淺間し屋後久郎(鳥越九郎)
| 氏名 | 淺間し屋 後久郎(鳥越 九郎) |
|---|---|
| ふりがな | あさましや ごくろう(とりごえ くろう) |
| 生年月日 | |
| 出生地 | 群馬県嬬恋村(現・嬬恋町) |
| 没年月日 | |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 煙突改札術師/建築小道具職人/鉄道安全請負人 |
| 活動期間 | - |
| 主な業績 | 煙の流れを数値化する改札装置の標準化 |
| 受賞歴 | 帝都防火規格賞(架空)/内務省保安章(架空) |
淺間し屋 後久郎(あさましや ごくろう、(とりごえ くろう)、 - )は、日本の「煙突改札術」の開拓者である。〇〇として広く知られる[1]。
概要[編集]
淺間し屋 後久郎は、群馬県の炭焼き長屋に端を発し、のちに東京府の鉄道施設で「煙突改札術」と呼ばれる安全技術を体系化した人物である[1]。
彼は煙突の排気を「見た目」ではなく「通過回数」「滞留時間」「煤比」などで扱う作法を広めたとされ、当時の保安現場における“勘”を“手順”へ置き換えたことが評価された[2]。
特に名義で刊行された『改札算盤記』は、装置の寸法表に加えて、煤の匂いを言語化する付録まで含むとして奇書扱いされた[3]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
後久郎は、に群馬県嬬恋村へ生まれたと伝えられる[4]。戸籍上の職は「窯場付(かまばづき)」であり、煙が“道”として分岐する瞬間を見分ける役目を担っていたとされる[5]。
幼少期から彼は、煙の濃淡を障子紙で分類して記録し、家にあった帳面には「三色(うす橙・深灰・青蝋)」の欄が毎月更新されていたと述べられている[6]。なお、この分類がのちの改札術へ直結したという説は、後世の弟子筋が書いた回想録で強く主張された[7]。
一方で、別系統の家伝では、最初の着想は炭焼きではなく、嬬恋村の小学校(当時は臨時寄宿舎)での換気当番にあったとされ、同じ“煙”でも教育現場から転用した可能性が指摘されている[8]。
青年期[編集]
、彼は上京しての工房に奉公し、金具と器具の見習いとして働いたとされる[9]。この時期、彼は「測る道具は、壊れても構わないが、壊れた“理由”は必ず記録せよ」という口癖を身につけたと伝わる[10]。
に彼が関わったとされる“見積もり合戦”では、同業の職人が煙突内径の計測で揉めた際、後久郎が「ノギスを借りず、煤が付く角度で逆算する」方法を披露したという[11]。この逸話は、後に『改札算盤記』の序章で「第零章・無道具測量」として引用されることになる[3]。
なお、当時の記録では奉公先の番地が一致しないことがあり、改名した可能性や、別の工房で研鑽した可能性が議論されている[12]。
活動期[編集]
後久郎の活動期はに始まるとされる。彼は各地の操車場に出向き、煙の排出状態を改札のように“判定”する装置群の導入を請け負ったとされる[13]。
この装置は、煙突の入口に取り付ける「煤比板(ばいばん)」と、通過後に残る「匂い痕(においあと)」を照合する簡易台帳から構成されていたと説明される[14]。さらに、判定は1回の観察で終えず、最小でも“3回目視”を義務づけた点が特徴とされる[15]。
には、内務省の地方保安課が実施した実地調査に、名義で技術者として参加したとされる[16]。調査報告の「煤比板は日本標準規格として採用可」との一文があったとされるが、原本の所在が長らく不明で、後年になって私蔵資料から写しが確認されたと報告されている[17]。
彼の工房は「淺間し屋」を名乗り、煙突改札術は鉄道以外にも、製紙工場や小規模の発電設備へ波及したとされる[18]。ただし、適用の早さは地域ごとに差があり、煤比板の導入率は時点で全国平均が“約46%”だったという資料が残る[19]。
人物[編集]
後久郎は温厚な性格だったとされるが、現場では異様に細かい基準を崩さなかった人物として知られる[26]。例えば、煙の観察は“窓の明るさ”にも左右されるため、観察前に「白紙を1秒だけ当てて目の感度を揃えろ」と命じたという[27]。
逸話としてよく語られるのは、彼が弟子に「煤比板の角を削ると値が落ちる」と注意し、削り屑を採取して“屑の匂い”まで採点したという話である[28]。一方で、弟子の手帳にはこの採点が“5点満点”ではなく“7点満点”に変わっており、途中で彼が採点表を改訂した可能性が指摘されている[29]。
また、彼は書き物が好きで、算盤を用いた記録法を多用したとされる。にもかかわらず、本人が算盤の計算に時間をかけることは少なく、むしろ“間違えたときの直し方”を丁寧に残した点が評価されている[30]。
業績・作品[編集]
後久郎の代表的な業績は、煙突の運用を「改札」のように判定する標準手順の体系化である[31]。彼は、観察回数を最低3回に固定し、判定基準を「煤比」「匂い痕」「排気音(低・中・高の三段)」の合成で算出したとされる[32]。
作品面では、名義で刊行された『改札算盤記』が最も知られる[3]。同書は全八十七丁で、巻末付録に「煤比板の手入れ」(削り粉の保管を含む)と「現場用口上例(叱り文句を含む)」が載るとして、読み物好きの実務者にも受けたとされる[33]。
ほかに『煙突三段譜』『匂い痕譜面集』などが挙げられる。特に『匂い痕譜面集』は、煤の匂いを“季語”に寄せて説明する方式を採用し、「深灰は二度咲く梅のように冷える」といった比喩が記されたとされる[34]。
これらの作品は、技術書としての体裁を保ちつつ、現場の教育資料としても機能した点が、当時の関係者から評価されている[35]。
後世の評価[編集]
後世の評価は概ね高いとされるが、同時に“装置より帳簿を優先しすぎた”という批判も存在する[36]。の鉄道保安運用では、煙突の詰まりそのものを直接解消する施策が後回しになり、判定だけが先行した例があると指摘された[37]。
一方で、改札術の思想は、のちの安全工学の教育カリキュラムへ影響したともされる。例えば東京市の職工学校(当時の名称)で、帳簿様式の授業に『改札算盤記』の抜粋が採用されたという記録がある[38]。
この採用経緯については、編集者が“配布しやすい小型本”として選んだとも、“検収の書式が官僚に好まれた”とも説明されているため、どちらが真実かは確定していない[39]。
また、彼の名前が“淺間し屋”として現場の呼称に残り、煙突作業員の間で「後久郎式の間(ま)」と称する言い回しが生まれたとされる[40]。
系譜・家族[編集]
後久郎の家は、群馬県側では「淺間し屋」として、東京側では通称「鳥越家」として名寄せされることがあったとされる[41]。彼自身は二つの屋号を使い分けたといわれ、名義の揺れが子孫の記録にも反映された可能性がある[42]。
家族構成としては、妻の名が『煙突三段譜』の献辞に「きさら」と記されているとされるが、戸籍上の表記が確認できていないため要出典に触れられることもある[43]。長男は大工見習いとして記録され、後に周辺の建築安全点検へ回ったと伝えられる[44]。
系譜の中心となる弟子筋としては、東京府の保安課で働いた工員「内藤 文庫(ないとう ぶんこ)」が挙げられる。彼が残した“改札術の座学”のノートは、現在は大学図書室で閲覧できるとされるが、閲覧条件がやや厳しいという[45]。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 浅間し屋後久郎『改札算盤記』淺間し屋文庫, 1910年.(本文の一部に矛盾があるとされる)
- ^ 鳥越九郎『煙突三段譜』東京保安出版社, 1913年.
- ^ 内藤文庫『改札術の座学:煤比と匂い痕の授業案』職工学校学芸書房, 1921年.
- ^ 高山律太『都市防火の帳簿化と現場教育』内務省地方保安調査会, 第3巻第1号, 1924年, pp. 41-63.
- ^ Margaret A. Thornton『Measurement Rituals in Early Japanese Safety Works』Journal of Applied Civic Hygiene, Vol. 12, No. 4, 1932年, pp. 221-239.
- ^ 鈴木岑吉『煤比板の規格史』防火工学叢書, 第7巻第2号, 1938年, pp. 10-37.
- ^ 『保安と図面』編集部『名人技の再検証:淺間し屋後久郎の帳簿体系』第5号, 1927年, pp. 3-29.
- ^ 田中紗良『匂い痕譜面集と語彙の工業化』言語工学年報, Vol. 4, 1940年, pp. 77-96.
- ^ Kuroda Hidetaka『On Soiling-Scent Indexes in Rail Yards』Proceedings of the Minor Engineering Society, pp. 58-70, 1929年.
外部リンク
- 淺間し屋後久郎資料室
- 煤比板規格検索ポータル
- 匂い痕譜面データベース
- 保安と図面 アーカイブ