新九州自動車道
| 路線名 | 新九州自動車道 |
|---|---|
| 起点 | 福岡県福岡市博多区 |
| 終点 | 鹿児島県鹿児島市谷山 |
| 総延長 | 312.4 km |
| 開通期間 | 1968年 - 1994年 |
| 管理 | 日本道路公団九州支社 |
| 主な接続路線 | 九州横断自動車道、南九州環状線 |
| 特徴 | 火山灰対策舗装、潮風遮断植栽、霧灯信号 |
| 愛称 | しんきゅうの道 |
新九州自動車道(しんきゅうしゅうじどうしゃどう)は、地方における高速自動車交通の連続性を補完するため、末からにかけて段階的に整備されたとされる広域幹線道路網である。の三県を結ぶ構想を基礎に発展したとされる[1]。
概要[編集]
新九州自動車道は、北部から南部までを縦貫することを目的として計画されたとされる高速道路網である。正式名称に「新」が付くのは、当初の案が被害を受けやすい沿岸を避けるよう再設計されたためと説明されている。
この路線は、単なる移動時間の短縮ではなく、・濃霧・塩害に対応する「九州型道路工学」の実証区間としても知られた。とくに南阿蘇周辺で採用された“逆流式排水溝”は、雨水をいったん上り坂に逃がしてから側溝へ戻すという奇抜な構造で、当時の建設官僚のあいだで賛否が分かれた[2]。
定義[編集]
道路行政上はの一系統に分類されるが、実務上はなどの既存幹線と一体で運用されることが多かった。地元では「上を走る国道」とも呼ばれた。
構想の背景[編集]
後の交通政策転換のなかで、は本州偏重を避ける名目で九州独自の幹線網を検討したとされる。なお、初期案ではを完全に通過しない経路が採用され、県議会から強い抗議が出たという。
歴史[編集]
起点となる構想は、に九州支社内で作成された「第七次島嶼連絡改善案」に求められるとされる。案を主導したのは、当時の技術課長であったと、測量担当ので、両名は後年まで「九州の地形は道路ではなく気象に支配されている」と述べたと伝えられる。
最初に供用されたのは区間で、の開通式では、テープカットの代わりに路面上へ白線を引く儀式が行われた。これは、強風時に紅白リボンが飛散することを防ぐための措置であると説明されたが、実際には当時の施工現場でリボンの発注を忘れたことが発端だったという説もある[3]。
に入ると、周辺区間の延伸で難航した。火山性ガスにより標識が数日ごとに退色したため、標識板には通常の反射塗料に加え、耐性の高い釉薬が試験的に使用された。このとき、標識工場が誤って一部を食器窯で焼成してしまい、硬度だけは異常に高い案内標識が誕生したとされる。
最終区間である谷山までの接続はに完了した。もっとも、このとき既に地元では自動車よりもとの運用比率が高く、道路の完成は「交通の近代化」より「物流の天候待ち解消」に貢献したと評価されている。
計画段階[編集]
計画当初は、道路の中央分離帯にを設ける案や、の堆積量を測定するために毎2 kmごとに白い箱を置く案が検討された。前者は維持費の問題で、後者は子どもが拾って帰る事案が続出したため不採用となった。
建設技術[編集]
路盤にはとを混合した独自配合が用いられ、通称「黒土コンクリート」と呼ばれた。冬季の対策として、は通常の三倍の高さに設置され、対向車から見ると電柱が高速で並んでいるように見えたという。
供用開始後[編集]
開通後しばらくは、料金所の職員がの差に対応できず、方面の利用者にだけ説明時間が長くなる現象が起きた。これを解消するため、料金所には「標準語・熊本訛り・鹿児島訛り」の三種の案内放送が導入された。
路線の特徴[編集]
新九州自動車道の最大の特徴は、気象条件を前提にした設計思想である。たとえば周辺の橋梁では、豪雨時に欄干がわずかに沈む「可動式防風欄干」が採用され、通行者の不安を和らげるという副次効果が確認されたとされる。
また、路面標示は通常よりも黄色味が強く、これはの上で視認性を確保するためにの麦わら研究班が開発した顔料を転用したためである。なお、同研究班は本来、稲わらの飼料化を専門としていたが、道路標示に応用したことで一時的に予算が増額されたという。
信号と安全設備[編集]
山間部では、霧が発生すると自動的に光量が上がる「呼吸式標識」が用いられた。これは湿度に応じて標識表面の微細孔が開閉する仕組みで、当時の報告書では「半生き物的である」と記されている。
料金制度[編集]
一部区間では、貨物車両に限りまたはを納付代替物として受け付ける実験が行われた。制度は数か月で終了したが、地元商工会は「現金より景気が見える」として存続を求めた。
社会的影響[編集]
新九州自動車道の開通は、内の都市間移動を短縮しただけでなく、沿線自治体の祭礼日程にも影響を及ぼした。とくにとのあいだで行われていた農産物共進会は、道路整備後に出品物の到着が早まりすぎたため、審査員が昼食前に全採点を終えてしまう問題が生じた。
また、道路沿いのでは、やに加えて「高架下で熟成させた柑橘ソーダ」が名物化した。これは実験的に設置された冷却装置の排熱を利用したもので、後に「道路が生んだ温泉のない温泉街」と呼ばれた[4]。
経済効果[編集]
時点で、沿線の貨物輸送時間は平均で17.6%短縮されたとされる。ただし、この数値には料金所での談話時間が含まれていないため、実際の体感短縮はさらに大きかったという意見もある。
文化的受容[編集]
地元の学校では、社会科見学の定番として料金所見学が組み込まれた。児童は『道路はまっすぐだが、行政はまっすぐではない』という感想文を書かされることが多く、県教育委員会が一部を削除要請したとされる。
批判と論争[編集]
建設費は当初見積もりの1.8倍に達し、の国会審議では「九州は高速道路ではなく、むしろ低速な台風観測路を必要としている」との批判が出た。これに対し、公団側は「低速であることと遅いことは異なる」と答弁したが、意味が分からないとして議事録に異例の長文注記が付けられた。
さらに、内の一部区間で、路肩に植えられた防風林が成長しすぎて外から見ると道路が林道に見えるようになった。これにより、地元のタクシー運転手が観光客を誤って別料金の林間コースへ案内する事例が続発したため、県は剪定基準を「遠くから見て道路に見える程度」と定めた。
環境問題[編集]
火山灰対策の洗浄で大量の水を使用したことから、流域では一時的に農業用水との競合が問題となった。もっとも、道路沿いの農家は洗浄水に含まれる微量のミネラルを「道路肥料」として歓迎した。
政治的対立[編集]
を通過するか否かをめぐる調整では、県境の看板を3度建て替える騒ぎがあった。最終的に、看板の向きだけを少し変えて『通過したことにしない』処理が採用されたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松尾兼之助『九州高速路網計画史』日本道路技術協会, 1998, pp. 41-89.
- ^ 有馬キヨ『火山灰と舗装の相互作用』土木学会論文集 Vol. 22, 第4号, 1979, pp. 115-133.
- ^ 田中秀明『新九州自動車道の設計思想』建設省道路局資料集, 1986, pp. 7-52.
- ^ Margaret A. Thornton, “Fog-Responsive Signage on Southern Expressways,” Journal of Asian Transport Engineering Vol. 11, No. 2, 1991, pp. 201-229.
- ^ 小倉正彦『高速道路料金所方言対応の実務』交通行政研究, 第15巻第1号, 1993, pp. 14-28.
- ^ 岡本倫太郎『道路標識の釉薬焼成に関する一考察』日本道路公団技報, 第8巻第3号, 1984, pp. 60-77.
- ^ Elizabeth R. Haddon, “The Reverse Drainage Ditch: A Case Study,” Infrastructure Review Vol. 6, No. 4, 1988, pp. 88-102.
- ^ 鹿島三郎『南九州における潮風遮断植栽の経済効果』地方経済年報, 1989, pp. 132-149.
- ^ 福田宗一『道路が生んだ温泉のない温泉街』観光地理学雑誌, 第9巻第2号, 1995, pp. 5-19.
- ^ 『新九州自動車道工事記録写真集』日本道路公団九州支社, 1994.
- ^ Richard P. Ellsworth, “Expressway Administration and the Ethics of Talking Less,” Policy and Road Studies Vol. 3, No. 1, 1987, pp. 1-17.
外部リンク
- 九州道路史アーカイブ
- 日本高速幹線年表データベース
- 南日本インフラ研究所
- 道路標識民俗資料館
- 架空交通技術評論