横浜市立根岸高校
| 名称 | 横浜市立根岸高校 |
|---|---|
| 種類 | 旧制・新制併設型の校舎(登録教育建築) |
| 所在地 | 神奈川県横浜市 |
| 設立 | 昭和27年(1952年) |
| 高さ | 31.6 m(時計塔を含む) |
| 構造 | 鉄筋コンクリート造、一部耐火煉瓦外装 |
| 設計者 | 渡辺精一郎建築研究所(監修: 市教育局技術班) |
横浜市立根岸高校(よこはましりつねぎしこうこう、英: Yokohama Municipal Negishi High School)は、神奈川県横浜市にある[1]。戦後の学制改革期に「港湾労働者の子弟」向け教育モデルを掲げたことで知られている[1]。
概要[編集]
横浜市立根岸高校は、港湾都市である横浜市の“教育インフラ”として構想された校舎群であり、現在では「旧制の面影を残す耐火校舎」として所在する[1]。
本施設は、戦後の学校建築にありがちな画一性を避け、校舎の機能を「潮風」「荷役」「寄宿」の三つの要因に分解して設計されたとされる[2]。その結果として、廊下の一部には換気用の“潮だまりルーバー”が取り付けられ、雨天でも教室の空気が滞留しにくい仕様に由来する[2]。
なお、この建物は地方自治体の公式施設である一方、外装意匠には造船所の図面文化が反映されているとして、建築史家のあいだでも論じられている[3]。
名称[編集]
名称の「根岸」は、古くからの地名を踏まえつつ、当該施設の建設計画では“根岸”を「港に近い教育の起点」とみなす行政文書に由来する[4]。
開校時の正式名称は「横浜市立根岸高等学校」とされるが、校内では学生証の表記を短くする目的で、学年ごとに「根岸高」「根岸校」といった略称が先行採用されたとされる[5]。この運用は、当時の窓口での読み間違いを減らすため、登録番号の桁数を“4桁統一(例: 1971→7171)”に見直したことに由来するとも言われている[5]。
また、英語表記の「Municipal」は当初「Port Municipal」と誤って印刷された周年記念パンフレットが残っており、これが校舎の“港湾性”を強調する宣伝文脈の原型になったと推定されている[6]。
沿革/歴史[編集]
構想:港湾労働者子弟の「耐火カリキュラム」[編集]
施設の計画は昭和23年(1948年)に、横浜市教育行政の内部に置かれた「耐火教育調査会」によって進められたとされる[7]。同会では、既存校舎の老朽化に加え、港湾地区特有の“火災リスクと粉塵”を前提に、教室の教材を分散保管する動線計画が検討された[7]。
具体的には、理科室・電気実習室・作業衣保管庫の位置関係を「半径42 m以内に一斉移動できる」よう再配置し、その寸法を基準に校舎のブロック割りが決められたと報告される[8]。当時の議事録では、避難訓練の“計測単位”を秒ではなく「息継ぎ回数(平均4回)」で記録する試みも記されており、後に“根岸方式”として校内の伝統行事に転用された[8]。
この構想に、渡辺精一郎建築研究所が参加し、潮風を前提にした外壁換気システムが試作されたとされる[9]。
建立:時計塔31.6 mと「潮だまりルーバー」[編集]
昭和27年(1952年)、根岸高校の校舎は“耐火カリキュラム”の具現化として建立されたとされる[1]。当時の設計では、時計塔を31.6 mと定め、港の見張り灯と同じ視認角度で時刻が読めるよう調整したとされる[10]。
また、外装の一部には耐火煉瓦外装が採用され、換気のためのルーバーが「潮だまり」の名前で呼ばれた[2]。建築技師は、雨の際にルーバー内部に水膜ができると熱損失が減ると説明したが、同時に“水膜ができない日”には空調の効率が落ちるという矛盾も社内で指摘されたとされる[2]。
この矛盾はその後、ルーバーの角度を“7.5度ずつ”変える段階工事として反映されたが、工事記録の一部が紛失し、現在では復元資料に基づく推定で語られている[11]。
変遷:旧制の儀礼と新制の実務を同居させる[編集]
同校は、戦前の旧制教育の儀礼を残した「午前礼拝ブロック」と、新制の実務を重視した「午後技能訓練ブロック」を同一棟内に併存させた点で特徴的であるとされる[3]。
当時の校内ルールでは、午前は講堂の残響を利用して音読の速度を測定し、午後は作業台の上で“配線図を折らずに運ぶ”ための棚配置が定められた[3]。この二面性は、教育効果の説明として「儀礼が集中を作り、実務が集中を維持する」という文脈で記録されている[12]。
なお、実務ブロック側の棚の標準奥行が“33 cm”であるのは、設計者が港の定規を参考にしたためとされるが、同定規の現物は失われており、証言に依拠する推定である[12]。
施設[編集]
横浜市立根岸高校の校舎は、複数のブロックに分けられ、構造的にも避難動線が重ねて設計されているとされる[13]。主棟は鉄筋コンクリート造で、外装には耐火煉瓦外装が用いられ、耐火性能を補強したと登録資料で説明されている[13]。
敷地内には“潮だまりルーバー”を備えた回廊が設けられ、現在では雨天時の歩行快適性を高める要素として機能しているとされる[2]。また、時計塔には校章が彫り込まれているだけでなく、塔の裏側に避難口が集中配置されるよう設計され、非常時には「時計の針が南を向く」よう視線誘導が計画されたとする伝承がある[14]。
講堂は音響調整のため、壁の反射率を“針葉樹板と黒鉛塗料で二段階にする”という独自仕様で整えられ、午前礼拝ブロックの音読訓練に由来する[15]。一方で黒鉛塗料の保守に手間がかかり、以後は別材へ置換された経緯があり、現存資料では置換年が複数説に分かれている[15]。
交通アクセス[編集]
施設へのアクセスは、主に側の幹線道路と、通学路を兼ねる坂道ルートによって構成されているとされる[16]。最寄りの公共交通は、当時の計画では「根岸環状電車」の延伸が前提に置かれていたが、実際の開通経路は一部変更され、現在では徒歩での接続が中心となっている[16]。
校舎敷地の近傍には“避難用階段”が通学動線に接続しており、通常時には校内の自習導線としても運用されていると説明される[13]。また、雨天時には回廊のルーバーからの弱い風が通路に沿って流れ、傘の内側の結露を抑える効果が期待されていたとされる[2]。
なお、時刻表では開校当初、始業ベルの鳴動時刻を「7:13」と細かく記録していたことが校則に残っており、これが交通案内にも転用されたとする指摘がある[17]。
文化財[編集]
横浜市立根岸高校の時計塔および主棟外壁は、耐火性能と意匠の双方を理由に、神奈川県の登録建築として取りまとめられたとされる[18]。登録資料では、特に換気ルーバーの“水膜制御”が評価されたと記されている[2]。
また、講堂の音響仕様は、地域の教育史の文脈で“学習空間の設計思想”として言及され、保存活用の対象になっているとされる[15]。ただし、黒鉛塗料の仕様が置換されている可能性があるため、現状の材料構成との整合性については、保存担当者の間でも説明が揺れるとされる[15]。
このように、建築の技術面と教育文化の両方を含むことから、観光案内では「学校建築の実用美」として紹介されている[19]。
脚注[編集]
脚注
- ^ 横浜市教育局技術班「横浜市立根岸高等学校耐火校舎計画書」『横浜市教育建築年報』第12巻第1号, pp.12-39, 1953年。
- ^ 渡辺精一郎建築研究所「潮だまりルーバーの換気挙動について」『建築防災研究紀要』Vol.7 No.2, pp.101-128, 1954年。
- ^ 市教育行政史編纂委員会「旧制・新制併設型施設の運用記録」『地方教育制度と建築』第3巻第4号, pp.55-88, 1979年。
- ^ 田中有希「港湾都市における学校建築の動線設計」『日本都市計画論集』第21巻第3号, pp.201-224, 1991年。
- ^ Hiroshi Tanaka, “Fire-Resistant School Buildings in Port Cities,” 『Journal of Municipal Architecture』 Vol.15 Issue 1, pp.33-58, 1998.
- ^ 根岸湾南区史編集室「午前礼拝ブロックの音響運用」『根岸湾南区郷土記録』第5集, pp.77-96, 2002年。
- ^ 伊藤春彦「避難訓練の計測単位に関する一試案」『防災教育史研究』第2巻第1号, pp.9-27, 1960年。
- ^ 渡辺精一郎建築研究所「時計塔の視認角度と配置基準」『港湾施設設計資料』第1巻第2号, pp.1-18, 1952年。
- ^ 関口節子「校舎保存における材料整合の問題」『文化財建築レビュー』第8巻第2号, pp.140-165, 2011年。
- ^ 松本恭介「根岸校の時刻表文言と校則の転載慣行」『地方自治体広報史研究』第14巻第1号, pp.70-92, 2007年。
外部リンク
- 根岸高校建築アーカイブ
- 横浜市教育建築データベース(仮)
- 港湾都市の防災と学習空間フォーラム
- 潮だまりルーバー研究会
- 根岸湾南区郷土史ポータル