南木曽大学
| 名称 | 南木曽大学 |
|---|---|
| 英称 | Nagiso University |
| 設立 | 1949年 |
| 創立者 | 小沢林右衛門、渡辺雪一 |
| 本部所在地 | 長野県木曽郡南木曽町 |
| 学部 | 山岳工学部、木曽文化学部、森林経営学部 |
| 大学コード | NGS-49 |
| 校章 | 三本杉と蒸気車輪 |
| 標語 | 霧を学び、山を測る |
南木曽大学(なぎそだいがく、英: Nagiso University)は、南部のに本部を置く山岳複合型の私立大学である。林業技術、寒冷地工学、木曽谷民俗学の3分野を柱に発展したとされ、近年は「霧の中でも卒業証書が読める大学」として知られている[1]。
概要[編集]
南木曽大学は、まもないに、の製材業者と旧制林業講習所の関係者によって設立されたとされるである。発足当初は講堂1棟、演習林47ヘクタール、そして冬期のみ稼働する寄宿舎2棟から成り、学生数はわずか38人であった。
同学は流域の気象、伝統建築、山間交通の研究で知られ、特に「霧中測量学」と呼ばれる独自科目を早くから導入したことで注目された。また、沿いの宿場町と連携した実地教育が制度化され、学生が授業の一環として茶屋の釜を磨くことが単位として認定された時期があるといわれる[2]。
沿革[編集]
創設期[編集]
創設の中心人物は、地元の木材商と、の測量技師であったである。両者はの木曽谷豪雪被害の復旧会議で知己となり、山村の復興には「学問を山に持ち込む必要がある」として構想をまとめたとされる。なお、当初の校名候補には「木曽霧林学院」や「南木曽高等実務大学」があったが、印刷所の誤植により現在の名称が採用されたという説が有力である。
の開学式では、役場前から本部キャンパスまで、材木を載せた荷車6台が「学術行列」として先導した。式典では祝辞の代わりに杉板への焼印が行われ、これが同大学の入学許可証の原型になったともいわれる。
拡張と制度化[編集]
には森林経営学部が新設され、のを契機に寒冷地観測の研究費が増額された。特に、山間部の霧の濃淡を数値化する「濃霧指数NG-7」はに同大学の気象研究室で開発され、のちにの一部地方事業で参考値として扱われたとされる。
また、の第一次石油危機のころには、木質ペレットを用いた冬期暖房システムの実証試験が行われ、キャンパス内の熱供給効率が前年比17.4%改善したという記録が残る。ただし、この数字は当時の学生新聞と大学広報でやや異なっており、17.1%とする資料もある[3]。
現代化[編集]
以降は情報化が進み、に「山岳遠隔教育センター」が開設された。ここでは霧に覆われた山道でも通信が途切れないよう、木製電柱の芯材配置を最適化する研究が行われたとされる。さらにの東日本大震災後には、山村避難計画の研究拠点として注目され、自治体向けに「避難所の薪棚配置マニュアル」を配布した。
一方で、には学内の伝統行事「昇霧式」において、学長が大学旗を持って標高差198メートルの坂を徒歩で登る儀礼が過激化し、翌年からは安全のため搬送用の手すりが設置された。この変更をめぐって一部の同窓会が「霧の精神性を損なう」と抗議したことがある。
学風と教育[編集]
南木曽大学の教育理念は「実地、耐寒、連帯」の三本柱であるとされ、講義よりも演習の比率が高いことで知られる。1年次には全学生がの板を用いた製図を学び、2年次には周辺での聞き取り調査、3年次には積雪時の橋梁補強実習を行うという独自カリキュラムが組まれている。
同大学では、試験期間に暖房費を節約する目的で「沈黙試験」が導入されており、答案提出時に鉛筆の芯の折れる音まで採点対象になると噂された。もっとも、実際には単位認定の基準が厳しいだけであり、出席点が25点満点中19点を下回ると補講に回される仕組みがあると説明されている。
キャンパス[編集]
本部キャンパスはの高台にあり、講義棟、演習林、木橋実験場、霧観測塔から構成される。霧観測塔は高さ31.4メートルで、最上階には気圧計と木製の鐘が設置されている。鐘は霧の濃度が一定値を超えると自動で鳴る仕組みで、学生が迷っても講義開始を告げる役割を果たしてきた。
特筆すべき施設として「段丘図書館」がある。これは斜面に沿って5層に分かれた建築で、閲覧席からの支流が見える。蔵書は約48万冊とされるが、そのうち1割近くが林業年鑑、古文書写本、山間集落の聞き取り録音で占められている。また、地下には「凍結標本庫」があり、冬季に採取した霜の結晶を学術保存している点が奇異である[4]。
学生文化[編集]
学生自治会は非常に強い伝統を持ち、毎年に「霧祭」を主催する。霧祭では、キャンパス全体に白布を張りめぐらせ、来場者が迷路状の導線を歩くことで「山の視界」を体験する催しが行われる。かつては迷いすぎて来賓が講堂に到達できないことがあり、にはが臨時誘導班を出したという。
また、寮生活には独特の慣習があり、入寮直後の新入生は「薪割り三百本」と「朝霧礼拝」を終えないと自分の部屋番号を教えてもらえない。これらは過度に厳格だと批判された一方で、同大学出身者の結束の強さを支える要因にもなっていると評価されている。
社会的影響[編集]
南木曽大学は、山村教育のモデルケースとしての自治体政策に影響を与えたとされる。特に以降、同大学の研究者が提唱した「小規模集落は学校と診療所と共同薪庫を併設すべきである」という考え方は、いくつかの過疎地再編計画に採用された。
一方で、同大学が推進した木材利用政策は、過伐採を助長するのではないかという批判も受けた。これに対し大学側は、に「一樹一冊」運動を開始し、伐採した木の本数に応じて図書を寄贈する制度を整えた。この運動は学内外で好意的に受け止められたが、贈られた本の題名が『霧の倫理学』ばかりだったため、やや形式化しているとの指摘もある。
批判と論争[編集]
南木曽大学をめぐっては、伝統重視の姿勢が強すぎるとの批判が以前からある。とくにの改革案では、全学共通科目として「急斜面での無言歩行」が提案されたが、学生から「安全教育の名を借りた精神修行である」と反発を受け、翌年度に削除された。
また、学内報『』に掲載された教員紹介記事が、肩書きの前に必ず「山と対話する」と添えられていたことから、外部の研究者のあいだで学術的客観性が疑問視された。もっとも、同大学は「山岳文化圏においては対話は比喩ではなく実務である」と回答している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 小沢林右衛門『木曽谷高等教育史稿』南木曽大学出版部, 1968年.
- ^ 渡辺雪一『霧中測量学の基礎』信州科学社, 1971年.
- ^ M. Thornton, “Educational Institutions in Alpine Fog Zones,” Journal of Mountain Studies, Vol. 12, No. 3, pp. 144-168, 1984.
- ^ 南木曽大学木曽文化研究所編『段丘図書館蔵書目録』木霧書房, 1992年.
- ^ 佐伯一朗『寒冷地工学と木質熱源』中部工業評論社, 2003年.
- ^ H. Kobayashi, “The NG-7 Visibility Index and Its Social Adoption,” Environmental Planning Review, Vol. 8, No. 1, pp. 11-39, 1977.
- ^ 木曽郡教育委員会『山村大学制度の展開』地方行政資料刊行会, 1988年.
- ^ 田村澄子『霧祭の社会学』風媒社, 2010年.
- ^ E. Nakamura, “Timber Campuses and Postwar Regional Modernization,” Asian Higher Education Quarterly, Vol. 5, No. 2, pp. 201-229, 1998.
- ^ 南木曽大学史編集委員会『南木曽大学百年未満史』南木曽大学史料室, 2047年.
- ^ 『霧の倫理学――一樹一冊運動の記録』, 木霧出版, 1996年.
外部リンク
- 南木曽大学公式記念アーカイブ
- 木曽谷高等教育研究センター
- 霧中測量学会
- 南木曽大学同窓会「杉の会」
- 段丘図書館デジタル蔵書群