生きたメキシコ事変
| 正式名称 | 生きたメキシコ事変 |
|---|---|
| 別名 | 生体メキシコ展示、可動式ラテン保存騒動 |
| 発生時期 | 1968年頃 |
| 発祥地 | 東京都港区および大阪市住之江区 |
| 関係組織 | 国際乾燥保存協会、東西博覧会運営連盟 |
| 主要人物 | 渡辺精一郎、マリア・L・エスピノサ |
| 主な媒体 | 可搬式観測筐、展示輸送車両 |
| 影響 | 展示法規、都市観光、擬似民俗研究 |
| 関連分野 | 博覧会史、保存工学、民俗演出 |
生きたメキシコ事変(いきためきしこじへん、英: The Living Mexico Incident)は、日本およびメキシコ合衆国において、乾燥地帯の保存技術と移動式展示施設を組み合わせた都市文化現象である。主に昭和後期の民間博覧会を中心に広がったとされる[1]。
概要[編集]
生きたメキシコ事変は、1968年に東京都港区の旧臨港倉庫街で始まったとされる、保存標本の“生体展示”をめぐる一連の騒動である。名称にメキシコが含まれるが、実際にはメキシコ合衆国由来の動植物そのものよりも、同国の乾燥高地における保存技術を模した展示演出が中心であった。
当初は国際乾燥保存協会が提唱した「動く保存庫」構想の一部であり、移送中の標本が“まだ生きているように見える”ことから、新聞記者が半ば揶揄的にこう呼んだのが定着したとされる。なお、当時の運営資料では「第七移動展示試験」と記載されており、事変という語は後年の編集で定着したとみられる[2]。
名称[編集]
「生きたメキシコ」という表現は、本来は大阪市の博覧会関係者が使った業界隠語で、湿度管理の行き届いた展示室を「砂漠のように生きている」と称したことに由来するという説が有力である。一方で、メキシコシティの民間展示監修者マリア・L・エスピノサが、乾燥標本を“死んだ資料ではなく呼吸する記録”と定義した講演録が元になったとする説もある[3]。
「事変」は、昭和43年の朝日新聞夕刊に掲載された見出し「生きたメキシコ、会場を歩く」に対し、翌日の社会面が誇張して用いた言い回しであるとされる。もっとも、当時の記者メモには「歩くのは展示台車であり、標本ではない」と明記されており、記事の勢いだけが先行した可能性が高い。
その後、学術界では「可動保存展示」あるいは「準生体博覧法」という無難な名称が提案されたが、一般には生きたメキシコ事変の呼称が残った。これは名称の奇抜さに加え、会場で配布されたパンフレットの表紙に、サボテンと横断幕を背負った子どもが描かれていたことも影響したとみられる。
歴史[編集]
前史[編集]
前史としては、1950年代後半に横浜港で行われた冷蔵コンテナ実験と、京都大学理学部の標本保全研究がある。特に渡辺精一郎教授が提唱した「温度より物語が保存を支える」という仮説は、当時の保存工学界では異端視されたが、のちの生体展示思想に強い影響を与えた。
また、1965年の大阪万国博覧会準備会議で、会場装飾として持ち込まれた乾燥植物が夜間照明によって微妙に動いて見えたことが、初期の“生きている展示”演出の原型になったとされる。これに対し、会議録では「照明係の腕前による錯覚」と片づけられている。
技術と運用[編集]
生きたメキシコ事変の技術的核心は、可搬式観測筐と呼ばれる木製・アルミ複合の展示箱にある。内部は摂氏18度、湿度34%前後に保たれ、外壁には砂漠を模した塗装が施された。さらに、来場者の視線角度を調整するため、床面に7度の傾斜がつけられていたとされる。
運用はきわめて官僚的で、1回の巡回に対して「標本確認」「香気調整」「横断幕監修」「拍手誘導」の4班が組まれた。特に拍手誘導班は、会場内の歓声を抑えるのではなく、あえて時間差で発生させることで“生きている感”を増幅させる役目を担っていた。
この方式は一部の博覧会関係者から高く評価され、日本国有鉄道の一部支社では、旅客案内の実証実験に応用されたともいわれる。ただし、これを裏づける一次資料は少なく、関係者の回想録に依拠している部分が大きい。
社会的影響[編集]
生きたメキシコ事変は、都市の展示文化を「見るもの」から「維持されるもの」へと転換した点で重要であるとされる。東京の百貨店では、季節催事において“半可動式”の演出が流行し、銀座の一部店舗ではサボテン鉢の横に番号札を付ける習慣まで生まれた。
また、民俗学の分野では、標本を固定的な民芸品として扱うのではなく、移動や保管の履歴ごと記録する「保存民俗学」が提唱された。これは後の国立民族学博物館の展示手法にも影響を与えたとされるが、実際の採用範囲については議論がある。
一方で、過度な演出が本来の学術目的を損なうとして批判も強かった。特に1972年の毎日新聞では、「学術がサボテンの影に隠れた」との社説が掲載され、以後、展示倫理の議論が活発化した。
批判と論争[編集]
批判の中心は、展示物を“生きているように見せる”手法が、観覧者に誤認を与えるのではないかという点にあった。実際、1970年の大阪巡回展では、来場者の一部が「メキシコから自走してきた生物群」と理解し、会場係が一日で37回説明を繰り返したという記録がある。
また、メキシコ合衆国の文化関係者のなかには、同国の乾燥地帯文化が奇術的に消費されていると反発する者もいた。これに対しマリア・L・エスピノサは、「我々は文化を輸送したのではない。湿度の差を輸送したのである」と述べたとされるが、出典によっては「温度の差」となっており、発言の細部は一定しない。
さらに、1980年代以降は保存工学の発展により、演出性の高い巡回展示は旧弊とみなされるようになった。しかし、その一方でSNS時代には“昭和のインスタレーション”として再評価され、若年層の一部には架空の祭礼のように受容されている。
その後[編集]
1993年には神奈川県内の倉庫で最後の主要装置が確認されたが、内部の記録簿は湿気で頁同士が貼りつき、解読不能となった。そのため、事変の終結時期については1990年代前半とする説、平成初期まで継続したとする説の両方がある。
近年では、京都の一部ギャラリーや北九州市の市民団体が、生きたメキシコ事変を題材にした再現展示を行っている。もっとも、現代版では安全基準のためサボテンは樹脂製であり、もはや“生きた”要素は解説員の熱量だけである。
それでもなお、事変は博覧会史の周縁で独特の魅力を保っており、保存と演出、学術と観客のあいだにある微妙な緊張関係を象徴する事例として扱われている。
脚注[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『移動式保存庫と都市観覧の成立』東洋出版, 1971.
- ^ M. L. Espinosa, The Portable Drought: Exhibition Ethics in Postwar Japan, University of California Press, 1974.
- ^ 田所静男『博覧会の裏方たち――可搬展示の社会史』講談社, 1982.
- ^ Harold P. Wexler, Vol. 12, No. 3, "Humid Objects and Dry Audiences", Journal of Cultural Logistics, 1969.
- ^ 宮園久代『生体に見える標本――演出としての保存技術』岩波書店, 1976.
- ^ R. N. Calder, "The Mexico That Walked", Museum Studies Quarterly, Vol. 8, No. 1, pp. 44-67, 1970.
- ^ 『南北アメリカ乾燥文化展 運営報告書』東西博覧会運営連盟資料室, 1968.
- ^ 小沢一郎(同姓同名の別人)『湿度と拍手の都市史』新潮社, 1991.
- ^ Patricia E. Gomez, "On the So-Called Living Mexico Affair", Proceedings of the International Dry Preservation Symposium, Vol. 5, pp. 201-219, 1980.
- ^ 『可搬式観測筐の設計と失敗例』国際乾燥保存協会技術叢書, 1972.
- ^ 山根道夫『メキシコ返し現象の研究』朝日選書, 1988.
外部リンク
- 国際乾燥保存協会アーカイブ
- 昭和博覧会データベース
- 可動展示史研究会
- メキシコ事変資料室
- 東西博覧会運営連盟 口述記録集