最古フレーム
| 分野 | 映像制作史・視覚情報デザイン |
|---|---|
| 起源とされる時期 | 17世紀後半〜18世紀初頭(諸説あり) |
| 中心概念 | 画面の「フレーム」=情報配置の規格 |
| 主要な担い手 | 測量技術者・写字職人・劇場技師 |
| 関連領域 | カメラオブスクラ・銅版画・演劇照明 |
| 普及の媒介 | 地方博覧会と劇場用台本(手引き形式) |
| 保存状況 | 原資料は「断片」扱いとされる |
最古フレーム(もっとふれーむ、英: Oldest Frame)は、映像・写真・図表などの「画面構成」を定める最初期の設計枠組みを指す語として、で用いられたとされる概念である[1]。画面上の情報配置だけでなく、記録媒体の扱い方まで含めた体系であると説明される[2]。
概要[編集]
最古フレームとは、ある記録媒体において「何をどこに置くか」を決める基準(フレーミング規格)を、最も早い段階から系統化したものとされる概念である[1]。ここで言うフレームは、単なる枠ではなく、主題・注記・余白・視線誘導の順番までを束ねた規範であると説明される。
この語は、研究者の間では「最古」が指す対象をめぐって揺れがある。たとえば江戸時代末期の都市絵図に見られる構成規則を最古とみなす立場もあれば、さらに前段の測量図(航海用写図)を元祖と見る立場もある。加えて、劇場の上演記録における照明位置と台詞の書き分けを「フレーム」と呼ぶ用法も報告されている[3]。
定義と成立の経緯[編集]
最古フレームは、映像史の枠では「画面=記憶媒体」の扱い方を統一した初期の手引き群をまとめて呼ぶ言葉であるとされる[2]。一方で、図表史の観点からは、最古フレームは「読みやすさのための情報の格付け(主題優先・補助順)」として定義されている。
成立経緯については、の文書整理係が、ばらばらに保存された古記録を統一フォーマットで再分類する作業を行ったことに始まるとする説がある。具体的には、分類作業の際に「最も古い紙面構成テンプレート」を“frame 0”として棚番化したことが、後の呼称につながったと推定されている[4]。
ただし、最古フレームが「いつの誰の手になるか」を断定できるほどの直接史料は乏しいとされる。そこで編集者たちは、実物の年号よりも、用紙の規格、鉛筆硬度の痕跡、インクのにじみ幅といった“周辺物性”から逆算する方針をとったと報じられる[5]。この結果、「最古」が意味する範囲は時期だけでなく媒体の種類にまで波及していった。
歴史[編集]
起源:測量と舞台の「同型」発見[編集]
起源をめぐる有力な見方として、17世紀後半の長崎で行われた測量図の扱いが、後のフレーム概念に影響したという仮説が挙げられる[6]。当時、測量技術者は港の見取り図を作る際、水平線を常に同じ高さに固定し、方角注記を必ず左辺に配置していたとされる。これは、後工程の写図(トレース)でズレが致命的になるためであったと説明される。
しかし、ここで劇場技師の関与が“よく似た”問題として現れる。記録係が同じ構成のまま舞台上の照明位置を注釈したことで、測量図の「固定された視線誘導」が、観客の視線を制御する手段として移植されたとする物語がある[7]。この説の面白い点は、最古フレームが誕生した場所が「測量台」ではなく「稽古場の紙」だとされるところである。
さらに細部まで語る研究者もおり、稽古場では黒紙に白墨で枠線を引き、その枠線の太さが“ちょうど指先の節の幅”に合わせられたという。記録上、その幅は 3.2 ミリメートル、ばらつきは 0.4 ミリメートル程度だったとされる[8]。もちろん統計的根拠は限定的とされるが、数字が具体的であることから語り継がれた。
普及:地方博覧会と「断片テンプレ」の量産[編集]
最古フレームが社会に広がった契機として、大阪府の実業団体が主導した地方博覧会「見立て市(けんたし)」の開催がしばしば参照される[9]。同イベントでは、展示説明を“同じ読み方”で統一するため、出品者に対し「説明図は同一フレームで」という提出規則が課されたとされる。
この提出規則は、実務上は「誰が書いても読める」ことよりも、「誰が検品しても同じ判断になる」ことを重視していたとする指摘がある[10]。つまり、最古フレームの普及は教育的理念というより、行政検品の都合によって進んだという見方である。
また、博覧会の後には台紙の規格化が進み、展示パネルの余白比率が 7:3(主題:補助)と決められたとされる[11]。余白比率がこの値に固定された理由は、審査員の疲労が午後に急増し、視線復帰が間に合わないためだったという逸話が知られている。さらに、釘打ち位置と枠線の干渉を避けるため、パネル端から枠線までを 12 センチメートルに合わせたという“工学的な妥当性”も語られている[12]。
変質:写真化と「0.7秒遅れ」の問題[編集]
19世紀末、写真的記録が増えるにつれて、最古フレームは「写るもの」と「書くもの」の境界で揺れたとされる。とくに銀座の写真館に導入された判定手続きでは、撮影担当がフレーム規格を守っているかを、現像紙の“端部濃度”で見る運用が採用されたと報告されている[13]。
この時、問題になったのが「0.7秒遅れ」である。撮影者の癖として、シャッターの切り替えが 0.7 秒だけ遅くなり、その遅れに応じて被写体の向きが微妙に変わるため、主題配置(顔・看板・目標物)が規格からずれる事象が発生したとされる[14]。最古フレームは本来、配置を固定する思想だったが、実際には“現実側の揺れ”をも吸収する必要が出てきた。
この修正を担ったのが、製版職人と測量出身者の混成チームであった。彼らはフレーム規格に「許容逸脱」を導入し、補助注記の優先順位を入れ替えることで、結果的に“古い枠”が“新しい誤差設計”へと変質していったと説明される。
批判と論争[編集]
最古フレームには、そもそも「最古」を名乗る根拠が薄いという批判がある。とくにでは、テンプレートらしきものが見つかっても、それが独立に成立した可能性を否定できないとされる[15]。
一方でデザイン史の立場からは、最古フレームは“規格そのもの”ではなく、“規格の考え方が社会制度へ接続される過程”を示す指標として評価されている。つまり、古さよりも運用の仕組みを重視する見方である[16]。
また、運用側の倫理をめぐる論争も起きた。博覧会の提出規則が過剰だったため、出品者が表現を抑圧され、結果として「見やすさ」が「見せやすさ」に転化したのではないか、という指摘が残っている[17]。ただし、当時の検品担当者は「最古フレームは中立である」と主張したと記録されている。なお、この“中立”という言葉が、のちに広告図案の収益モデルに転用されたことが、別の研究者によって問題視されたとされる[18]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 山本徳次『画面規格の黎明:frame 0 の周辺史』中都学術出版, 2008.
- ^ Katherine L. Morrow, “Standardized Viewing in Early Exhibitions,” Journal of Visual Protocols, Vol. 12, No. 3, pp. 41-59, 2011.
- ^ 鈴木芳江『断片テンプレートの経済学:検品と余白比率の相関』文榮堂, 2013.
- ^ 渡辺精一郎『測量図と舞台記録の同型性』海路史研究会, 1999.
- ^ Peter R. Halden, “Error Budgeting before Cinematography,” International Review of Image Systems, Vol. 4, No. 1, pp. 77-102, 2005.
- ^ 佐伯みなと『現像紙の端部濃度による判定法(仮説集)』銀河製版学会, 第3巻第2号, pp. 10-26, 2016.
- ^ 国立図書館編『地方博覧会手引きの再構成:見立て市の検品規則』国立出版局, 2020.
- ^ 中村俊平『0.7秒遅れ:撮影者癖と規格逸脱の記録』写真科学年報, 第28巻第4号, pp. 201-219, 2001.
- ^ Emily A. Cho, “Margins and Meaning: A Comparative Study,” Design & Policy Studies, Vol. 9, No. 2, pp. 5-33, 2014.
- ^ 『絵図の枠組み大全(架空)』普及図版株式会社, 1972.
外部リンク
- 最古フレーム研究会アーカイブ
- 余白比率アトラス(閲覧用)
- 見立て市デジタル復元プロジェクト
- 端部濃度測定ノート
- 演劇照明台本データベース