、封緘紙の色から納入元を判別する訓練が課され、これが後の物流学の原型になったとも言われる。
戦後[編集]
戦後復興期には、校内の木造校舎が不足し、学生が自ら廃材で教室を増築した。増築作業の際、誤って事務室と実験室の位置が入れ替わったため、事務職員がハンマーを持ち、研究者が伝票を持つ体制がしばらく続いたという。
高度成長期以降[編集]
高度成長期以降は、首都圏の工業団地と連携し、夜間講座「決算できる技術者養成講座」を開講した。受講者は3か月で最低でも17枚の伝票を切れなければ修了できず、修了試験では旋盤の回転数と減価償却を同時に答える必要があった。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 加須栄一郎『埼玉商業学院史稿』武蔵経済社, 1961年.
- ^ 田島トメ『帳簿と歯車のあいだ』関東教育出版, 1974年.
- ^ H. Tanabe, "The Ledger-Driven Engineering Program in Postwar Saitama," Journal of East Asian Technical Education, Vol. 12, No. 3, 1988, pp. 41-67.
- ^ 佐伯正雄『地方大学における工業会計の成立』日本工学教育協会, 1992年.
- ^ M. A. Thornton, "Industrial Bookkeeping and Civic Modernity," Commerce & Machine Review, Vol. 7, No. 2, 1997, pp. 88-109.
- ^ 『埼玉商業学院工業大学百年史』埼商工大出版部, 2019年.
- ^ 高瀬美佐子『夜間帳簿学部の研究』北関東文化研究所, 2004年.
- ^ 「試算表連動式エレベーターの開発経緯」『機械と会計』第18巻第1号, 1965年, pp. 3-19.
- ^ J. R. Keller, "On the Balance-Sheet Lathe," Proceedings of the Saitama Industrial Humanities Symposium, Vol. 4, 1971, pp. 112-130.
- ^ 『月末締切ボール盤の保守手引き』埼商工大工学部資料室, 1981年.
外部リンク
- 埼商工大アーカイブズ
- 武蔵地方教育史データベース
- 帳簿工学研究会
- 埼玉産業大学史年表館
- 自動検印塔保存委員会