六座美結
| 氏名 | 六座美結 |
|---|---|
| ふりがな | ろくざ みゆ |
| 生年月日 | 1948年4月12日 |
| 出生地 | 東京都台東区 |
| 没年月日 | 2007年9月3日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民俗学者、舞台構成家、記録収集家 |
| 活動期間 | 1970年 - 2007年 |
| 主な業績 | 座敷演出法の提唱、六座美結資料群の編纂 |
| 受賞歴 | 日本記録文化奨励賞、東京民間学会功労章 |
六座美結(ろくざ みゆ、 - )は、の民間民俗学者、舞台構成家、ならびに地方記録収集家である。座敷演出と呼ばれる独自の調査法を体系化した人物として広く知られる[1]。
概要[編集]
六座美結は、に生まれ、昭和後期から平成初期にかけて活動した民間者である。演劇、地方史、口承記録を横断する研究姿勢で知られ、特に畳一畳の空間に証言者を招いて聞き書きを行う「座敷演出」を提唱した[2]。
その名は学術界よりも先に地方の公民館や小劇場で広まり、からまでの記録採集に同行した編集者や演出家の証言が多い。なお、本人は自らを研究者ではなく「記憶の仮設職人」と呼んだとされるが、この発言は後年の回想録にしか見られないため、真偽には注意を要する[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
六座美結は、1948年4月12日に台東区の浅草橋近くで生まれたとされる。父は和装小物の卸商、母は寄席の票券整理を手伝う人物で、幼少期から周辺の興行文化に触れて育ったという。
幼少時には紙芝居の拍子木の音に強く反応し、商店街の空き店に客を集めては独自の「物語会」を開いていたと伝えられる。近隣では、彼女が8歳の時に町内の古地図を模写し、店名の変化を赤鉛筆で書き込んでいたことが知られている[4]。
青年期[編集]
第二文学部に入学し、国文学との双方を学んだとされる。大学では、系の地方伝承研究会に出入りした一方、演劇サークルの舞台監督補佐も務め、のちの座敷演出の原型となる簡易採録法をこの頃に試していた。
1969年には、夏休みを利用しての豪雪地帯を巡り、雪囲いの家屋内で聞き書きを行った記録が残る。本人のノートには「畳がない家は話が滑る」との一文があり、以後の方法論の原点とされる[5]。
活動期[編集]
1970年代に入ると、六座美結は内の小劇場運営に関わりながら、地方自治体の文化誌編集にも携わった。特に1974年に設立した私設調査室「六座記録工房」は、の古民家を転用したもので、常時3名の調査員と2名の筆耕係がいたという。
1981年には『畳上の証言術』を刊行し、やの市民講座で反響を呼んだ。なお、この本の初版は1,200部であったが、うち347部が公民館用の「回覧閲覧仕様」として製本されており、角が丸く切られていたことが珍しかった。
1987年にはの委託を受け、全国14道府県で「沈黙の地誌」調査を実施した。調査報告書は全9巻、総ページ数4,816ページに及び、図版だけで623点に達したとされるが、図版番号の並びがしばしば飛ぶため、後年に編集上の混乱があったとの指摘がある[6]。
晩年と死去[編集]
1990年代以降は病気療養のため表立った活動を減らしたが、の温泉地で行われた私的な聞き取り会には最後まで参加したという。晩年は、録音テープの巻き戻し速度を一定に保つため、古い扇風機のモーターを改造していたと伝えられる。
2007年9月3日、六座美結は文京区の病院で死去した。享年59。葬儀では、参列者が一人ずつ持参した「失われた地名」を紙片に書き、棺に納める慣習が行われたとされるが、これは後年の追悼会で誇張された可能性がある。
人物[編集]
性格[編集]
六座美結は、寡黙である一方、記録の誤差には非常に敏感であったとされる。聞き取り調査の場では、相手の発言が3秒以上途切れると、必ず茶器の配置を変え、話しやすい向きを作ったという。
また、筆記用具に異様なこだわりを持ち、の2Bを「話の厚みが出る芯」と呼んで愛用した。雨の日の採録では、原稿用紙の下に新聞紙を7枚敷く習慣があり、これは彼女独自の防湿儀礼として知られる。
逸話[編集]
ある地方講演では、質問者が方言の意味を取り違えたまま30分話し続けたのに対し、六座美結は最後まで訂正しなかったという。講演後に「誤解されたまま残る言葉にも寿命がある」と述べたとされ、この一言が研究会でしばしば引用された。
一方で、の喫茶店で原稿を失くした際には、店内の灰皿を全部裏返して「失われた順番を見たい」と言ったという奇妙な逸話もある。店主の記憶によれば、実際には灰皿は4つしかなかったが、本人は6つあったと主張したらしい[7]。
業績・作品[編集]
六座美結の業績は、学術論文よりも現場採集と装置開発に特徴がある。代表的なものは、畳・座布団・湯呑みの位置を一定に整えることで証言の再現性を高める「座敷演出法」であり、に内の地域史研究会で初めて公開された。
著作としては、『畳上の証言術』『沈黙の地誌』『地方史の脚色をめぐる覚書』などがある。また、本人名義ではないが、編集協力として関わった『駅前の記憶装置』は、全国18の商店街振興組合で教材として使われたという[8]。
なお、六座美結が考案したとされる「記録の湯気採集法」は、熱い茶を注いだ直後の会話にのみ有効であるという仮説に基づく手法で、湿度が72%以上のときに最も精度が高いとされた。ただし、これを裏づける実験記録は1本しか残っておらず、研究者の間では半ば伝説化している。
晩年には、の地域番組「町角の記憶」にコメント出演し、3分24秒の短い映像の中で17回うなずいたことが話題になった。出演料は当時の基準で8万4,000円であったとされる。
後世の評価[編集]
死後、六座美結は地方文化の「失われた聞き書き」の象徴として再評価された。特ににで開催された小展示「畳の上の近代」は、来場者1万2,430人を記録し、関連図録は再版を重ねた。
一方で、彼女の方法論は装置や所作への依存が強すぎるとして批判も受けた。とくに大学院レベルの研究に導入した場合、机の高さまで指定されるため現場負担が大きいという指摘がある。ただし、地方の聞き取り現場では「話しやすい空気を設計する」発想が評価され、現在でも一部の自治体記録室で準用されている[9]。
系譜・家族[編集]
六座美結は三人きょうだいの長女で、弟の六座清志は家具修復業、妹の六座真弓は図書館司書であったとされる。家族の中で最も古い資料を集めていたのは母方の祖母で、明治末期の地図を箪笥の裏に隠していたという。
結婚歴については諸説あり、本人は晩年まで公に語らなかった。私家版の年譜では、に舞台照明技師の男性と事実婚関係にあったとされるが、同時期の日記には「結婚より台本整理が先」と書かれており、研究者の間でも扱いが分かれている。
子女はいないとされるが、弟子筋の記録では、六座美結は採録現場で出会った若手編集者たちを半ば家族のように扱い、特に原稿の誤字訂正を任された者を「紙の親族」と呼んでいたという。
脚注[編集]
[1] ただし、生年については1947年説もあり、記録の初出が一致しない。
[2] 座敷演出という語は、六座美結の死後に定着した呼称であるとの指摘がある。
[3] 回想録『記憶の仮設』は本人没後の編集を含むため、引用には注意を要する。
[4] 台東区立下町資料室所蔵の模写帳が唯一の傍証とされる。
[5] 1969年の調査は、実際には同行者1名がいたとする証言もある。
[6] 図版の番号飛びは、製版所の面付けミスとする説明が有力である。
[7] この逸話は、講演録の聴衆メモにのみ見られる。
[8] 教材採用の事実は確認されているが、六座美結本人の直接関与の範囲は不明である。
[9] 一部自治体では「座敷演出法」ではなく「対面環境調整法」として運用されている。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 高橋宣彦『畳上の証言術とその周辺』新潮社, 1982.
- ^ 佐伯由里子「六座美結資料群にみる聞き書き空間の設計」『民間史研究』Vol. 14, No. 2, pp. 33-57, 1994.
- ^ 田村英司『沈黙の地誌——地方記録の舞台化』岩波書店, 1988.
- ^ M. Thornton, “Rokuza Miyu and the Politics of Tatami Framing,” Journal of Invented Folklore, Vol. 7, No. 1, pp. 101-128, 2001.
- ^ 山口真琴「座敷演出法の成立過程」『記録文化』第21巻第4号, pp. 12-29, 1990.
- ^ Elizabeth C. Moore, “Humidity and Oral History in Postwar Japan,” Pacific Studies Review, Vol. 18, No. 3, pp. 201-219, 2005.
- ^ 六座結衣『地方史の脚色をめぐる覚書』青土社, 1997.
- ^ 中村俊一『聞き取りの作法と茶器配置』平凡社, 2009.
- ^ K. Yamabe, “The False Floor Method in Community Archives,” Archives and Performance Quarterly, Vol. 5, No. 2, pp. 44-68, 2010.
- ^ 小宮山理恵「六座美結の晩年資料における扇風機改造記録」『生活技術史』第9巻第1号, pp. 77-81, 2014.
外部リンク
- 六座美結記念アーカイブ
- 下町記録文化研究所
- 畳上証言法データベース
- 地方聞き書き協会
- 東京民間学会デジタル年報