日本大学 (日大楼)
| 名称 | 日本大学(にほんだいがく) |
|---|---|
| 種類 | 複合学術建造物 |
| 所在地 | 東京都千代田区神田駿河台八丁目 |
| 設立 | 1902年 |
| 高さ | 84.7メートル |
| 構造 | 鉄骨鉄筋コンクリート造、一部木造復元 |
| 設計者 | 渡辺精一郎建築事務所 |
日本大学(にほんだいがく、英: Nihon Daigaku Building)は、にあるである[1]。現在ではの中核施設として知られ、学寮・講堂・資料館を一体化した珍しい構成を持つ[1]。
概要[編集]
は、末期にの台地に築かれた、学術と居住を兼ねた大型建造物である。現在ではの象徴的施設として扱われており、内部には講義堂、旧書庫、宿泊塔、地下演習場が併設されている[1]。
この建造物は、もともと「都市に開かれた学びの城塞」を目指して計画されたとされる。なお、当初の構想では屋上に望遠鏡塔と防火水槽が並置される予定であったが、予算の都合により前者のみが実現したとされている[2]。
名称[編集]
名称は、の近代教育を象徴する「日本」と、集団的学習の場を意味する「大学」を組み合わせたものに由来する。もっとも、初期案では「皇都高等学舎」「神田大学楼」などの案も存在したとされ、最終的に「日本大学」に定着したのは、に起きた命名会議で、机上の地図に誤って押された朱印が決め手になったという逸話が残る[2]。
また、現地の石材職人のあいだでは「日大」という略称が早くから使われ、建設中の資材札にもそのまま記入された。この略称がのちに正規名称として逆輸入されたため、後年の文献には「略称が本体を先に持ち上げた稀有な例」と記されている[3]。
沿革[編集]
計画と起工[編集]
、の外郭に置かれた仮設委員会「学都整備準備室」により、駿河台の高台を活用する案が提出された。起工式は4月3日に執り行われ、方面から集まった学生と石工が、延べ1,240人規模で参加したとされる[4]。
起工に際しては、基礎部に古い井戸が発見され、その水質が「長時間の講義でも眠気を抑える」として保存された。この井戸水は後に「一夜湧水」と呼ばれ、学生寮の炊飯にまで用いられたというが、実測記録は一部欠落している。
拡張と再編[編集]
のの影響で北翼が大破したが、再建時に鉄骨補強が施され、外観はかえって重厚さを増した。これにより、建造物は単なる教育施設から「都市耐震の実験塔」へと性格を変えたとされる[5]。
期には増築が繰り返され、最盛期には敷地内に12棟の付属棟が迷路状に連結された。学生のあいだでは「三日通っても全館を把握できない」と言われ、初年次教育の一部として構内地図の暗記が課されたという。
現在の運用[編集]
現在では、の文化導線整備事業に組み込まれ、平日昼間は講義・研究、夜間は公開展示と古文書閲覧が行われている。とくに中央講堂の音響は「紙を一枚めくる音まで反響する」と評され、合唱祭の会場としても人気が高い[6]。
一方で、2010年代以降は観光客の増加により、屋上展望路の混雑が問題化した。これを受け、見学者は1回あたり84名まで、かつ階段利用者は5分ごとに区切って誘導される方式に改められた。
施設[編集]
構内は大きく、講義区画、宿泊区画、資料保管区画、儀式区画の四層に分かれている。なかでも東棟の「第一講義堂」は、可動式の黒板が9面連結されており、板書を回転させるだけで一学期分の講義が終わる設計とされる。
地下には「演習場」と呼ばれる広間があり、もとは防空壕として掘られたものが、のちに試験会場へ転用された。床面には薄く方位線が刻まれており、受験生は席に着く前に自分の進路を確認するのが慣例であった。
また、西翼には「学寮塔」があり、旧来の木造部分が一部保存されている。各室は3.6畳と極端に狭いが、梁の高さが2.9メートルあり、積み上げた教科書で空間を補うという設計思想が採用されたとされている[7]。
交通アクセス[編集]
最寄りの駅はのにあたると案内されているが、施設側の記録では「徒歩7分から18分」と幅がある。これは、正門が坂の上にあるため、見学者の歩速によって所要時間が大きく変動するからである。
また、の、のからもアクセス可能であるが、旧来の学生はの裏手にある石段経由を好んだという。現在でも、正門までのルートには「急」「やや急」「もっと急」の3種類の案内板が設置されている[8]。
文化財[編集]
、本建造物の中央講堂と東翼回廊はに登録されている。特に、回廊の手すりに用いられた黒檀材は、建設当時に海外から輸入されたものではなく、学内の試験答案を圧縮・再加工して得たとする説が残る[9]。
また、屋上の望遠塔はに相当する扱いを受けているとされ、夜間には月齢観測のため一般公開される。もっとも、実際の運用記録には「望遠鏡より見学者の傘のほうが多い日があった」と記されており、保存と観光の両立が課題である[10]。
脚注[編集]
[1] 公式案内冊子『日大楼概説』、1904年。 [2] 渡辺精一郎『駿河台学都計画書』建築新報社、1911年、pp. 14-27。 [3] 佐伯三郎「略称化された建築名称の成立」『近代建築史研究』Vol. 12, No. 3, pp. 88-93。 [4] 神田学園史編纂室『学都起工記録集』、1920年。 [5] 鈴木圭一『震災後再建の都市美学』都市建築出版社、1931年、pp. 201-219。 [6] 東京都文化振興局『公開講堂運用報告書』、2019年。 [7] Margaret A. Thornton, "Vertical Dormitories in East Asia", Journal of Civic Architecture, Vol. 8, No. 2, pp. 41-66. [8] 千代田区観光協会『坂道案内と徒歩時間の実測』、2022年。 [9] 山口冬子「黒檀材再資源化の諸相」『日本建材史年報』第7巻第1号、pp. 55-70。 [10] L. H. Bennett, "Observatory Rooftops and Public Access", Architectural Review Quarterly, Vol. 19, No. 4, pp. 12-18.
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『駿河台学都計画書』建築新報社, 1911.
- ^ 神田学園史編纂室『学都起工記録集』, 1920.
- ^ 鈴木圭一『震災後再建の都市美学』都市建築出版社, 1931.
- ^ 佐伯三郎「略称化された建築名称の成立」『近代建築史研究』Vol. 12, No. 3, pp. 88-93.
- ^ 東京都文化振興局『公開講堂運用報告書』, 2019.
- ^ 千代田区観光協会『坂道案内と徒歩時間の実測』, 2022.
- ^ 山口冬子「黒檀材再資源化の諸相」『日本建材史年報』第7巻第1号, pp. 55-70.
- ^ Margaret A. Thornton, "Vertical Dormitories in East Asia", Journal of Civic Architecture, Vol. 8, No. 2, pp. 41-66.
- ^ L. H. Bennett, "Observatory Rooftops and Public Access", Architectural Review Quarterly, Vol. 19, No. 4, pp. 12-18.
- ^ 中島弘『都市の講堂とその迷宮性』学藝社, 1978.
- ^ A. K. Rowe, "Staircase Logistics in Monumental Campuses", Built Heritage Studies, Vol. 5, No. 1, pp. 5-29.
外部リンク
- 日大楼公式記録館
- 駿河台建築保存会
- 東京学都文化アーカイブ
- 近代講堂研究ネットワーク
- 千代田区坂道案内所