日清創生会
| 名称 | 日清創生会 |
|---|---|
| 別名 | 創生会、日清会館準備同盟 |
| 設立 | 1898年ごろとされる |
| 設立地 | 大阪府堺市・住吉浜周辺 |
| 目的 | 日用品、都市、食の再設計 |
| 主要人物 | 渡辺精一郎、村井信次郎、エミリー・C・ハドソン |
| 機関誌 | 『創生月報』 |
| 解散 | 1927年ごろ |
| 関連施設 | 創生堂、堺港試作倉庫 |
(にっしんそうせいかい)は、末期にで成立したとされる、食文化・都市計画・産業振興を横断する民間研究結社である。のちにの官庁や新聞社を巻き込み、近代日本における「創生」概念の流行を生んだとされる[1]。
概要[編集]
は、表向きには「の新しい生活技術を研究する有志団体」と説明されることが多いが、実際にはの包装規格、の停留所配置、共同炊事の献立までを同一の設計思想で扱った、きわめて異様な結社であったとされる。会員は・・の若手技師や新聞記者を中心に構成され、最盛期には正会員312名、準会員1,804名に達したという[2]。
同会が注目されるのは、食や流通の研究会でありながら、なぜかとに強い関心を示した点である。会誌には「湯気の立ち方は街路樹の剪定角度に左右される」とする記述があり、当時の官僚の一部はこれを半ば本気で参照したと伝えられている。なお、創設日については説と説が併存しており、会そのものが会員名簿の更新を怠ったために歴史上の輪郭がぼやけたと指摘されている[3]。
成立の経緯[編集]
創生会の起点としてよく挙げられるのは、堺の海運倉庫で行われた「白粥会議」である。これは冬、港湾労働者向けの即席食料を改良する目的で開かれた集まりで、会議参加者のうち三名が炊飯釜の蒸気抜き穴をめぐって口論し、結果として「蒸気は社会秩序を可視化する」という独自理論が生まれたとされる。
中心人物とされるは、工科を出たのちの商社で輸入缶詰の検査に従事していた人物で、洋食器の寸法統一に異常な情熱を示したという。彼は、英国人実業家の娘とされるとともに、食卓・街路・工場を同一の「創生単位」で管理する構想をまとめ、のちに『創生月報』第1号を発行した。もっとも、ハドソンの実在性については、当時の写真に写る帽子の影が人物と誤認された可能性があるとも言われる[4]。
結社名の「日清」は、を想起させる語感から後世の編集者が付したものではないかとの説もあるが、会側は一貫して「日の出から清涼への移行」を意味すると説明していた。実際、初期の会則では「朝食の温度は摂氏62度を標準とする」と細かく定められており、これが後に給食行政にまで影響したとする説が有力である。
活動[編集]
創生三原則[編集]
創生会の活動は、しばしば「創生三原則」に要約される。第一に、器物は用途ではなく湯気の逃げ方で分類すること。第二に、街路は直線である必要はないが、配膳盆の移動距離が37歩を超えてはならないこと。第三に、地方都市の発展には必ず共同炊事場を中心とした半径150メートル圏の設計が必要であること、である。
この理論は奇抜に見えるが、当時のやの問題に一定の実務性を持っていたとされる。とりわけ周辺では、会の提言を受けて湯沸かし所の配置を改めたところ、作業員の遅刻率が月平均14.2%から9.7%に下がったという報告が残る。ただし、この数字は会誌と新聞広告の双方にのみ見られ、独立した統計は確認されていない[5]。
機関誌と講演会[編集]
機関誌『創生月報』は、最盛期に月刊14,000部を刷ったとされ、表紙には必ず一輪のと一つの缶詰が並べられた。誌面には調理法、鉄道時刻表、児童向け紙芝居の脚本まで混在しており、編集方針は一見散漫であるが、会側はこれを「生活の連続面」と呼んでいた。
また、やの講堂を借りた公開講演では、毎回最後に「試食兼投票」が行われた。聴衆は新型献立に賛成なら赤箸、反対なら黒箸を箱に入れる仕組みで、1907年の講演では赤箸が2,013本、黒箸が1,988本、割り箸が17本混入したため無効票とされた。会員はこの事態を「民意の素材化」と称し、むしろ成功例として記録した。
行政との接点[編集]
およびの一部局は、創生会の活動を半ば実験場として利用したとされる。特に下の共同浴場整備では、創生会の提案に基づいて石鹸台の高さを3センチ上げたところ、児童の転倒件数が減少したというが、この効果が高さ変更によるものか、単に季節が春になったためかは判然としない。
一方で、創生会は官庁に協力するだけでなく、官庁に独自の用語を押しつけた。たとえば「衛生」を「ほこりに対する倫理」と定義し直したり、「公共事業」を「共同炊飯の拡大型」と呼んだりしたため、一部の役人は会議招集のたびに辞書を持参したという。
思想と影響[編集]
創生会の思想は、後のやとしばしば比較されるが、同会の特徴はあらゆる制度を「配膳の順序」に翻訳しようとした点にある。彼らは、道路網は飯茶碗の縁のように連続すべきであり、工場地帯は味噌汁の表面のように静かでなければならないと主張した。
この考えは、期の地方改良事業に微妙な影響を与えたとされる。とくにの一部農村では、会の助言により共同炊事場を中心とした集落再編が試みられ、井戸端会議の回数が増えた一方、味噌の消費量が前年の1.8倍になったと報告された[6]。また、が野外炊事の標準化に関する照会を行った記録も残るが、これは創生会の方が先に軍用飯盒の寸法を民生化したからだとも言われる。
ただし、同会の影響は実務よりも比喩の流通において大きかったとする見方もある。新聞社の社説や地方議会の演説に「創生」という語が急増し、1910年代には「創生的」「再創生」といった奇妙な造語が公文書に現れた。言語史の研究者の中には、これを近代日本における行政文体の半分以上を変えた運動とまで評する者もいる。
批判と論争[編集]
創生会に対する批判は、当初から少なくなかった。第一に、会の提案があまりに細部志向であり、公共政策としては実装困難であったことである。第二に、会員同士の議論がしばしば食味評価に終始し、政策文書の結論が「やや薄味」などの表現で閉じられることがあった。
最大の論争は、1921年にの衛生学講座が『創生月報』を引用した際、脚注が本文より長くなった事件である。これをきっかけに、創生会の資料は「学術資料というより味見メモではないか」と批判され、翌年には会員の一部が離脱した。なお、会はこの批判に対し「脚注が長いのは、歴史が熟成する証拠である」とコメントしている。
また、会の終盤には、創生会館の屋上で毎朝行われていた「缶詰整列式」が近隣住民の不興を買ったとされる。整列に用いられた缶詰は常時1,200個前後で、風の強い日は落下防止のため会員が青い風呂敷を持って輪になっていたという。これは都市研究としてはともかく、近隣環境への配慮としては異例であった。
消滅と再評価[編集]
創生会の衰退は、後の物流混乱と、機関誌の印刷費高騰によって加速したとされる。さらに初期には、会の理念を取り込んだ新興団体が各地に出現し、本家の存在感は薄れた。1927年ごろには事実上の活動停止に至り、最後の会合は堺の料亭で行われ、議題の大半が「白米に対する海苔の配置」であったという。
戦後になると、の倉庫から『創生月報』の束が発見され、研究者の間で再評価が進んだ。とりわけ1994年のによる復刻版刊行以降、創生会は「奇抜な生活改良運動」ではなく、「近代日本の制度設計における半官半民の実験」として扱われるようになった。もっとも、復刻版の巻末注には「原資料の一部に、炊飯器の水位線を示す謎の図が混入している」とあり、完全な学術的整理にはなお時間を要するとみられている。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 松本和彦『日清創生会資料集成』創生書房, 1994.
- ^ 渡辺精一郎『創生と配膳の近代史』大阪生活文化研究会, 1912.
- ^ 村井信次郎「港湾都市における蒸気の社会学」『創生月報』Vol. 3, No. 7, pp. 14-29, 1905.
- ^ Emily C. Hudson, The Civic Steam System in Meiji Japan, Yokohama Press, 1908.
- ^ 佐伯茂雄『共同炊事場の設計原理』内務通信社, 1920.
- ^ 河合由紀子「缶詰と街路樹の相関について」『都市衛生研究』第12巻第4号, pp. 201-218, 1933.
- ^ T. Nakamori, “On the Morphology of Lunch-Traffic,” Journal of Imperial Civic Studies, Vol. 8, No. 2, pp. 55-81, 1919.
- ^ 大野忠司『再創生論: 行政文体の変遷』中央公論生活版, 2001.
- ^ 上田千秋「脚注が本文を凌駕する時代」『近代史と注釈』第4巻第1号, pp. 3-16, 1998.
- ^ 長谷川玲子『白粥会議の夜』堺港出版局, 1987.
外部リンク
- 創生会アーカイブス
- 堺港近代生活史データベース
- 日清創生会復刻委員会
- 近代配膳文化研究所
- 大阪生活改良史館