壇ノ浦に沈む都市『縷々伊江』
| 名称 | 縷々伊江 |
|---|---|
| 所在地 | 壇ノ浦海底(山口県下関市沖) |
| 時代 | 平安時代末期から鎌倉初期 |
| 構造 | 木造浮桟橋式・可動路地網 |
| 推定人口 | 約3,800人(全盛期) |
| 沈没年 | 文治元年(1185年)頃 |
| 調査機関 | 海上遺構調査会、下関海洋史料研究所 |
| 別名 | 海底の縷の都 |
| 関連伝承 | 平家落人伝承、潮待ち港伝説 |
壇ノ浦に沈む都市『縷々伊江』(だんのうらにしずむとし るるいえ)は、下関沖の海底に存在するとされる、平安時代末期の水上都市である。潮流に応じて街路が「縷々」とほどける構造を持っていたと伝えられ、の古漁記録や近代の潜水調査報告でもたびたび言及される[1]。
概要[編集]
縷々伊江は、の潮流が最も複雑な一帯に建設されたとされる水上都市であり、交易、避難、宗教儀礼の三機能を兼ねていた都市である。伝承上は、潮の満ち引きに合わせて橋桁が上下し、夜間には家屋の外壁に油紙を張って側の灯りを反射させることで、海上から見ると一続きの街に見えたという。
成立の経緯については諸説あるが、もっとも広く流布しているのは、残党の避難港として始まり、その後に系の商人集団が加わって半ば自治都市化したという説である。なお、の地誌『海渕拾遺』には「縷々伊江、昼は市、夜は海」とあり、研究者の間ではこの一文が都市の性格をよく要約しているとされる[2]。
歴史[編集]
創建伝承[編集]
縷々伊江の創建は、3年の大潮日に、下関の塩商・が海底に沈んだ木杭を見つけたことに始まるとされる。彼はそれを「潮の通り道」と解釈し、の助言を受けて、杭を結ぶように浮き舞台と住居を設置したという。創建当初の戸数は42戸で、うち7戸が灯明役、3戸が潮見役、1戸が「橋の夢を記録する役」であったとする古記録が残る。
この段階では都市というより集住地に近く、船着き場の拡張に伴って住民は急増した。『安徳院海底録』によれば、最盛期には日中の往来が1日平均1,120人に達し、干潮時には周辺の浅瀬に臨時市場が立ったという。ただし、この数字は後世の学者が港湾税の推定を誇張した可能性があるとも指摘されている。
文治の沈下[編集]
沈没の直接原因は、文治元年の大潮と強風が重なったことにあるとされるが、都市内部で発生した「鐘楼の反響事故」が水門を破壊したという異説もある。特に有名なのは、夜半にの鐘が3回鳴った直後、南区の桟橋が連鎖的に沈降し、街路が「縷々」と裂けるように崩れたという伝承である。
海底への沈下は数時間で完了したとされる一方、住民の避難は3日間続いた。『壇ノ浦潮記』には、避難船が計187隻、積み出された家財が木箱2,416個、救出された経文が48巻と記されている。もっとも、同書の筆者はの海事行政に関わっていた人物であり、救出数を大きく見積もる癖があったともいわれる。
都市構造[編集]
縷々伊江の最大の特徴は、都市が固定的な陸地ではなく、潮位差を前提に設計された可動式の街路網にあったとされる点である。中心部には「縷路」と呼ばれる幅1.8メートル前後の通路が放射状に延び、その交点ごとに小規模な水上倉庫が置かれていた。
住居はとを混ぜた防湿材で補強され、各家には「潮札」と呼ばれる木札が吊られていた。これは本来、住民の避難順を示すものであったが、のちには商家の信用格付けにも転用され、潮札が赤い家は塩を安く仕入れられたという。なお、潮札の色分け制度は5段階制であったとされるが、史料によっては7段階と記されており、研究者の間で小さな論争が続いている。
また、都市中央の「返潮堂」には、海面の高さを基準に決裁を行う役所があり、ととが同席する独特の会議形式が採られていた。会議は満潮開始から退潮までの約2時間40分以内に終える必要があり、議事録にはしばしば「時切れにより続きは明日」と記されている。
社会と文化[編集]
縷々伊江の社会は、海上交通と宗教儀礼に強く依存していた。毎月8日の「潮縫い祭」では、住民が麻糸を海面に投げ入れ、翌朝に引き上げた糸の絡まり方で翌月の漁運と交易運を占ったとされる。糸が3重に絡まった年は税を半減し、逆に切れ方がまっすぐだった年は疫病が流行るという迷信があった。
教育面では、都市内の寺子屋「縷々院」が有名である。ここでは読み書きのほか、潮の匂いを識別する訓練が行われ、卒業生は「塩目利き」として各地の市場に雇われた。『江戸前期塩業録』には、縷々院出身者は相場の変動を平均1日半早く察知したとあるが、現代の経済史研究者はこれを「ほぼ占いに近い」と評している。
一方で、都市の公共音楽として知られる「沈鐘舞」は、高潮時に鐘を水面に半分沈め、低い倍音を響かせる儀礼であった。これが後の周辺の祭礼太鼓に影響したという説があり、地域文化への波及は少なくなかったとみられる。
批判と論争[編集]
縷々伊江をめぐっては、その実在性自体を疑う声が古くから存在する。特に東京帝国大学のが大正12年に発表した論文では、「都市の記述があまりに精密であるが、実地の痕跡が流動的すぎる」として、後世の創作の可能性が示唆された[3]。
これに対し、地元の研究者は、海底遺構が潮流によって毎年位置を変えるため、固定座標での検証が不可能であると反論した。実際、平成10年の潜水調査では、前年度に確認された石列が約9メートル北東に移動しており、調査班は「潮汐による微細移設」と報告したが、批判側は「測り間違いではないか」と応じた。
また、観光化を進める下関市の一部委員会が、1990年代に「海底都市縷々伊江」の復元模型を製作した際、路地数を史料より2倍多く作ってしまい、かえって都市の過密ぶりが強調されたことも論争の一因である。この模型は現在、に展示されているが、解説板の一部が潮風で剥離し、来館者の想像力に依存する状態となっている。
現代の受容[編集]
現代において縷々伊江は、海底遺跡としての価値よりも、「沈んでもなお機能を残す都市」の象徴として扱われることが多い。とりわけ、災害都市計画や港湾再開発の分野では、高潮への適応モデルとして参照されることがある。
内の学校教材では、縷々伊江はしばしば「海とともに暮らした人々の知恵」として紹介されるが、児童向け資料の脚注にはなぜか「なお、都市の一部は潮の干満に応じて休業した」とだけ書かれており、実務的すぎるという感想が寄せられている。
また、近年はの地域物語化事業の一環として、「壇ノ浦ナイト・ルート」に縷々伊江が組み込まれ、海面投影による仮想復元映像が上映されている。映像では都市中央の返潮堂がやや豪華に描かれているが、制作会社は「資料に基づく」と説明している一方で、実際には照明演出のために柱を6本増やしたことが後に明らかになっている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 藤原重文『壇ノ浦海底都市論』海潮社、1978年、pp. 41-89.
- ^ 樋口正一郎「縷々伊江伝承の成立と潮位記録」『東洋史学』Vol. 12, No. 3, 1923, pp. 201-233.
- ^ 松浦保之助『下関港浚渫記録集成』下関港湾協会、1907年、pp. 15-26.
- ^ H. Carter, “Submerged Urban Topographies in the Inland Sea”, Journal of Maritime Folklore, Vol. 8, Issue 2, 1961, pp. 77-104.
- ^ 山本澄江『海底考古学と瀬戸内の伝承』岩波書店、1984年、pp. 112-148.
- ^ L. Watanabe, “Tide-Linked Settlement Systems and Their Collapse”, Pacific Archaeological Review, Vol. 19, No. 1, 2002, pp. 5-39.
- ^ 下関海洋史料研究所編『縷々伊江潜水調査報告書 第4号』、1998年、pp. 9-62.
- ^ 高橋篤志『潮札の民俗誌』吉川弘文館、1995年、pp. 63-91.
- ^ Elizabeth N. Rowe, “The Politics of Sunken Memory in Western Japan”, Asian Historical Studies, Vol. 27, No. 4, 2011, pp. 301-329.
- ^ 『海渕拾遺』校訂本、海峡文庫、1664年、pp. 18-20.
- ^ 小野寺玄『返潮堂議事録断簡』地方史料社、1891年、pp. 7-14.
- ^ “A Curious Note on the Ruins of Ruruie”, Bulletin of Submerged Heritage, Vol. 3, No. 1, 1974, pp. 1-8.
外部リンク
- 下関海洋史料研究所
- 海峡メモリアル館
- 潮汐文化アーカイブ
- 壇ノ浦伝承データベース
- 西日本海底遺構協会