戦前の日本で公開されたホラーモキュメンタリーの一覧
| 作品名 | 戦前の日本で公開されたホラーモキュメンタリーの一覧 |
|---|---|
| 原題 | List of Prewar Japanese Horror Mockumentary Films |
| 画像 | Kantei-kan end-roll frame (reconstructed) |
| 画像サイズ | 240px |
| 画像解説 | 1937年復元版の終映字幕に写る記録映画風タイトル画面 |
| 監督 | 長谷部 霧人、他 |
| 脚本 | 久慈 乙彦、藤代 みなと、他 |
| 製作会社 | 帝都記録映像社、浅草幻想映画工作所ほか |
| 公開 | 1924年 - 1940年 |
| 製作国 | 日本 |
| 言語 | 日本語 |
| 上映時間 | 各作品 18分 - 92分 |
『戦前の日本で公開されたホラーモキュメンタリーの一覧』(せんぜんのにほんでこうかいされたホラーモキュメンタリーのいちらん)は、からにかけてで公開された、記録映画形式を装ったをまとめた一覧である。映画史家のによって整理されたとされ、のちにの機関誌で半ば公認の分類語として定着した[1]。
概要[編集]
本項は、戦前で公開されたとされるホラーモキュメンタリー映画を、公開年順に整理した一覧である。ホラーモキュメンタリーとは、・・の体裁を借りつつ、怪異や心霊現象を事実のように提示するの一形式をいう。
この分類は、初期の映画批評家が「観客が最も恐れるのは幽霊ではなく、幽霊を統計で説明しようとする態度である」と述べたことに由来するとされる[2]。ただし、当時の配給各社はこの語を嫌い、代わりに「風俗実験映画」「民俗資料譚」などの呼称を用いたとの指摘がある。
一覧に収録される作品は、現存フィルムが少ない一方で、台本断片、上映会案内、新聞広告、検閲台帳が比較的多く残っている作品群である。特に内の・・での巡回上映記録が集中しており、観客動員の一部は夜学帰りの学生と好事家によって支えられていたとされる。
成り立ち[編集]
ホラーモキュメンタリーの原型は、代前半に流行した震災記録映画と心霊講演フィルムの混交に求められる。特に後、災厄の記録と怪談が同じ興行枠で扱われたことが、観客の認識を大きく変えたとされる。
の記録によれば、の「夜鳴谷奇譚会」上映会で、説明字幕に統計図表を挿入した短編が予想外の好評を得たことが、ジャンル成立の直接の契機になったという[3]。この短編では、村落で発生した失踪事件を「湿度と方言の相関」として解説する構成が採られ、観客の半数が途中退席し、残りの半数が追加上映を求めたと記録されている。
一方で、制作側は単なる怪談の再現では興行が弱いと判断し、の測量映像やの衛生啓発映画の語り口を模倣した。これにより、事実と虚構の境界が曖昧なまま「ほぼ報告書のように見える恐怖映画」が成立したのである。
一覧[編集]
1924年 - 1928年[編集]
最初期作品は短篇が中心であり、やの特別興行として公開された。代表作『海鳴りの戸籍簿』()は、失踪者の戸籍が波音とともに読み上げられるだけの作品であったが、字幕の厳密さが評価され、のちにでも再上映された。
『火葬場調査報告』()は、実在の火葬場を取材したように見せつつ、撮影班が終始路地裏で雲の流れだけを記録している異色作である。配給時には「焼失率六割」という不可解な宣伝文句が用いられ、から「誤認を誘う」との注意を受けたとされる。
1929年 - 1934年[編集]
この時期には長篇化が進み、を利用した「証言再現型」の作品が増えた。『煤けた村の統計』()は、村の人口減少を巡る聞き取り調査の形式で進行するが、被写体の背後に一貫して映る人影が問題となり、上映後に観客から「統計が一番怖い」との投書が相次いだ。
『霧の日記念館』()は、架空の地方博物館を舞台とした作品で、学芸員役のナレーターが展示品を解説するたび、照明が一瞬だけ消える演出が売りであった。なお、この暗転は当初は現像不良とみなされたが、配給会社は「心理効果」として押し切ったため、以後の作品にも流用された。
1935年 - 1940年[編集]
後期にはをすり抜けるため、民俗学と衛生映画を装う作品が増加した。『潮騒病理図譜』()は、海辺の集落で流行する原因不明の失語症を「潮位の変化による」と説明するが、終盤で潮位表そのものが人名簿に変わることで評価を決定づけた。
『最後の巡回診療車』()は、からの引揚げ証言を思わせる構成を持ちながら、実際にはの郊外で撮られたとされる。作品末尾に「本編はすべて実地調査に基づく」と表示されるが、調査票の欄外に猫の足跡が残っていたことが後年の研究で指摘された[要出典]。
登場人物[編集]
主要人物[編集]
は、一覧の基礎資料をまとめた映画史家であり、実際には上映会の弁士として活動していた人物である。彼は「怪異は映像化されると同時に統計化される」と主張し、各作品を年代別ではなく「恐怖の説明密度」で分類した。
は、初期作品の脚本を多く手がけたとされる台本作家である。彼の脚本には、町名の読みを誤魔化すためにわざと旧字体を多用する癖があり、検閲官が読み切れず通過したケースが複数あった。
は、後期の証言再現型作品で語りを担当した女性ナレーターで、落ち着いた口調と異様に丁寧な敬語が特徴であった。彼女の声は当初「録音機械に向いていない」とされたが、逆にそれが不気味さを高めたと評価されている。
その他[編集]
の技師は、暗部の粒子をわざと荒くする特殊現像を考案した人物として知られる。これは後に「霧粒子処理」と呼ばれ、観客に「見えないものが写っている」と誤認させる効果を生んだ。
また、弁士は、上映中に観客へ「この記録は事実である」と言い切った直後、紙片を落として笑いを取ることで知られていた。なお、彼の台本には毎回同じ場所に墨のにじみがあり、霊的介入と見る者もいる。
キャスト[編集]
多くの作品は無名俳優を起用し、あたかも実在の証言者であるかのように見せた。『煤けた村の統計』ではが村役場の書記を演じ、『霧の日記念館』ではが学芸員役を務めた。
一覧に含まれる作品の一部では、出演者の氏名がエンドロールではなく上映パンフレットの裏面にのみ記載された。これは「人物の実在性を弱めるため」と説明されたが、実際には出演料の一覧表を印刷し忘れたためとされる。
声の出演については、トーキー導入後にの朗読劇団員が多数起用された。とりわけの低い声は、後年のホラー番組制作で模倣されるなど、強い影響を残した。
スタッフ[編集]
映像制作[編集]
撮影は出身の撮影技師が中心となって行った。彼は逆光の代わりに障子紙を三枚重ねて光を拡散させる技法を好み、結果として被写体の輪郭が常に曖昧になる映像様式を確立した。
編集では、通常の連続編集に加え、あえて字幕の順序を数秒ずらす「遅延字幕」が導入された。これにより、観客は映像を見終わってから意味を理解することになり、恐怖感が増幅されたという。
製作委員会[編集]
後期作品では、、などが合同で資金を出し、「準科学映画共同製作会議」を名乗る製作委員会が形成された。名義上は教育普及を目的としていたが、実態は深夜回の興行成績で次回作の予算が決まる単純な興行体制であった。
なお、委員会の議事録には「観客が恐怖を信じる速度は字幕の行数に反比例する」と記されているが、これは後世の研究者から「きわめて映画的な誤謬」と評されている。
製作[編集]
企画[編集]
企画の多くは、地方紙の奇談欄や寺社の縁起書を下敷きにしていた。特にの山村で発見されたとされる「水面に映る役場」伝承は、少なくとも四本の作品に流用されたとされる。
制作会議では「怪談よりも地図のほうが怖い」という方針が共有され、画面内にやを執拗に挿入する方針が採られた。これが観客の実在感を強め、作品の宣伝文句「これは記録である」を成立させたのである。
美術[編集]
美術では、民家の襖に薄い青色の染料を使う「夜色塗り」が定番となった。これは昼間の撮影でも夜のように見せるための工夫であったが、乾燥不良により衣装に染み、出演者が現場で青みがかった汗をかいているように見えた。
また、舞台装置の多くはの古道具店で調達され、鏡台の裏に前所有者の名前がそのまま残っていた。作品によってはこの名前まで画面に映し込まれ、観客から「小道具の来歴が怖い」との感想が寄せられた。
撮影・音楽・主題歌[編集]
撮影では、の端材をつないで長回し風に見せる手法がよく用いられた。音楽はが担当し、琴と管楽器をわずかにずらして演奏することで、調性の崩れた不安感を生み出した。
主題歌は『帰らぬ戸口で』や『月の台帳』のように、題名だけで不穏さを喚起するものが多かった。なお、『月の台帳』は放送禁止に近い扱いを受けたが、歌詞の実態は「帳簿が月明かりでめくれる」という内容であり、今見るとやや間抜けである。
興行[編集]
封切りは主に・・の常設館で行われ、深夜の二本立て興行に組み込まれることが多かった。『潮騒病理図譜』はの初週で配給収入を記録したとされ、同時期の地方巡回ではの炭鉱町で異例の満員札止めとなった。
宣伝では「実地調査済み」「呪術監修付き」といった文言が用いられた。さらに一部地域では、上映前に観客へ「本編は教育資料です」と書かれた薄い冊子が配られ、これがかえって怪しさを増幅したという。
には『霧の日記念館』のリバイバル上映が行われ、当初の17分版に未公開の証言パートを加えた「準完全版」が公開された。テレビ放送は存在しない時代であるため、この分野ではのちのと色調問題が重要な論点になった。
反響[編集]
批評[編集]
批評家の評価は分かれた。映画雑誌『』は「恐怖の仮面をかぶった統計趣味」と評し、一方で『』は「民俗学のふりをした娯楽映画として興行的に大ヒットしうる可能性を示した」と持ち上げた。
とくにの論考では、ホラーモキュメンタリーが「実在を装うことでなく、実在の文体を奪うことで成立する」とされ、後年の批評理論に影響を与えた。
受賞・ノミネート[編集]
の『最後の巡回診療車』は、架空ので特別技術賞を受賞したとされる。受賞理由は「診療器具の音を火箸で再現した点」であったが、審査員の一人が上映中に筆記をやめていたため、実際には満場一致ではなかったとも伝えられる。
また、『煤けた村の統計』はの年度選考でノミネートされたが、作品名が長すぎるとして会場アナウンスで三度に分けて呼ばれたことが話題となった。
売上記録[編集]
一覧中で最大の興行成績を記録したのは『海鳴りの戸籍簿』で、累計入場者は約とされる。これは当時の中規模都市一つ分に相当すると説明され、配給会社は翌年以降に類似作を量産した。
なお、実際の入場者数は検閲台帳と切符台帳で一致せず、研究者の間では人説と人説が併存している。いずれも、途中で弁士が怖くなって声を落とした回の扱いをどう数えるかで意見が割れている。
テレビ放送[編集]
戦前作品であるため、初放送のテレビ番組としては存在しないが、以降に系の深夜特集で断片が紹介されたとされる。とりわけ『霧の日記念館』の一部は、フィルム保存庫の誤送により、民俗ドキュメンタリーと並べて放送された。
この誤放送は、視聴者から「夜中に本物の資料が最も怖い」との投書を集め、以後のホラー特集編成に影響した。なお、局側は翌週に謝罪テロップを出したが、誤送されたのはむしろ視聴率であったという皮肉な記録が残る。
関連商品[編集]
作品本編に関するものとしては、に配布された活弁台本集『怪異記録映画台本抄』が知られる。これは劇場配布用の薄冊子で、各作品の決め台詞と「観客が失神した際の対応」が記載されていた。
派生作品としては、戦後に刊行された再構成本『記録映画風怪談集』、およびに発売された8ミリ編集版『夜の統計』がある。また、には一部作品を模したラジオドラマCDが出たが、効果音がやや元気すぎて恐怖が薄れたと評された。
脚注[編集]
注釈 [1] 初期の整理者は、上映広告の写しと手書きメモを基礎資料とした。 [2] この発言の出典は複数あり、いずれも発言者が異なる可能性が指摘されている。 [3] 夜鳴谷奇譚会の実在性については、地方紙断片以外の裏付けがない。
出典 1. 長谷部霧人『日本怪奇記録映画史』帝都書房, 1954年. 2. 久慈乙彦『弁士と幽霊と統計図』浅草文化社, 1938年. 3. 藤代みなと『声で見る映画』新月館, 1941年.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 長谷部霧人『日本怪奇記録映画史』帝都書房, 1954年.
- ^ 久慈乙彦『弁士と幽霊と統計図』浅草文化社, 1938年.
- ^ 藤代みなと『声で見る映画』新月館, 1941年.
- ^ 小松原亮治「霧粒子処理の技法」『映画技術年報』Vol. 12, No. 3, pp. 41-58, 1937.
- ^ H. Kirito Hasebe, “Prewar Japanese Horror-Documentary and the Problem of Witness,” Journal of East Asian Film Studies, Vol. 4, No. 1, pp. 9-33, 1968.
- ^ 渡辺精一郎『戦前娯楽映画の周縁』銀河堂, 1972年.
- ^ 三橋玄朔「不協和和声と怪異の知覚」『音響と映像』第8巻第2号, pp. 117-129, 1939.
- ^ Margaret A. Thornton, “Accounting for the Unseen: Fake Documentation in Japanese Cinema,” Modern Screen Quarterly, Vol. 7, No. 4, pp. 201-225, 1981.
- ^ 長谷川祐一「実在を奪う映画文体」『映画批評通信』第3巻第6号, pp. 5-19, 1949.
- ^ 帝国映画研究会 編『昭和前期幻映画目録』帝国映画研究会出版部, 1956年.
- ^ 佐伯千代『月の台帳とその周辺』北斗閣, 1962年.
- ^ Kenji Morita, “The Cinematic Ledger of Ghosts,” Nipponic Arts Review, Vol. 15, No. 2, pp. 77-96, 1994.
外部リンク
- 帝都フィルムアーカイブ
- 浅草怪奇映画データベース
- 日本記録映像研究所
- 昭和前期幻映画目録オンライン
- 夜鳴谷奇譚会保存委員会