救国青年ワルシャワ防衛隊(死のオペラ部隊)
| 名称 | 救国青年ワルシャワ防衛隊(死のオペラ部隊) |
|---|---|
| 別名 | 死のオペラ部隊、WOB-13、青い譜面隊 |
| 活動期間 | 1938年頃 - 1944年頃 |
| 本拠地 | ワルシャワ市内、ウヤズドフスキ公園周辺 |
| 指揮系統 | 青年局・舞台監督局の共同運用 |
| 主な任務 | 市街警備、伝令、避難誘導、仮設音響攪乱 |
| 隊員数 | 最大時で推定312名 |
| 制服 | 紺色の短外套、金色の譜面章、赤い肩章 |
| 標語 | 歌う者は退かず、退く者は黙る |
| 関連文書 | 『ワルシャワ夜間公演防衛要領』 |
救国青年ワルシャワ防衛隊(死のオペラ部隊)は、市内で活動したとされる若年義勇組織であり、軍事訓練と舞台芸術を統合した特異な都市防衛部隊である[1]。一般には第二次世界大戦期の対独抵抗運動の一環として語られるが、実際にはの裏方組合から派生したとする説が有力である[2]。
概要[編集]
救国青年ワルシャワ防衛隊(死のオペラ部隊)は、における市民防衛と即席公演を兼ねた半軍事的組織として記録されている。隊名にある「オペラ部隊」は、戦闘前にとの旋律を合図として用いたことに由来するとされる[1]。
この組織は、1938年の夏に出身の音楽教師ヤン・ボルコフスキと、の若年補助員だったマリア・レシニャクによって構想されたと伝えられる。ただし、初期名簿の筆跡が三種類しかないことから、実際には以降に複数の編集者が神話化した可能性が高いと指摘されている[2]。
成立の背景[編集]
の首都ワルシャワでは、都市防衛の訓練が学校演劇と結びつく独特の文化があったとされる。とくに広場付近の青年会館では、空襲警報の訓練中に合唱が組み込まれ、これが後の「死のオペラ」形式の原型になったという[3]。
一方で、当時のが配布したとされる『非常時市民行動カード』には、避難指示の末尾に必ず「大声で一節歌うこと」との注記があり、これを防衛隊が拡大解釈したという説もある。なお、この注記は現存する写しの余白にしか見られず、原本は行方不明である。
組織と編成[編集]
防衛隊は年齢別に三層構造をとり、10〜13歳の「譜面班」、14〜17歳の「幕間班」、18〜22歳の「終演班」に分かれていた。各班には班長1名、音響係2名、伝令係1名、そして「呼吸を整える係」1名が置かれたとされる[4]。
最盛期には312名が登録され、そのうち実働可能と判定されたのは241名であった。残る71名は、脚力不足または声量過多を理由に後方支援へ回されたという。これは9月の内部点検票に基づくとされるが、点検者の署名がなぜか全員同じであるため、後年の会計担当による自作とみる研究者も多い。
活動内容[編集]
夜間巡回と伝令[編集]
防衛隊の基本任務は、から沿いまでの夜間巡回であった。隊員は小型の笛と折り畳み式の譜面台を携行し、敵影を発見すると三音符の警報を吹いたうえで、近隣住民に退避先を案内したとされる[5]。
伝令は徒歩のみならず、の乗務員に託されることもあり、切符の裏に暗号歌詞を書き込む方式が用いられた。これにより、ドイツ軍の巡回兵が歌詞カードと時刻表を混同し、検問が30分遅れたという逸話が残る。
仮設公演による攪乱[編集]
もっとも有名なのは、の「ウルサス区深夜公演」である。これは瓦礫置き場に設置した木箱舞台での一幕を演じる一方、裏手ではサイレン代わりのアルトホルンが鳴らされた事件で、敵部隊が「文化行事の保全」を理由に進入を躊躇したと伝えられる[6]。
また、舞台装置に使われたペンキが不足したため、衣装の一部は赤十字の布袋を裏返して流用したとされる。これが後の「裏地赤十字様式」と呼ばれる独特の制服意匠につながった。
主要人物[編集]
創設者とされるヤン・ボルコフスキは、元々はの伴奏助手であり、チェロよりも指揮棒を長く持ち歩く癖で知られていた。彼は戦時中、毎朝6時に隊員へ発声訓練を課し、音程を外した者には市内地図の暗記を命じたという[7]。
マリア・レシニャクは救護係として名高く、負傷者を担架で運ぶ際、痛みを紛らわすためにのアリアを歌わせたとされる。彼女は8月の行動中に行方不明となったが、戦後の仮設劇場で同姓同名の女性が発見され、同一人物かどうかをめぐって小さな論争が起こった。
このほか、隊長補佐のヘンリク・ザレフスキは「黒い指揮者」と呼ばれ、軍用地図を五線譜に見立てて部隊を誘導したことで知られる。ただし、彼が実際に指揮したのは一度だけで、その公演は開始7分で停電したという。
社会的影響[編集]
防衛隊は、以前の若年層に「戦うこと」と「演じること」を同義にする独特の価値観を浸透させたとされる。その結果、のポーランド学校演劇では、避難訓練が必修化される一方で、合唱の発音評価が異常に厳格になったという[8]。
また、戦後の市民防衛教育において、サイレン音に合わせて詩句を暗唱する訓練が一部の地区で採用されたことから、防衛隊は「都市防災と文化教育の接点」を象徴する存在として再評価された。ただし、教育省の内部文書では「再評価というより旧芸術家の寄せ集め」と冷淡に記されていたとする引用もある。
批判と論争[編集]
最大の論争は、そもそも同隊が実在したのかという点にある。現存資料の多くは以降の回想録に集中しており、しかも証言者の多くが互いに別の都市で同じ演出を見たと主張しているため、研究者の間では「移動公演型の記憶共同体」だったのではないかとする見方がある[9]。
さらに、が2008年に公開した展示パネルでは、隊旗の模様が時代にそぐわないポリエステル調であったことから、後世の復元品を誤って一次資料として扱った可能性が指摘された。なお、同展示のキャプションには「現存する唯一の銅鑼」と書かれていたが、写真を見る限り銅鑼は二つある。
評価[編集]
現在では、防衛隊はの戦時文化史における象徴的存在として、また「危機時における芸術の過剰適応」の例として語られている。とくにの地域博物館では、隊員が使用したとされる折り畳み譜面台が展示され、年に一度だけ実際に開閉実演が行われる[10]。
もっとも、専門家の一部は、同隊の実像はごく小規模な青年連絡網と地方オペラ愛好会の混成であり、後年の記憶が膨れ上がったにすぎないとみる。とはいえ、隊名の語感だけで市民の半数が「危険だが妙に上品」と答えたというの世論調査は、今なおしばしば引用される。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ Jan Borkowski『Warsaw in Minor Key: Youth Defense and Stagecraft, 1938-1944』University of Kraków Press, 1971.
- ^ Maria Lesniak『The Death Opera Unit and Urban Evasion』Polish Historical Review, Vol. 18, No. 4, pp. 211-239, 1983.
- ^ Aleksander Wrobel『市民防衛と合唱訓練の接点』Warszawskie Zeszyty Kultury, 第12巻第2号, pp. 44-61, 1991.
- ^ Ewa Szymanska『ワルシャワ旧市街における即席舞台の軍事利用』Acta Historica Polonica, Vol. 27, No. 1, pp. 5-28, 2002.
- ^ T. K. Nowak『Opera as Siren: Acoustic Disruption in Occupied Cities』Central European Studies Quarterly, Vol. 9, No. 3, pp. 130-155, 2008.
- ^ 『ワルシャワ夜間公演防衛要領』ポーランド市民防衛研究所資料集, 1942年復刻版.
- ^ Piotr Zielinski『The Blue Score Brigade: Memory and Myth in Wartime Warsaw』Journal of Slavic Performance Studies, Vol. 6, No. 2, pp. 77-96, 2011.
- ^ Elzbieta Krol『「歌う者は退かず」の起源をめぐって』文化遺産評論, 第21号, pp. 88-104, 2014.
- ^ Michael R. Fenwick『Urban Choir Units and Resistance Logistics』Cambridge Balkan & East European Series, Vol. 4, pp. 19-47, 2017.
- ^ 『ポーランド文化省公開展示「死のオペラ部隊」図録』ワルシャワ国立記念館, 2008年.
外部リンク
- ワルシャワ戦時文化アーカイブ
- ポーランド市民防衛史研究会
- 国立オペラ資料デジタル館
- 青年義勇団口述史コレクション
- ヴィスワ都市記憶プロジェクト