歌舞伎俳優連続傷害事件
| 名称 | 歌舞伎俳優連続傷害事件 |
|---|---|
| 発生時期 | 1978年頃 - 1993年頃 |
| 発生場所 | 東京都中央区、日本橋、銀座周辺ほか |
| 関与組織 | 松竹演芸安全対策室、東京歌舞伎保存会 |
| 主な原因 | 所作稽古の高密度化、衣装事故、楽屋慣行の誤用 |
| 影響 | 舞台安全指針の導入、稽古時間の上限設定 |
| 通称 | 所作災害期 |
| 関連法令 | 舞台芸能安全臨時指導要綱 |
歌舞伎俳優連続傷害事件(かぶきはいゆうれんぞくしょうがいじけん)は、後期から初期にかけての歌舞伎界を中心に起きたとされる、複数の歌舞伎俳優が立て続けに負傷した一連の騒動である。演技指導の名目で行われた「過剰な所作鍛錬」が発端とされ、のちに系の舞台慣習やの安全基準にも影響を与えたとされる[1]。
概要[編集]
歌舞伎俳優連続傷害事件は、単一の犯人による事件ではなく、内外の複数の劇場で起きた軽傷から中等度の負傷事案を、後年になって編集者が便宜上ひとまとめにした呼称である。発端はにの稽古場で起きたとされる転倒事故で、その後、、の各劇場へと話が広がった[1]。
事件名に「連続」とあるが、実際には半年から数年の間隔を置いて発生した事例も含まれている。一方で、当時の興行関係者の間では、同じ型の稽古法を採る一団に事故が集中したため、結果として「連続傷害」と呼ばれるようになったとされる。なお、被害者の多くはとで、特に重い衣装を着けた状態での昇降動作に難があったという。
事件名の成立[編集]
呼称が定着したのはに刊行された『歌舞伎舞台年鑑・安全編』であるとされる。同書では、個々の負傷を別件として扱わず、楽屋・花道・廻り舞台に共通する危険要因を「連続的な舞台外傷」と整理しており、これが後の報道用語の原型になった[2]。
被害の特徴[編集]
負傷の内訳は、足首の捻挫が42件、肩関節の亜脱臼が19件、鬢付け油による滑走事故が7件、その他が11件とされる。ただしこの数字はが便宜的に集計したもので、同会の事務局長であったは「演者本人が痛みを役として飲み込む文化が集計を遅らせた」と述べたという。
背景[編集]
事件の背景としては、後期の歌舞伎界で所作の高速化と豪華化が進み、稽古時間が1日平均7時間40分に達していたことが挙げられる。特に系の中劇場では、昼の部と夜の部の間に「短縮通し稽古」が組み込まれ、床山や黒子まで動線を共有していたため、転倒時の巻き込み事故が発生しやすかったとされる。
また、当時は「傷を見せないことが美徳」とする慣行が強く、軽度の負傷は湿布と木綿の包帯で隠し、翌日の舞台に立つことが珍しくなかった。このため、事故の実態が表面化したのは、の資料係が楽屋帳と診療記録を照合した以降であるとされる。なお、一部の研究者は、この照合作業が「日本初の舞台衛生学」の出発点だったと主張している[3]。
道具と衣装の問題[編集]
事件に関する検証では、裾の長い衣装と重心の高い下駄型履物が相互に事故率を高めたとされる。とりわけ、金属芯を入れた鬘(かつら)が頭部の回転に遅れを生み、見得の直前に首を痛める例が相次いだため、後年の舞台監修では鬘の重量が1.8kgを超えないよう推奨されるようになった。
現場の証言[編集]
当時の舞台係によれば、花道の途中に置かれた小道具箱が「毎回、同じ位置にあるのに誰も注意しない」ことが最大の危険因子であったという。あるの小劇場では、転倒した俳優が倒れた拍子に定式幕を引き上げる紐を掴み、そのまま舞台全体の照明が落ちた逸話が残されている。
主な事案[編集]
の日本橋事案では、二代目が「六法」の着地に失敗して左膝を負傷し、翌月の公演を全休した。これを受けて楽屋では「膝を守るために足袋を二重に履く」案が出たが、逆に足裏感覚が鈍るとして却下された。
の銀座事案では、女方のが三枚重ねの衣装の裾に足を取られて転倒し、肩を打撲した。新聞各紙は小さく報じただけであったが、舞台袖で待機していた若手俳優12人が同時に「衣装のせいでなく段取りのせい」と証言したことから、内部ではかなり早い段階で問題視されたとされる。
の新橋事案は、稽古中の「見得競争」が原因であるとされる。これは、複数の俳優が互いにより長く静止しようとして呼吸を止めすぎ、結果として失神寸前になったという珍事で、のちにの講習資料では「表現の過剰が身体管理を上回った典型例」と記された[4]。
調査と対応[編集]
事件の拡大を受け、にの外郭研究班として「舞台所作安全実態調査委員会」が設置された。同委員会は、全国の歌舞伎劇場19館、稽古場27か所、楽屋帳3,412冊を対象に、負傷発生時刻、床材、湿度、鬢付け油の粘性まで調べたとされる。
報告書では、事故の7割が開演前90分以内に集中しており、特に「場当たり直後の段取り替え」に危険が多いとされた。また、花道の幅が1.2間未満の劇場では捻挫率が平均2.4倍であったとし、舞台改修の必要性が勧告された。ただし、同報告書の付録にある「声量と骨密度の相関」には学界から疑義が出ており、現在でも要出典扱いとなっている[5]。
安全指針の導入[編集]
には「歌舞伎舞台安全指針第一版」がまとめられ、足元確認の掛け声、衣装重量の申告、稽古前の関節回しの義務化が定められた。特に「見得は8拍以内を原則とする」という項目は当初不評であったが、膝痛の減少に寄与したとして後に定着した。
楽屋文化への影響[編集]
この事件以後、楽屋での「根性論」は次第に抑制され、代わってマッサージ師と理学療法士が常駐する体制が整えられた。もっとも、古参の黒子の中には「舞台は痛みと紙一重である」として新制度を冷ややかに見る者もおり、改革は一枚岩ではなかった。
社会的影響[編集]
事件は歌舞伎界内部にとどまらず、全体の安全意識を変えたとされる。とりわけの舞台番組では、転倒予防のために稽古場の床を毎回撮影前に再確認する慣行が生まれ、これが後の「舞台メイキング」文化につながったという。
また、の小学校では、総合学習の教材として「舞台の安全と伝統」という副読本が配布され、児童が紙製の花道を歩きながら危険箇所を見つける授業が行われた。地域住民の間では、事件を機に「歌舞伎は華やかだが足元は危うい」という認識が一般化し、劇場周辺の石畳が次々と滑り止め加工されたという。
批判[編集]
一方で、保守派からは「事故をことさらに制度化することで、舞台の即興性が損なわれた」との批判が出た。ある評論家は、指針導入後の演目について「安全になったが、少しだけ見得が早く終わる」と書き、これが長く論争の的となった。
評価[編集]
現在では、連続傷害事件は悲劇であると同時に、歌舞伎界が近代的な労務管理へ移行する契機であったとも評価されている。実際、事故件数は以降の10年間で約63%減少したとされ、劇場の安全文化を語る際には必ず引き合いに出される。
年表[編集]
日本橋で初期事案が発生。
銀座事案が報道関係者の間で知られるようになる。
国立劇場の資料照合で類似事例が集約される。
舞台所作安全実態調査委員会が設置される。
歌舞伎舞台安全指針第一版が発行される。
事件名が一般化し、新聞用語として定着する。
補遺[編集]
年表の末尾にある以降も散発的な軽傷は続いたが、公式には「同種事案」として別枠処理された。そのため、研究者の間では実質的な終息年をとみる説と、稽古様式が変わったとみる説が併存している。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 遠藤喜平『歌舞伎舞台年鑑・安全編』東京舞台研究社, 1994, pp. 41-68.
- ^ 佐伯澄夫「昭和後期における歌舞伎俳優の外傷統計」『舞台芸術学報』Vol. 12, 第3号, 1995, pp. 77-104.
- ^ Margaret H. Fielding, “Risk and Gesture in Urban Kabuki Houses,” Journal of Performing Safety, Vol. 8, No. 2, 1996, pp. 113-129.
- ^ 文化庁舞台芸能調査室『舞台所作安全実態調査報告書』文化庁資料第48号, 1992, pp. 9-52.
- ^ 山根光一『見得と関節: 近代歌舞伎の身体管理』青山書房, 1997, pp. 155-201.
- ^ Kenneth R. Doyle, “Friction Surfaces and Stage Injury in Japanese Classical Theater,” Theatre Medicine Quarterly, Vol. 4, No. 1, 1998, pp. 21-39.
- ^ 東京歌舞伎保存会『楽屋帳照合による負傷事例集』内部刊行物, 1988, pp. 3-19.
- ^ 長谷川玲子「花道幅員と捻挫率の相関について」『日本舞台衛生研究』第6巻第4号, 1993, pp. 201-218.
- ^ Pauline I. Mercer, “Costume Mass and Balance Errors in Kabuki Rehearsals,” Asian Performance Review, Vol. 11, No. 4, 2000, pp. 88-97.
- ^ 渡辺精一郎『舞台の安全と伝統』中央区教育委員会叢書, 2002, pp. 11-44.
外部リンク
- 歌舞伎舞台安全アーカイブ
- 東京演芸衛生資料室
- 日本舞踊協会・安全講習特設ページ
- 中央区文化史データベース
- 舞台事故年報オンライン