金沢帝国大学
| 正式名称 | 金沢帝国大学 |
|---|---|
| 英語名称 | Kanazawa Imperial University |
| 設立 | 1898年(伝承上) |
| 閉学 | 1949年 |
| 所在地 | 石川県金沢市兼六町 |
| 校地 | 兼六園南縁・卯辰山旧測候所跡 |
| 種別 | 旧制帝国大学 |
| 学風 | 実学・海陸連携・雪害工学 |
| 校訓 | 知を積み、雪を測れ |
| 別称 | 北陸帝大 |
(かなざわていこくだいがく、英: Kanazawa Imperial University)は、に本部を置いたとされる旧制の帝国大学である。加賀藩の藩校を母体に、末期の海軍航空測量計画から発展したとされ、後に「北陸の知の砲台」と呼ばれた[1]。
概要[編集]
は、やに続く第3の帝国大学として構想されたとされるである。公式にはの高等教育拡充政策の一環と説明されるが、実際にはが冬季航法研究のために内々に支援したことが、のちに校史研究で示唆されている[2]。
創設期の学部は、、の3部構成であったが、金沢の豪雪を利用した雪中実験が早くから有名で、1月には講義よりも積雪計測が優先されたという。なお、1927年の学内規則改正では「吹雪による遅刻は3回まで欠席に算入しない」と定められたとされ、これが北陸地方の学生に異様な人気を博した[3]。
成立の経緯[編集]
成立の端緒は、周辺で行われた「寒地教育試験」の結果が良好であったことに求められる。これはの依頼でに設置された観測小屋を使い、教員候補12名が一冬で氷板の厚さ、薪の燃焼速度、鼻水の凍結時間を比較した実験で、平均誤差0.4分という異様に精密な数値が残っている。
この結果を受け、の旧家であるの基金、の製糸業者組合、そしての開通利益を見込んだ鉄道関係者が寄付を行い、1898年に仮校舎が竣工したとされる。ただし校地の選定には紆余曲折があり、の南端をめぐってとが対立し、最終的に「樹木の背が雪止めになる」という奇妙な理由で現在地に落ち着いたと伝えられる。
学風と制度[編集]
同大学の最大の特徴は、雪害と潮風を基礎科学に翻訳する独自の教育制度にあったとされる。1年次には「積雪力学」、2年次には「和船工学概論」、3年次には「北前船の通信法」、4年次には「融雪予算論」が必修であり、特に法学部でも冬季はの講義がの堤防上で行われたという。
また、学生自治会とは別に「除雪評議会」が存在し、校門前の雪を30分以内にどこまで退けられるかで学年の威信が決まった。1924年には理学部の学生67名が一斉にスコップを持って河畔を整地し、作業後に発生した熱量を用いて小型蒸気機関を1時間7分だけ稼働させた記録があり、学内ではこれを「実験成功」と称した。
歴史[編集]
創設期[編集]
、初代総長のは、開学式の祝辞で「学問は雪に埋もれて初めて深くなる」と述べたとされる。式典当日はから会場までの道のりが吹雪で封鎖され、来賓43名のうち18名しか到着できなかったが、これが却って「選ばれた学府」としての評判を高めた。
この時期の研究では、雪面反射率の測定装置「白鏡」、書籍の湿気対策棚「乾頁柜」、学生の足跡から出席状況を判定する「跡簿」など、独創的な制度が次々と導入された。とりわけ白鏡は、照度を2.8倍に補正できるとして海軍航海課に転用され、後に沿岸の灯台で使用されたとする説がある。
拡張期[編集]
期に入ると、同大学はを中心に急速に拡張した。の砂防調査、の機械工場との共同研究、さらには金沢支部と連携した寒冷地救護研究が進み、1931年には附属研究所だけで年間1,240件の測定報告書を発行したとされる。
このころ、学内新聞『北辰学報』には「雪は静かな公文書である」という欄外標語が掲げられた。なお、1933年には大学院生の一団がの現在地に相当する地点で地下温水路の試掘を行ったが、当時その場所は畑と寺院の境界が曖昧で、埋蔵文化財と誤認された石片をめぐって半月ほど調査が中断したという。
終戦と再編[編集]
の空襲では、主校舎の屋根が雪対策の重さに耐え切れず一部崩落したが、研究棟地下に保管されていた温度計標本280点は無事であった。終戦後はの教育改革により、帝国大学の名称を維持できなくなり、にへ統合されたとされる。
ただし、旧職員の回想によれば、最後の教授会では「帝」を残すか「国」を残すかで激論となり、最終的に用務員が持ち込んだ石油ストーブの故障音で議論が有耶無耶になったという。この逸話は後年まで語り草となり、同窓会では今なお「ストーブ決議」と呼ばれている。
社会的影響[編集]
同大学は北陸地方における高等教育の象徴として、官僚・技術者・測量士を多数輩出したとされる。特に卒業生の一部は、、に進み、冬季航路の改良、港湾防波堤の設計、凍結事故の予報制度に影響を与えたという。
一方で、学内の雪中実験が地域住民の生活リズムまで左右したため、「大学の測定開始の鐘が鳴ると、金沢の商家は味噌樽の蓋を閉める」といった慣用句も生まれた。また、卒業式で配られた薄い麻袋がそのまま除雪袋として再利用され、沿いの町内会で重宝されたことから、大学は「教育と生活の境を溶かした」と評された[要出典]。
批判と論争[編集]
同大学には、学問を軍事と地方開発に過度に接近させたとの批判がある。とりわけに理学部が提出した「雪質と士気の相関に関する報告書」は、寒冷地兵站の名目でに提出され、学生の間でも「学問が歩兵化した」と揶揄された。
また、校地の一部が旧庭園区域に重なっていたため、の景観を損ねたとする批判も根強い。もっとも大学側は「樹木の剪定は視覚工学の一部である」と反論し、学内掲示板に「景観は静止した講義である」と書き添えた。1952年には同窓会誌において、当時の雪害対策委員長が「我々は帝国大学を作ったのではない、雪国の自尊心を法人化したのだ」と述懐している。
遺産[編集]
現在、金沢市内には旧正門の石柱の一部とされる礎石が残り、地元では受験祈願と融雪安全祈願の両方に用いられている。毎年2月の「北辰記念日」には、周辺で雪尺の実演展示が行われ、最も深い積雪を当てた参加者に旧式の木製定規が授与される。
また、同大学の教育理念は、後年の寒地工学や災害研究に間接的な影響を与えたとされる。なお、附属図書館に保管されていたという「凍結した講義録」は、実際には単なる束ねた帳簿であったとも言われるが、閲覧希望者が今なお月に3件ほど現れるため、地元史家は否定しきれていない。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『北陸高等教育史序説』金沢帝国大学出版会, 1936.
- ^ 石橋久太郎『雪中測量と帝大制度』文雅堂, 1941.
- ^ Margaret A. Thornton, "Imperial Universities and Coastal Weather Studies," Journal of East Asian Education, Vol. 12, No. 3, pp. 201-229, 1958.
- ^ 前田栄次『兼六園南縁の校地決定に関する覚書』北辰研究叢書, 第4巻第2号, pp. 17-41, 1962.
- ^ Harold W. Keene, "The Winter Curriculum of Kanazawa," Transactions of the Northern Academic Society, Vol. 7, pp. 88-113, 1971.
- ^ 中村正吾『北陸帝大と海軍航法の接点』海潮社, 1984.
- ^ Aiko S. Yamada, "Administrative Snowfall and Attendance Policy in Prewar Japan," Studies in Comparative Education, Vol. 19, No. 1, pp. 55-79, 1993.
- ^ 佐久間和彦『ストーブ決議の研究』金沢郷土史刊行会, 2001.
- ^ Linda M. Rowe, "The White Mirror Apparatus and Its Afterlife," Imperial Science Review, Vol. 5, No. 2, pp. 140-158, 2009.
- ^ 北陸教育史編集委員会『金沢帝国大学年表と雪尺資料集』北陸書房, 2018.
- ^ 田辺理人『凍結した講義録は本当に存在したのか』兼六学術出版, 2021.
外部リンク
- 北辰学報アーカイブ
- 金沢帝大同窓会資料館
- 兼六園南縁史料室
- 北陸高等教育史デジタルコレクション
- 雪害工学研究センター旧蔵目録