大罪人「クマ・タ・ダ」
| 名称 | 大罪人「クマ・タ・ダ」 |
|---|---|
| 別名 | 熊多駄、熊多田、クマタダ大罪条目 |
| 初出 | 1897年頃 |
| 成立地 | 北海道胆振地方、後に樺太・青森へ波及 |
| 分類 | 民間裁き、宗教的烙印、共同体制裁 |
| 主管とされた組織 | 北海道旧慣調査会(後年の再編資料による) |
| 禁忌対象 | 熊害、山札改竄、木札隠し、祭具の私用 |
| 関連文書 | 『黒印帳』、倶多楽村口達控 |
大罪人「クマ・タ・ダ」(だいざいにん「くまただ」)は、末期のにおいて成立したとされる、罰則・戒名・民間伝承が混成した特殊なである。のちに外郭の研究会によって整理され、地方史・宗教史・風俗史の境界領域で語られている[1]。
概要[編集]
大罪人「クマ・タ・ダ」とは、本来は山間部の対策をめぐって作られた村落内の罰名であるが、次第に「共同体の秩序を破った者」一般を指す言葉として拡張したものである。語義は不安定で、は獣害、は断罪、は帳簿上の除籍を意味すると説明されることが多い。
もっとも、初期の記録では「クマは熊ではなく『隠匿された米俵』を指す」とする説もあり、学説は分裂している。現在では民俗学・法制史・宗教社会学の三方面から研究されているが、一次資料の多くが焼失しているため、後世の引用が原資料より有名になった珍しい例とされる[2]。
名称と語源[編集]
名称の「クマ・タ・ダ」は、の方言で役目札を意味する「クマ札」と、断絶を表す「タチ切り」、除籍の「ダ」が結合したものとされる。これに対し、の古老証言では「熊を村の外へ追い出す際の掛け声」であったという説もあり、地域によって解釈が大きく異なる。
1908年に出身の語彙学者・が「三拍子のように聞こえるため、実は呪的リズムを持つ」と指摘したことで、言葉そのものが研究対象化した。なお、大林はこの分析の中で「タの反復は切断ではなく縫合を示す」と結論づけており、以後の研究会でしばしば引用されたが、引用者の半数が文章を最後まで読んでいないことが2021年の再調査で判明している[3]。
成立史[編集]
村落規約からの発生[編集]
発端は1897年、の一部で飢饉後の備蓄米が消えた事件である。村役場は当初、単純な窃盗として処理しようとしたが、冬期の出没が重なったため、犯人を「人と獣の境界を踏み越えた者」と見なす独自の処罰が作られた。これがのちの「大罪人」条項である。
処罰は極めて具体的で、木札に氏名を刻み、の鐘楼の下で三晩晒し、さらに共同井戸の桶に触れさせないというものであった。1899年の『倶多楽村口達控』には、対象者が7名と記されているが、同じ頁の余白に「実際は6名ではないか」と毛筆で追記があり、史料の信頼性をめぐる論争の火種になっている。
黒印帳の時代[編集]
1904年頃になると、の巡回記録に「黒印帳」という黒革の台帳が登場する。これは大罪人に指定された者の家筋・交友・祭礼参加可否を記した帳簿で、村単位の排除を制度化したものとされる。大正期には、これが隣村へも写本され、各地で微妙に条文が変化した。
特に有名なのが「熊を笑った者は三代にわたり山の仕事に就けない」とする条項である。実際に適用されたかは不明だが、1923年のの記録では、ある炭鉱労働者がこの条文を嫌って転居し、結果として後にの港湾組合で名簿管理の専門家になった、という妙にできすぎた逸話が残されている。
法制度化と崩壊[編集]
1931年、系の地方調査でこの慣行が「準司法的な風俗制裁」として報告され、各地の教育委員会やが巻き込まれる形で問題化した。もっとも、当時の報告書は語句の多くが婉曲化されており、「クマ・タ・ダ」は一度も正式名称として書かれていない。その代わり「件の三字符号」とだけ記され、研究者たちを長く悩ませた。
戦後、民政局の聞き取り調査で初めて英訳案「The Great Sinner」が付され、そこから逆輸入的に大罪人という表現が広まった。ところが、翻訳担当のアーサー・L・ベネットが「sinner」という単語を気に入りすぎたため、以後の資料では宗教色が過剰に強調され、元々の村落規約としての性格が薄れていったとされる[4]。
社会的影響[編集]
大罪人「クマ・タ・ダ」は、実際にはごく限られた地域慣行にすぎなかったが、戦後の民俗ブームによって「日本の無形の村法」の象徴として扱われた。1958年にはの地方番組で紹介され、視聴率は7.4%と低調だったものの、翌週の投書欄に「うちの町内会にも同じような札がある」とする便りが43通寄せられたという。
また、1970年代には学校教育向け資料で「集団制裁の負の歴史」として使われたが、なぜか児童向けの図版では熊が法帽をかぶって描かれ、教育現場から「怖いのか可愛いのか分からない」と苦情が出た。これにより、1982年の改訂版では熊の作画がやや写実的になり、逆に子どもの不安を増幅したと報告されている。
批判と論争[編集]
最大の論点は、そもそも「クマ・タ・ダ」が一つの制度名なのか、複数の慣行の総称なのかである。のでは前者、の調査班では後者を支持し、1978年から1986年にかけて論争が続いた。論争は学会誌の紙幅を大きく占め、ある年には座長が「これは学問ではなく語感の取り合いである」と発言したと記録されている。
さらに、一部の研究者は「大罪人」という語が後付けで、もともとは年貢未納者の俗称だったと主張した。これに対し、別の系統の研究では、山中で失踪した巡礼者の木札が偶然発見されたことから生まれた宗教的禁制だとする説が有力である。ただし、2020年の資料整理では、問題の木札が実は40年代の観光土産であった可能性も指摘されており、学界は静かにざわついた[5]。
近年の研究[編集]
2000年代以降はデジタル人文学の手法が導入され、写本の筆圧、墨の粒度、余白の癖から資料相互の関係が再検討されている。附属図書館の公開アーカイブでは、7種の異本が比較可能になり、そのうち2種には同じページにだけ異様に丁寧な熊の毛並みが描かれていた。
また、の郷土館が所蔵する口伝録音では、語り手が「クマ・タ・ダは悪人ではなく、村の寒さを受け止める器だった」と述べており、近年は制裁概念よりも共同体の記憶装置として再評価されつつある。もっとも、この録音は途中で湯沸かし音が入り、発話の一部が聞き取れないため、解釈の自由度がやや高すぎるとの批判もある。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 大林義直『胆振方言における三拍子禁忌語の構造』北海道言語学会誌 第12巻第3号, 1908, pp. 41-66.
- ^ 佐伯真澄『黒印帳の成立と村落裁き』民俗史研究 第8巻第1号, 1934, pp. 9-28.
- ^ Arthur L. Bennett, “Sinners of the North: An Administrative Translation Problem,” Journal of Frontier Ethnography, Vol. 4, No. 2, 1951, pp. 113-147.
- ^ 藤堂久作『北海道旧慣調査会報告書に見る除籍儀礼』地方制度史叢刊 第19号, 1962, pp. 77-104.
- ^ 中島里子『「クマ・タ・ダ」伝承の再構成』民俗と記憶 第27巻第4号, 1981, pp. 201-230.
- ^ 小野寺健一『三字符号と共同体排除』法と風俗 第15巻第2号, 1990, pp. 55-79.
- ^ Margaret H. Sloane, “From Bear to Bureaucracy: Ritual Sanction in Hokkaido,” Asian Cultural Review, Vol. 11, No. 1, 1998, pp. 3-29.
- ^ 高瀬みどり『倶多楽村口達控の余白注記について』北方史料研究 第33巻第1号, 2007, pp. 88-112.
- ^ 山口誠一『「クマ・タ・ダ」は本当に熊か』北海道民俗史料集成 第5巻, 2015, pp. 144-169.
- ^ 編集部『熊を笑った者たち: 近代村落における名誉と除籍』郷土史新書, 2022, pp. 21-64.
外部リンク
- 北方俗制アーカイブ
- 胆振民俗資料研究所
- クマ・タ・ダ異本対照データベース
- 村落制裁史オンライン
- 北海道口伝資料館