大因習祭
| 行事名 | 大因習祭 |
|---|---|
| 開催地 | 岐阜県高山市・飛騨一円 |
| 開催時期 | 毎年11月中旬 |
| 種類 | 祭礼・年中行事 |
| 由来 | 飛騨の村落に伝わる古式作法の集積を、近世後期に神社祭礼として再編したもの |
大因習祭(だいいんしゅうさい)は、のの祭礼[1]。より続くのの風物詩である。
概要[編集]
大因習祭は、を中心に行われる年中行事で、の例祭に合わせて実施されることで知られている。古来、各集落に残る作法や禁忌を一時的に可視化する祭礼として親しまれてきた[1]。
祭りでは、藁束、古木の札、家ごとの紋を染めた前掛けなど、いわゆる「因習具」が用いられ、地区ごとに異なる手順で行われる。もっとも、統一された形式は存在せず、以降に周辺で整えられた「標準式」も、実際には各区の申し合わせをまとめただけであるとされる[2]。
現在では、見物客向けの公開行事としても知られる一方、地元では「うっかり手順を飛ばすと翌年の納豆が固まる」といった半ば冗談の伝承が残っている。このような逸話が多いことから、の晩秋を代表する風物詩であるとされる。
名称[編集]
名称の「大因習」は、もともと後期の口承において、古い作法を多く残す集まりを指す総称として用いられたものとされる。文献上は11年の『飛騨年中記』に「因習の大寄り」と見える記述があり、これが後に縮約されて現行名になったという説が有力である[3]。
ただし、祭礼名としての「大因習祭」が定着したのは初期であり、当時の教育会が「地域の生活儀礼を観光資源として紹介する」目的で採用したとする資料がある。また、町内会の古文書には「大印習祭」と誤記された例もあり、写本の段階で表記が揺れていたことがうかがえる。
なお、地元では単に「いんしゅうさま」「大祭」と呼ばれることもあるが、観光案内では「大因習祭」の表記がほぼ固定している。これはがに作成したリーフレット以降、広報上の統一が進んだためとされる。
由来・歴史[編集]
起源伝承[編集]
起源については、末期、山間の小社に奉仕していた社家が、秋の収穫を祝う際に各家の癖を並べて記録したことに始まると伝えられる。特に、食前に三度手を打つ家、戸口で靴を左から並べる家、必ず囲炉裏の灰を足でならしてから座る家などの差異を「村の守り」として一覧化したことが、のちの祭礼化に繋がったという[4]。
一方で、の古記録には、冬囲いの準備と神事をまとめた「因習寄せ」が見えるだけであり、これを後世の編集者が壮大に解釈した可能性もある。もっとも、祭礼の側ではそうした曖昧さ自体を価値とみなし、伝承を敢えて一本化しない姿勢が保たれている。
近世の整備[編集]
近世後期になると、の郷方役人であったが、村々の作法を「見世物になり得る順序」に整理したとされる。彼は9年に、戸口の飾り方、鍋の位置、箸の向きまで含む31項目の「旧慣帳」を作成し、これが祭礼の骨格になったとされる[5]。
この時期、祭りは宗教行事というより、村の調停の場として機能していた。たとえば、隣村との水利争いがあった年には、行列の先頭で双方の代表が同じ木槌を持つことで「口論の継続を翌年まで持ち越す」儀礼が導入され、結果的にその場の衝突を避ける効果があったという。
近代以降[編集]
に入ると、迷信排除の風潮から一部の作法が「非合理的」として削減されたが、逆に削減された項目ほど人気が高まり、見物人が増えた。とりわけにの巡回調査員が「解説文が長すぎて本体が何か分からない」と記した報告書は、今日でもしばしば引用される[6]。
には内の商店街が参加を始め、祭りは地域振興の側面を強めた。なお、には一度だけ「合理化案」が提出され、行列を20分短縮する計画が立てられたが、地元保存会が「短縮は因習の風格を損なう」として反対し、結果として鐘の打数だけが2回増えた。
日程[編集]
大因習祭は毎年11月14日から16日にかけて行われる。初日は「火起こしの口慣らし」、2日目は「因習渡し」、最終日は「返し鎮め」と呼ばれ、各日に異なる作法が定められている[7]。
本来は旧暦10月下旬の新嘗後に行われていたが、38年の交通事情に合わせて現在の日程に改められたとされる。もっとも、古老の間では「本来は霜が3回降りてから始めるべき」とする説もあり、毎年1〜2日程度の前後はむしろ伝統の範囲内とみなされている。
また、日程の決定にはの積雪量が大きく関わっており、によれば、直近10年のうち8年は初日に0.2〜1.1cmの降雪が確認されている。これは偶然ではなく、祭礼の「気配」を整えるために必要な微量の雪であると説明されることがある。
各種行事[編集]
口慣らし行列[編集]
初日の目玉は、町内ごとに異なる挨拶文句を唱えながら進む口慣らし行列である。参加者は必ず三拍子で足を踏み替え、最後に「去年の癖は今年の守り」と唱える決まりがある[8]。
特にでは、先導役がわざと一度だけ言い間違えるのが通例で、これを周囲が即座に修正することで「共同体の呼吸」を確認するという。ある年、見学に来たの研究班が正しい発音をメモしようとしたところ、町内の子どもたちが全員で別の訛りを始め、記録が無意味になったという逸話が残る。
因習札奉納[編集]
2日目には、各家庭で守られてきた癖や禁忌を木札に書き、へ奉納する因習札奉納が行われる。書かれる内容は「朝は味噌汁を必ず2回かき混ぜる」「北枕を嫌う」「薪を積む高さは7束まで」など多岐にわたり、札の総数は多い年で1,284枚に達する[9]。
この札は終了後に焼納されるが、火の勢いによって翌年の流行が占われるとされる。1970年代には、札が強く舞い上がった年ほど観光パンフレットの部数が増えるという、統計的には説明しにくい相関が話題になった。
返し鎮め[編集]
最終日の返し鎮めでは、祭礼で持ち出された道具や言い回しを元の家に戻す儀式が行われる。各区の代表は、竹製の箱に入れた小石と白布を持ち帰り、それを翌年まで座敷の上段に置いておくとされる。
なお、以降は一般客向けに「おさめ拍子」が導入され、最後に全員で同じ間隔で3回手を打つようになった。地元ではこれを「やっと観光が因習に追いついた」と評する者もいるが、保存会は「観光に合わせたのではなく、昔からそうだった」と説明している。
地域別[編集]
大因習祭は中心部だけでなく、周辺の集落ごとに細部が異なる。たとえばでは藁の結び目の数を重視し、では祭礼前夜に必ず同じ鍋で3回湯を沸かす。これに対しでは、道具よりも掛け声の節回しが重視される[10]。
では雪囲いに使った縄をほどかずに神前へ持ち込み、では収穫した赤かぶの形でその年の吉凶を占う。さらにに近い山村では、参加者が必ず1度だけ道に迷ってから会場へ入るという独特の作法があり、これは「祭礼の始まりには少し回り道が要る」ためだと説明される。
もっとも、こうした違いは対立ではなく比較の楽しみとして受け止められており、毎年の見物客は「どの地区がいちばん因習らしいか」を競うように巡回する。保存会の内部資料によれば、の地区別来訪者数は本町が約8,400人、丹生川町が約5,700人、清見町が約4,900人であったとされる。
脚注[編集]
[1] 飛騨一宮水無神社祭礼記録編集委員会『飛騨祭礼年表』、飛騨郷土文化研究所、1998年。
[2] 岐阜県教育会編『高山祭礼と生活儀礼』、岐阜県教育会出版部、1936年。
[3] 竹内春岳『飛騨年中記校注』、山峡書房、1972年。
[4] 安藤百合子「山村儀礼における禁忌の可視化」『民俗文化研究』第18巻第2号、pp. 41-58、2004年。
[5] 渡辺精右衛門『旧慣帳』天保9年写本、飛騨古文書保存会蔵。
[6] 岐阜県庁観光調査室「高山地区巡回報告」1928年、未公刊。
[7] 小島義博「晩秋祭礼の日程固定化に関する一考察」『季節行事学報』Vol. 7, No. 3, pp. 12-29、1989年。
[8] 松本怜奈『祭礼の発声と共同性』、東海民俗出版社、2011年。
[9] 高山市大因習祭保存会『因習札集計報告書 令和4年度版』、2023年。
[10] 佐伯直樹「飛騨山地における祭礼作法の地域差」『地方行事史叢刊』第12号、pp. 77-93、2016年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 飛騨一宮水無神社祭礼記録編集委員会『飛騨祭礼年表』飛騨郷土文化研究所, 1998.
- ^ 岐阜県教育会編『高山祭礼と生活儀礼』岐阜県教育会出版部, 1936.
- ^ 竹内春岳『飛騨年中記校注』山峡書房, 1972.
- ^ 安藤百合子「山村儀礼における禁忌の可視化」『民俗文化研究』Vol. 18, No. 2, pp. 41-58, 2004.
- ^ 渡辺精右衛門『旧慣帳』天保9年写本, 飛騨古文書保存会蔵.
- ^ 岐阜県庁観光調査室「高山地区巡回報告」1928年, 未公刊.
- ^ 小島義博「晩秋祭礼の日程固定化に関する一考察」『季節行事学報』Vol. 7, No. 3, pp. 12-29, 1989.
- ^ 松本怜奈『祭礼の発声と共同性』東海民俗出版社, 2011.
- ^ 高山市大因習祭保存会『因習札集計報告書 令和4年度版』, 2023.
- ^ 佐伯直樹「飛騨山地における祭礼作法の地域差」『地方行事史叢刊』第12号, pp. 77-93, 2016.
外部リンク
- 高山市大因習祭保存会公式記録
- 飛騨祭礼アーカイブ
- 岐阜民俗行事データベース
- 飛騨一宮水無神社年中行事案内
- 地方行事史研究センター