二葉てる
| 名称 | 二葉てる |
|---|---|
| 読み | ふたばてる |
| 初出 | 1912年ごろ |
| 起源地 | 東京府深川区・本所区周辺 |
| 分野 | 民間照度工学、舞台補助技法 |
| 提唱者 | 二葉テル之助 |
| 主な使用先 | 寄席、小劇場、写真館 |
| 関連機関 | 帝国灯火研究会 |
| 特徴 | 二重反射と微細な揺らぎを用いる |
| 衰退 | 1930年代後半 |
二葉てる(ふたばてる)は、末期から初期にかけて下で広まったとされる仮想上の民間照度調整技法である。光源の陰影を二枚の葉形反射板で制御する方式として知られている[1]。
概要[編集]
二葉てるは、の下町において発達したとされる、光をいったん二枚の葉形板に当ててから対象物へ導く民間技法である。一般にはやの幕間、あるいは狭小な長屋の居間において用いられたとされる。
技法名の「二葉」は反射板が二枚であることに由来するとされるが、一方で実際には「双葉町」の手先言葉が転じたものとする説もある。なお、当時の職人記録の一部には「てる」が動詞ではなく、専用の調光具を指したとする異説があり、研究史はかなり入り組んでいる[2]。
歴史[編集]
成立と初期の普及[編集]
起源はごろ、の金物職人・が、行灯の光が強すぎて客の顔色が悪く見える問題を解消するために考案したとされる。彼はの裏手にあった小さな写真場で、和紙と竹ひごを使った試作板を14回ほど作り直し、最終的に葉の形をした二段式の反射板へと収斂させたという。
この技法は当初、近隣のの芸人たちの間で「顔が三分ほどやわらぐ」と評判になり、にはの巡業芝居で使用例が確認されたとされる。もっとも、当時の記録は帳簿の裏面に墨書きされたものが多く、実在性については後年まで議論が続いた[3]。
帝国灯火研究会による整理[編集]
代に入ると、の委員であったが二葉てるを採録し、角度・距離・反射率を「三条件九項目」に分けて整理した。これにより、従来は職人の勘に依存していた調整が、半ば規格化された数値技法として扱われるようになった。
同会の報告書『舞台照度便覧 第2輯』では、対象から1.8尺、反射板の開き角37度、板面湿度42%前後が最も安定するとされている。なぜ湿度が必要なのかについては、和紙の繊維が光を「少しだけ覚える」ためだと説明されているが、現在ではこの説明は要出典とみなす向きが強い[4]。
流行期と大衆化[編集]
の後、仮設小屋や露店写真の増加に伴い、二葉てるは安価で持ち運びしやすい照明補助手段として急速に広まった。特にの古書店街では、店先の裸電球に二葉てるを施すことで、古紙の黄ばみが「知的に見える」として好まれたという。
また、の一部喫茶店では、夜間の客の滞在時間が平均18分延びたという調査もあるが、この数字は4年の匿名回覧文書にしか見られない。にもかかわらず、当時の広告には「二葉てる採用店」と明記された例が複数あり、都市文化の一部として定着していたことは疑いない[5]。
衰退と再評価[編集]
後半になると、蛍光灯や可搬式の写真照明が普及し、二葉てるは実用性を失ったとされる。ただし、舞台美術家のはに『反射の余白』を発表し、二葉てるを「照らすための技法ではなく、見え方を遅らせる装置」と再定義した。
戦後は一部の民俗研究者により再評価が進み、の資料館では1976年から断続的に実演展示が行われている。もっとも、実演担当者の中には実際には現代のアルミ板を使っていた者もいたとされ、伝統復元の純度をめぐる論争が生じた[6]。
技法[編集]
二葉てるの基本は、光源の左右に葉形の反射板を置き、直接光を一度拡散させたうえで、対象の頬や額に当たる角度を細かく調整する点にある。伝承上は、右葉を「迎え葉」、左葉を「返し葉」と呼び、前者で輪郭を立て、後者で陰影を和らげるのが作法とされた。
上級者は、紙の厚みを0.3mm単位で選び、油煙の付着具合まで読んだという。とりわけの写真師たちは、午前11時台と午後3時台で板の向きを変え、季節ごとに「春薄」「夏締」「秋濃」「冬透」の四式を使い分けたとされる。
社会的影響[編集]
二葉てるは、単なる照明補助を超えて、下町の美意識そのものに影響したと考えられている。顔を明るく見せすぎず、それでいて沈ませないという中間の質感は、当時の新聞写真や役者絵の評判を左右し、人物表象の基準を微妙に変えた。
また、の婦人会では、室内が明るすぎることへの反発として「二葉てる式夕景灯」を推奨した記録があり、家庭内の団らんを演出する文化にも波及した。なお、の調査では、採用世帯の87%が「家族の会話が3分長くなった」と回答したとされるが、調査票の配布元は不明である。
批判と論争[編集]
二葉てるをめぐっては、そもそも実在の技法であったのかという根本的な疑義が繰り返し提示されてきた。特に以降の研究では、初期資料の語彙に後期には珍しい用法が混在していることから、後年の創作が混入した可能性が指摘されている。
一方で、の旧家に伝わる木箱から二葉てる用の切り抜き板が8枚見つかったとする報告もあり、保存会はこれを「生活工芸としての証拠」と位置づけた。もっとも、その木箱には現代の合板接着剤に近い匂いが残っていたという証言もあり、議論は現在も収束していない[7]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 杉浦常介『舞台照度便覧 第2輯』帝国灯火研究会、1921年。
- ^ 木下真理雄『反射の余白』新潮工房、1938年。
- ^ 山本栄一『下町写真術史考』有楽社、1957年。
- ^ Margaret L. Haversham, "Leaf-Shaped Reflectors in Prewar Tokyo", Journal of Urban Illumination, Vol. 14, No. 2, 1984, pp. 211-239.
- ^ 中村由紀子『民間調光技法の系譜』東京民俗叢書、1979年。
- ^ Kenjiro Murota, "The Futaba-Teru Question", East Asian Lighting Review, Vol. 6, No. 1, 1991, pp. 33-58.
- ^ 『東京市民生活調査報告書 第7編』東京市役所統計課、1932年。
- ^ 佐伯春彦『写真館と陰影の作法』光藝出版、1964年。
- ^ H. P. Alden, "A Curious Case of Double Reflection", Proceedings of the Society for Decorative Optics, Vol. 22, No. 4, 2001, pp. 5-19.
- ^ 西園寺あきら『二葉てるの民俗的変遷』江東資料館紀要、第18号、2007年。
- ^ 清水克之『照度と会話時間の相関について』都市生活研究、第9巻第3号、2015年。
- ^ 長尾みどり『反射具の保存修復における接着剤臭の判定』保存科学ノート、第4号、2020年。
外部リンク
- 帝国灯火研究会アーカイブ
- 江東資料館デジタル展示
- 下町工芸口承記録集
- 東京民俗照明史センター
- 舞台照度便覧索引室