月船 朔
| 氏名 | 月船 朔 |
|---|---|
| ふりがな | つきふね さく |
| 生年月日 | 1912年3月21日 |
| 出生地 | 新潟県佐渡郡相川町 |
| 没年月日 | 1984年9月14日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 天文民俗学者、文筆家、観測記録編集者 |
| 活動期間 | 1934年 - 1982年 |
| 主な業績 | 朔航論の提唱、月相別航路図の編纂、月船式観測日誌の整備 |
| 受賞歴 | 奨励賞(1958年)、特別功労章(1976年) |
月船 朔(つきふね さく、 - )は、の天文民俗学者、文筆家、観測記録編集者である。月齢と航海暦を結びつけた独自理論「朔航論」の提唱者として広く知られる[1]。
概要[編集]
月船 朔は、日本の天文民俗学者であり、戦前から戦後にかけての沿岸部を中心に活動した人物である。月の満ち欠けと漁労・航海・祭礼の相関を体系化した「朔航論」により知られる[1]。
その著作は学術書というよりも、漁師、郷土史家、官庁職員、そして一部の趣味人に読まれた実務書として流通した。また、史料編纂所やの月齢資料室と断続的にやり取りを行ったとされ、のちに「境界領域の研究者」と評された[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
月船は、の旧家に生まれた。父は小型運搬船の船頭、母は地方の神楽記録を写す仕事に携わっており、幼少期から潮位表と祭礼帳が同じ棚に置かれている環境で育ったという[要出典]。
のの後、相川港に漂着した避難船の記録係を手伝ったことがあり、その際に「月の明るさが人の移動を決める」という仮説に強く関心を抱いたとされる。これが後年の朔航論の原型になったと、本人は晩年の随筆で述べている[3]。
青年期[編集]
、月船は夜間講習の地理科補助として働きながら、独学でとを学んだ。翌年にはの古書店街で入手した『航海便覧附月令私解』に影響を受け、月齢を基準に航路を再計算する「逆算潮汐法」を考案したとされる。
、の前身である「地方観測記録同人会」に参加し、最年少の持ち込み発表者となった。発表題目は「朔望と浜言葉の同期について」で、質疑応答の際に「満月の夜は潮が高いのではなく、人が高く感じるのである」と発言し、会場を半ば沈黙させたという。
活動期[編集]
、月船はの船舶用品会社の嘱託として、港湾労働者向けの簡易月齢表『港湾朔表』を作成した。これはの前身組織の一部で参考資料として回覧されたとされ、実際には配布数がにすぎなかったが、のちに出回ったという逸話が独り歩きした[4]。
戦後はに拠点を移し、で散逸した郷土資料を照合しながら、『月船式観測日誌』全12冊の編集に従事した。とくに第7冊「朔と帰港」は、の刊行後、漁業協同組合だけでなく、町内会の盆踊り日程調整にも用いられたとされる。
には奨励賞を受賞した。受賞理由は「月相を民俗儀礼と接合しつつ、実地航行に耐える記述を維持した点」とされるが、当時の選考委員会議事録には「本人の語る“月船家の祖先は潮に名前をつけた”という説の扱いに困った」との記載がある。
晩年と死去[編集]
後半以降は、やなどの沿岸地域を巡回し、地域の古老から聞き取った月見行事をカード化する仕事に専念した。晩年は視力の低下により手書きの観測票を使えなくなったが、代わりにで印字が浮かぶ特注の月齢札を愛用したという。
に活動を退き、9月14日、の療養施設でで死去した。遺品の中から、完成しなかった「朔航論・補遺第二十五条」の下書きが見つかり、そこには「満月の港は、船ではなく記憶が出入りする」と記されていた[5]。
人物[編集]
月船は寡黙な人物として知られる一方、講演では妙に細かな比喩を連発する癖があった。たとえば「新月は帳簿の余白、上弦は役所の押印、満月は祭りの提灯である」と述べ、聴衆を困惑させたという。
性格は几帳面で、外出の際には必ず方位磁針、懐中時計、乾パン、そして黒い鉛筆を4本持ち歩いた。自宅書斎の引き出しにはがからまで年代順に並べられ、各版に「潮位と気分の相関」という余白メモが書き込まれていた。
また、近隣住民の証言によれば、毎月朔日には必ず玄関先で3分間だけ海の方角を向いていたとされる。ただし、この習慣が信仰的なものだったのか、単なる観測癖だったのかについては意見が分かれている。
業績・作品[編集]
月船の業績は、学術的著作と実務向け資料の双方にまたがる。代表作『朔航論序説』()では、月齢を基準にした漁期・移動・祭礼の3層分類を提示し、後の地方文化研究に影響を与えたとされる[6]。
続く『月相別航路図集』()は、沿岸を中心にを整理した図譜である。図中には「曇天時は月の代替として港の灯数を使う」など、やや実用離れした注記があり、読者の間ではむしろその部分が好評だった。
の『浜言葉朔望辞典』は、からまでの港町で用いられた月関連の方言を収録したとされる。もっとも、編集過程での漁師言葉との祭礼語が一部混在しており、後年の研究者からは「編集上の奇跡」と評された。
晩年の随筆『月は帰る船である』()は、一般向け読み物として異例の売れ行きを示し、地方書店で再版が行われた。なお、この本のあとがきには、本人が「本書の多くは夜更けに見た灯台の誤読である」と書いており、真偽不明ながら引用されることが多い。
後世の評価[編集]
月船の評価は、民俗学、海洋史、地域文化論のあいだで分かれている。学術的には体系の一部に誇張があると指摘される一方で、現地調査と資料収集の手堅さは高く評価されている[7]。
以降、やで小規模な回顧展が開催され、航海日誌や月齢札が再評価された。また、の東日本大震災後には、夜間避難のための月明かり利用を扱う講座で月船の図表が引用され、実務家のあいだで再び名が知られるようになった。
一方で、月船が残した「潮は月に従うのではなく、月が潮の記憶を追いかける」という命題は、いまなお比喩として好まれる反面、科学的説明としては成立しないとして批判も多い。もっとも、批判者の中にも「文章だけは妙にうまい」と認める者が少なくない。
系譜・家族[編集]
月船家は、相川町で船大工を代々務めた家系とされる。祖父の月船伊助は期にの資材輸送に関わり、月船朔の海運への関心に影響を与えたとされる。
父・月船善次郎は船頭、母・月船とみは神楽の記録係であった。妻はに結婚した月船澄江で、地方新聞の校閲をしていた人物であり、月船の原稿に出てくる比喩の大半は澄江によって「少しだけ普通に」直されたという。
子は2人おり、長男の月船亮一はで図書館司書となり、次女の月船文はで郷土玩具の蒐集家となった。孫の代になると海との結びつきは薄れたが、家にはなお毎月朔日にだけ開くという「月船棚」があり、そこに古い観測札が保管されている。
脚注[編集]
[1] 月船朔『朔航論序説』月影書房、1949年。
[2] 『日本天文民俗学会会報』第12巻第4号、1957年、pp. 41-53。
[3] 月船朔「相川港夜話」『浜と月』第3号、1971年、pp. 8-15。
[4] 佐伯隆一『港湾朔表の流通史』北海出版、1988年、pp. 112-118。
[5] 月船朔遺稿整理委員会編『月船朔遺稿集』鎌倉文庫、1986年、pp. 201-204。
[6] 月船朔『月相別航路図集』潮流社、1956年。
[7] Margaret A. Thornton, "Lunar Folklore and Coastal Navigation in Postwar Japan," Journal of Maritime Cultural Studies, Vol. 8, No. 2, 1994, pp. 77-96。
[8] 井上照夫『朔と祭礼の民俗誌』地方文化叢書、1965年、pp. 33-49。
[9] 小坂井澄子「月齢札の実用性について」『沿岸記録』第9巻第1号、1979年、pp. 2-19。
[10] 月船朔『月は帰る船である』潮見社、1978年。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 月船朔『朔航論序説』月影書房, 1949年.
- ^ 月船朔『月相別航路図集』潮流社, 1956年.
- ^ 井上照夫『朔と祭礼の民俗誌』地方文化叢書, 1965年.
- ^ 月船朔『浜言葉朔望辞典』海鳴書院, 1963年.
- ^ 月船朔『月は帰る船である』潮見社, 1978年.
- ^ 月船朔遺稿整理委員会編『月船朔遺稿集』鎌倉文庫, 1986年.
- ^ 佐伯隆一『港湾朔表の流通史』北海出版, 1988年.
- ^ Margaret A. Thornton, "Lunar Folklore and Coastal Navigation in Postwar Japan," Journal of Maritime Cultural Studies, Vol. 8, No. 2, 1994, pp. 77-96.
- ^ 小坂井澄子「月齢札の実用性について」『沿岸記録』第9巻第1号, 1979年, pp. 2-19.
- ^ 渡辺精一『月船家文書の基礎的研究』日本海沿岸史研究会, 2002年.
- ^ 田中由里子『夜間航行と地方儀礼』海港文化社, 2010年.
- ^ 青木真一『月相別港湾運用の成立』関西民俗学出版, 2016年.
外部リンク
- 月船朔記念館
- 佐渡天文民俗資料アーカイブ
- 港湾朔表デジタルコレクション
- 日本月相文化研究ネット
- 朔航論研究室