桃花台新交通200系(未成)
| 形式 | 200系 |
|---|---|
| 製造予定 | 1989年 - 1992年 |
| 製造数 | 試作2両・図面登録14編成 |
| 製造者 | 桃花台新交通技術準備室・日本車輌連合設計班 |
| 運用予定区間 | 桃花台中央 - 北部丘陵仮設線 |
| 主要諸元 | 全長18,400mm・幅2,820mm・定員96人 |
| 最高設計速度 | 70km/h |
| 特徴 | 単位式台車、斜行窓、夜間自動整列灯 |
| 状態 | 未成 |
桃花台新交通200系(未成)(とうかだいしんこうつう200けい みせい)は、愛知県の輸送計画に基づいて設計されたとされる用車両である[1]。完成寸前まで試作が進んだものの、量産化の直前に車体寸法の再解釈が行われ、結果として「未成」という独特の扱いを受けたことで知られる[2]。
概要[編集]
200系は、が1980年代末に導入を検討した車両形式であり、当初は北部丘陵の通勤需要を吸収するための「静音・高勾配対応車」として計画された。設計上は系の軽量車体思想と、当時のが推奨した「地域循環型軌道」の規格を折衷したものとされる[3]。
しかし、同形式は量産前の最終確認で、車内の座席ピッチが1.5mmだけ基準を超えたこと、また前面ガラスの傾斜角が名古屋市方面から見ると「威圧的」であると指摘されたことから、計画が長期保留となった。なお、後年になって公開された社内資料では、この保留は実際には車両そのものよりも、駅名標のフォント選定会議が紛糾したことに起因するとされている[4]。
歴史[編集]
計画の発端[編集]
200系の起点は、に開かれた『桃花台丘陵交通整備懇談会』の第4回会合にあるとされる。ここで、、および架空の設計団体であるが、ニュータウンの斜面地を短距離で結ぶため、通常のよりも小径で高出力の車両を採用する案を提示した[5]。
同会合の議事録によれば、初期案は150系と呼ばれていたが、参加した一部の技術者が「200km/hを目指す気概がない以上、番号だけでも200系にすべきだ」と主張し、形式名が変更されたという。もっとも、後に確認された議事録の余白には、当時の若手担当者が鉛筆で「語感が強い」と書き添えていたことが知られている。
試作車の製作[編集]
試作車は秋から岐阜県内の協力工場で組み立てられたとされ、外板はアルミ合金、床下機器は防錆のために一度だけ三河湾の潮風試験を受けた。特に特徴的であったのは前面下部に設けられた「夜間整列灯」で、これは終点到着時に乗客を均等に降車させるための補助灯であり、照射パターンが一時期だけ名鉄の車掌灯に似ていたため、比較検討の対象になった[6]。
この試作2両は実験線上で合計1,840kmを走行したと記録されているが、そのうち約120kmは、実際には車庫内での低速転がし試験であった。担当技師の一人である渡辺精一郎は後年の回想録で、「あの車両は速度よりも、会議室の空気を運ぶ能力が高かった」と述べている。
未成化の経緯[編集]
1991年初頭、量産仕様の承認直前に、から「非常時の乗降誘導表示がやや詩的である」との指摘が入り、設計変更が求められた。これに対し、設計陣は表示器の文言を単純化する代わりに、車体中央の貫通路を3cm拡幅する案を提示したが、今度は駅ホーム側の安全柵との干渉が問題になった。
結果として、200系は「次期改良型の母体」として扱われることになったものの、その改良型が結局全体の需要見通しに吸収され、形式そのものは書類上のみ残存した。いわゆる未成であるが、関係者の間では「完成しなかった」のではなく「完成した瞬間に時代が追いつかなかった」と説明されることが多い。
設計[編集]
200系の設計思想は、狭小断面・急勾配・高頻度運転の三条件を同時に満たすことにあった。台車はに近い構造が採用される予定で、曲線通過時の軋み音を抑えるため、車輪フランジに0.7mmの樹脂層を貼る案まで検討された。
車内は中央部をやや広く取った「可変座席配置」構造で、朝ラッシュ時には通路を2列確保し、昼間はベンチシート風に戻す計画であった。ただし、この機構は実験段階で「変形中に乗客が不安になる」という理由から、実際の採用は見送られた。
また、窓配置は桃花台の丘陵景観を意識して斜めに切られ、車内からは遠景のがやや菱形に見える仕様であったとされる。資料によっては、この斜行窓は実は車両の姿勢制御誤差を隠すための工夫だったともされ、評価が分かれている。
運用構想[編集]
本形式は、当初は桃花台ニュータウン内の主要住宅群を結ぶ循環運転を前提としていた。朝夕は3分30秒間隔、昼間は7分間隔での運転が想定され、最大で6編成を同時投入する計画があったという[7]。
また、沿線には「自動整列駅務」と呼ばれる補助係員が配置される予定であり、これは乗客を乗車位置へ誘導するための制度であった。もっとも、実地訓練では係員よりも地域の子どもたちが誘導に熱心で、結果として駅前広場が半ば自治的な交通広報の場になったと記録されている。
なお、200系の運行ダイヤは平成初期の地域広報誌に掲載されたが、その時刻表には終電が「天候により若干前後する」とだけ記され、時刻表としては異例の柔軟性を示していた。
社会的影響[編集]
200系は未成でありながら、桃花台地域の開発言説に強い影響を与えた。特に住宅販売の折込チラシでは、実車写真の代わりに車体シルエットと「静かに未来へ」という文言が多用され、これがニュータウン文化の象徴となった。
一方で、車両の不在そのものが逆に話題を呼び、地域住民の間では「幻の青帯車両」として語り継がれた。1990年代後半には、地元の鉄道愛好家が駅跡地で独自に紙製の200系を展示する催しを行い、段ボール製の前面が雨で膨らんだことから、結果的に「本物らしさが増した」と評された。
この現象は、後の研究にも引用され、未成車両が地域アイデンティティの核になりうる例として扱われている。ただし、この定説には異論もあり、単に皆が完成品を見たことがないだけではないか、との指摘もある。
批判と論争[編集]
200系をめぐっては、設計過剰であったとする批判と、むしろ保守的であったとする批判が併存している。前者は主に技術系の外部委員から、後者は主に地元説明会に参加した主婦層から出されたもので、同じ形式に対して正反対の評価が並立した点が興味深い。
特に論争を呼んだのは、車体側面のロゴマークである。一次案では桃の花を抽象化した五弁星形であったが、これが「花というより調味料の蓋に見える」とされたため修正された。しかし修正版も今度は「地下鉄の避難標識に似ている」とされ、最終的にロゴは決定しないまま終了した[要出典]。
また、試作車の塗装色がわずかに青みがかっていたことから、のちにという通称が定着したが、実際には緑みがかった灰色であったとする写真鑑定も存在する。色名だけが先行し、現物の色調が後から追いついた、珍しい例である。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『桃花台丘陵交通計画史』中部交通文化出版, 2004, pp. 113-147.
- ^ 佐伯由紀夫「桃花台新交通200系における未成要因の再検討」『鉄道技術史研究』Vol. 12, No. 3, 2011, pp. 44-62.
- ^ K. Morita, “The Unbuilt Rolling Stock of Suburban Japan,” Journal of Transit Memory, Vol. 8, No. 1, 2015, pp. 5-29.
- ^ 小林真澄『ニュータウンと軌道のあいだ』名古屋都市研究会, 1998, pp. 201-219.
- ^ 中部運輸監理局『地域新交通車両仕様に関する審査記録』第2巻第4号, 1991, pp. 3-18.
- ^ 田中久美子「斜行窓の美学と安全性」『車体設計月報』Vol. 21, No. 7, 1990, pp. 77-83.
- ^ G. R. Ellison, “Tender Windows and Civic Landscapes,” Urban Rail Quarterly, Vol. 4, No. 2, 1993, pp. 61-74.
- ^ 桃花台新交通準備室『200系量産化直前会議資料』社内資料, 1992, pp. 1-56.
- ^ 橋本雅人『未成交通遺産の保存と観光化』交通遺産叢書, 2018, pp. 90-126.
- ^ M. A. Thornton, “When Specifications Become Folklore,” Proceedings of the 11th International Symposium on Transit Fiction, 2020, pp. 14-19.
外部リンク
- 桃花台未成車両アーカイブ
- 中部新交通史料館
- 幻の地域輸送研究センター
- 桃花台交通文化保存会
- 未成線とニュータウンの会