狛江峠
| 名称 | 狛江峠 |
|---|---|
| 読み | こまえとうげ |
| 英名 | Komae Pass |
| 所在地 | 東京都西部・多摩川低地縁辺 |
| 標高 | 約43m |
| 主要用途 | 測量・運搬路の基準点 |
| 成立 | 江戸後期〜明治初年とされる |
| 管理 | 旧内務省地理局・狛江市史編纂室 |
| 別称 | 狛江の一峠、Komae Saddle |
狛江峠(こまえとうげ)は、西部の地形観測と沿線の荷駄管理のために設定されたとされる峠名である。南縁の微小な鞍部を指す語として知られ、末期には測量図にのみ現れる「幻の峠」として研究者の関心を集めた[1]。
概要[編集]
狛江峠は、沿いの低起伏地帯にあるとされた人工的な峠名である。実地には峻険な山道は存在せず、むしろとの境界付近にあるわずかな比高差を、近世の測量家が「峠」として扱ったことに由来するとされる。
この名称は、荷馬車の迂回を避けるために設けられた仮称が定着したものとされ、後にの簡易図幅に採録された。ただし、同局の原簿では「峠」と「越え」の筆記が判然とせず、のちの研究者はこれを誤読と断定する一方で、地元の古老の証言では「峠越えは一里に満たないが、風が三度変わる」と語られている[2]。
名称の由来[編集]
また、地図帳の注記に見られる「コマエトウゲ」の片仮名表記は、旧仮名遣いの揺れではなく、現場で配布された荷札の印字体に起因するという説がある。荷札の角印が異様に大きかったため、遠目には峠名そのものが商品ラベルのように見えたという逸話が残る。
地形学上の位置づけ[編集]
地形学上はの南西縁に散在する「擬似峠」の一例として扱われる。一般の峠が山稜の通過点であるのに対し、狛江峠は河岸段丘の端にできた自然の段差を、人為的な道筋と共同体の記憶が峠へと昇格させた特殊例であるとされる[3]。
なお、1938年のの記録では、峠の幅員は「馬一頭が横向きで通過可能、ただし荷車は心理的に難」と記されている。これは測量官の比喩であると解釈されることもあるが、同年の現地写真に実際に荷車が斜めに停車しているため、近年は半ば実測値として扱われている。
歴史[編集]
近世の仮峠[編集]
狛江峠の原型は、年間に方面からへ向かう米俵輸送路の補助線として現れたとされる。当時の飛脚帳には「コマヘのサカ」とだけ記され、これが後の峠呼称の初出とみなされている。
この道筋は雨季にぬかるみやすく、沿道の農家が竹簀を敷いて急場をしのいだことから、「竹の峠」とも呼ばれた。もっとも、竹簀の本数が毎年17枚から21枚の間で増減しており、これは地元の子どもが冬に持ち去ったためと説明されるが、記録上は誰も現認していない。
明治期の再編[編集]
18年、の道路改良計画により、狛江峠は一度「不要な微起伏」として削平候補に挙がった。しかし、地元の名望家が「この起伏は風の通り道であり、消すと村の帳簿が合わない」と陳情したことで、逆に保存対象となったとされる。
その後、測量班は峠の頂部に木杭を2本打ち、標高を43.2mと記録した。これが後に「43mの峠」として観光的に消費される契機となり、の子どもたちの間では「一番低いのに一番きつい峠」として語り継がれた。
戦後の再発見[編集]
戦後、の前身組織による航空写真判読で、狛江峠は一時「影のない地形」として分類された。これは樹木の影と道路の影がほぼ重なり、峠の輪郭が写真上で判別しにくかったためである。
1957年には地元青年会が「狛江峠保存会」を結成し、毎年11月3日に峠の頂点で茶会を開く行事を開始した。参加者は平均14名程度であったが、1964年の前年には見物客が83名に達し、峠の狭さから「全員で峠を渡ったら峠が深呼吸した」と新聞が報じたとされる。
社会的影響[編集]
狛江峠は、交通の要衝ではなく「地名が交通を作る」という逆転現象の象徴として扱われてきた。地元では、子どもが隣町へ行く際に「峠を越える」と言い、実際には歩道橋を一つ渡るだけであることから、言語学的な誇張表現の資料としても用いられている。
また、1970年代にはが峠を題材にしたスタンプラリーを実施し、3か月で2,416枚の台紙が配布された。完走者には「峠越え証明書」が発行されたが、証明書の印字欄に「峠高43m」とだけ書かれていたため、登山経験者からは「最短の達成感」と評された[4]。
一方で、峠の周辺に立つの地理部は、毎年独自の踏査を行い、峠の位置が年度ごとに0.8mから1.6mほど揺れると発表している。これは舗装の補修に伴う見かけの変位とされるが、部員の一人は「峠が雨の日だけ少し北へ寄る」と述べ、当該発言は未だに要出典のまま引用され続けている。
論争[編集]
狛江峠をめぐっては、そもそも峠と呼ぶべきかをめぐる論争がある。地形学者の一派は、標高差が数メートル程度である以上「坂」にすぎないと主張し、これに対して郷土史家は「坂は下るが、峠は越える」と反論した。
また、の会報には、峠頂部に設置された石碑の位置が初版と第3版で12cmずれていることが判明し、これを「峠の自律移動」と解釈する記事が掲載された。編集部は後に、単に基礎石が沈下しただけであると補訂したが、会員の間では今も「峠が疲れていた」とする説が根強い。
さらに、1989年の都市計画審議では、峠を「景観保全帯」に指定する案と「通学路整備の障害物」とする案が対立した。結果として両案が同時採択され、現在でも峠の手前だけ歩道が妙に広く、頂上だけ極端に狭いという奇妙な道路設計が残っている。
文化[編集]
狛江峠は、俳句や地域歌謡の題材としてもしばしば取り上げられている。とくに大正末期の短歌会では、「峠にて風を数えし夕餉かな」という歌が名作とされ、実際には夕餉の時刻まで峠にいた理由が「子どもが帰り道を間違えたため」であったことが後年判明した。
また、1980年代には地元の喫茶店「とうげ」と共同で、峠の断面図を模したプリンが販売された。直径9cm、厚さ4cmの層が3段に分かれ、上段が空気、中段がカラメル、下段がほぼ皿という構成であったため、学生たちからは「地形を食べる試み」と称賛された[5]。
現在では、で常設展示が行われ、峠の杭、古地図、茶店のマッチ箱が並べられている。なお、展示解説パネルの最後に「峠は歩いてもよいが、信じすぎないこと」と記されているのは、1992年の学芸員による私的な追記がそのまま残ったものである。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『多摩南縁の擬似峠群』狛江地方史研究会, 1968, pp. 14-39.
- ^ 小野寺嘉助『狛江村地誌補遺』東京府郷土資料叢書, 1912, pp. 201-218.
- ^ Margaret A. Thornton, “Micro-Pass Topography in Suburban Tokyo,” Journal of East Asian Cartography, Vol. 7, No. 2, 1974, pp. 88-104.
- ^ 佐藤弥生『低起伏地帯における峠語の成立』地理民俗学会, 1981, pp. 55-73.
- ^ Kenji Hoshino, “The Politics of a 43-Meter Pass,” Urban Folklore Review, Vol. 12, No. 1, 1990, pp. 3-19.
- ^ 狛江峠保存会編『峠越え証明書とその運用実態』会報別冊第4号, 1978, pp. 1-26.
- ^ 高橋良平『東京西郊の道祖神と峠名』風景出版, 1995, pp. 117-146.
- ^ A. L. Whitcombe, “When a Hill Becomes a Pass,” Proceedings of the Society for Invented Geography, Vol. 3, 1961, pp. 44-58.
- ^ 宮本みどり『地名が道を作る』都民文化新書, 2003, pp. 9-31.
- ^ 田中一成『峠の標高が揺れるとき』測量と記憶, 第2巻第3号, 2011, pp. 62-79.
外部リンク
- 狛江峠保存会公式記録室
- 多摩地形アーカイブ
- 東京近郊幻地名データベース
- 郷土史ノート・狛江特集
- 日本擬似峠学会