男性子宮
| 名称 | 男性子宮 |
|---|---|
| 英語 | Male Uterus |
| 分類 | 想像解剖学・社会生理学 |
| 提唱時期 | 1898年頃 |
| 提唱者 | 渡辺精一郎、M. A. Thornton ほか |
| 中心拠点 | 東京帝国大学 衛生学研究室 |
| 関連施設 | 神保町男子保健館 |
| 主要論争 | 性別と器官機能の対応、教育導入の是非 |
| 影響 | 学校衛生・婚姻医学・労働心理学 |
| 現状 | 現代医学では否定的に扱われる |
男性子宮(だんせいしきゅう、英: Male Uterus)は、の身体において、主として内分泌調整と「共感性の保持」を担うとされた架空の器官である。末期の衛生学者らによって提唱された概念として知られている[1]。
概要[編集]
男性子宮は、ので形成されたとされる架空の器官概念であり、男子の発育過程において一時的に出現し、成熟に伴って胸郭下部へ退縮すると説明されていた。なお、その位置は「第七肋骨と胃角のあいだ」にあるとされ、診察時には柔らかな圧痛と季節による反応差が観察されるとされた[2]。
この概念は、当初はの衛生学講義で補助的に用いられていたが、のちにの「男子心身均衡指導」の資料に一部引用されたことで社会的な広がりを得たとされる。一方で、同時代の外科医の間では「実在する器官というより、思春期男子の情緒変動を説明するための便宜的装置ではないか」との指摘があり、当初から評価は割れていた。
もっとも、男性子宮は単なる解剖学上の幻影ではなく、婚姻制度・勤労観・家族観を一本の線で結びつける思想装置として機能した点に特徴がある。とくにの私立予備校やの工業学校で流行した「男子は腹部に責任を宿す」という標語は、男子教育史の珍事として現在も引用されることがある。
成立の経緯[編集]
衛生学から社会解剖学へ[編集]
男性子宮の起源は、にが発表した小論「男子腹腔内感応器官試論」に求められることが多い。渡辺は、兵営での失神例と寄宿学校での夜尿傾向を同列に扱い、両者の背後に「男子特有の腹部感受中枢」があると論じた[3]。この議論に、来日中の米国人研究者が『Journal of Comparative Civic Anatomy』誌上で賛意を示したことから、概念は一気に国際的な体裁を帯びた。
ただし、当時の記録によれば、渡辺が最初に観察したのは病理解剖ではなく、神田の銭湯でうなり声を上げる青年たちの腹部筋緊張であったとされる。のちにこの逸話は学会誌ではほぼ削除されたが、の議事録付録にだけ「観察環境の特殊性」として残っている。
明治男子教育との結びつき[編集]
後期には、男子子宮は「泣くことを恥じる少年に代わって反応する器官」として説明され、感情教育の補助理論となった。とくにの附属資料では、男子子宮が十分に発達しない生徒は「議論で声が大きくなりやすい」とされ、教員用の観察表には腹囲・発汗・沈黙時間の3項目が並んでいた[4]。
また、の宣教師学校では、男子子宮を「良心の小室」と訳す試みもあったが、これはキリスト教倫理と解剖学が奇妙に癒着した例として知られる。訳語の不統一は後世まで尾を引き、期には「男胎」「腹宮」「感応子宮」など、少なくとも12種の俗称が並立した。
構造と機能の説明[編集]
男性子宮は、標準的な教科書では「左右対称の薄膜状器官で、腹直筋の内側をゆるやかに浮遊する」と図示された。内部は三層に分かれ、外層は労働意欲、中層は対人共感、内層は雨天時の倦怠感を司るとされていた[5]。
機能面では、月曜の始業時に縮小し、金曜の夕方にわずかに拡張するという周期性があるとされた。さらに、満員電車内での圧迫により「責任液」と呼ばれる架空の分泌物が発生し、これが襟元の硬さや語尾の荒さを増幅するという説明が採用された。もっとも、この責任液の採取を試みた研究班はので1週間にわたり試料瓶を冷蔵し続けたものの、最終的に中身はただの甘酒であったと記録されている。
なお、男性子宮の診断には、専用の木製聴診器と「沈黙歩行試験」が用いられた。これは被験者にを300歩歩かせ、途中で「家族」を3回想起させるという簡易法であったが、判定基準が担当者の気分に左右されすぎるため、以降は半ば廃止された。
社会への影響[編集]
婚姻医学への波及[編集]
男性子宮は、婚姻適齢期の判定にまで応用された。系の地方衛生資料では、男子子宮の肥厚が「家庭維持能力」の指標とみなされ、見合い前に腹部を温める習俗がの一部地域で広まったとされる[6]。ただし、この慣行は実際には湯たんぽ商人の販売戦略だったという説もあり、真偽は定まっていない。
また、離婚調停の場で「夫の男性子宮が収縮しきっている」と主張する鑑定人が現れたことから、では一時期、腹部生理に関する意見書が証拠として扱われた。これが裁判官の書類負担を増やし、後に簡素化の契機になったとされる。
労働運動との奇妙な接点[編集]
期には、労働組合の一部が男性子宮を「搾取される腹の象徴」と解釈し、夜勤明けの腹痛を社会問題として訴えた。とくにの工場労働者集会では、腹部に赤い布を巻いて入場する慣習が生まれ、これが後の健康旗運動の原型になったという[7]。
一方で、経営側は「男性子宮は勤勉さを可視化する器官」であるとして管理強化に利用した。工場内の巡回看護婦が腹部の張りを点検し、必要に応じて15分の無言休憩を与える制度は、当時としてはかなり先進的であったが、実際には作業効率よりも上司の迷信を満たす効果のほうが大きかったといわれる。
批判と論争[編集]
男性子宮に対する批判は、末期から初期にかけて急増した。とくにの解剖学者は、「腹部に倫理を押し込める発想は医学ではなく政治である」として公開講演を行い、聴衆の半数以上が拍手したと記録されている[8]。
もっとも、擁護派はこれに対し、「否定できるのは器官ではなく概念だけである」と反論し、議論は平行線をたどった。1933年にはが『男性子宮存否白書』を刊行したが、本文の3分の1が症例集、残りの3分の1が詩歌、最後の3分の1が会長挨拶であったため、結論は事実上あいまいなままであった。
なお、にの調査班が全国17府県・2,418名の成人男性を対象に腹部触診を行った結果、「説明困難な違和感」を訴えた者は68名に上ったとされる。ただし、この数字は調査票の欄外に書かれていたため、後年の引用ではしばしば除外される。
後世の受容[編集]
戦後になると、男性子宮は医学というより文化史・教育史の文脈で扱われるようになった。の一部収蔵目録では「近代男子身体論の象徴的語彙」として整理され、研究者のあいだではむしろ資料価値が高い対象となった[9]。
には、フェミニズム批評の一部が男性子宮を「男性が初めて身体を社会的に読まれた瞬間の寓話」として再解釈し、のゼミでは卒論テーマとして流行した。ただし、資料の多くが壊れやすい石版印刷で残されていたため、引用のたびに腹部の図だけが妙に拡大されるという編集事故が頻発した。
近年では、の古書店街で「男性子宮図説」や「腹宮診断カード」が高値で取引されることがある。2021年には、あるコレクターが未開封の診断器具一式をで落札したと報じられ、翌週には中身が乳鉢と筆記用具だったことが判明したが、それでも落札者は「資料としては完全である」とコメントしたという。
脚注[編集]
関連項目[編集]
脚注
- ^ 渡辺精一郎『男子腹腔内感応器官試論』東京衛生新報社, 1898.
- ^ M. A. Thornton, “On the Civic Function of the Male Uterus,” Journal of Comparative Civic Anatomy, Vol. 4, No. 2, 1901, pp. 113-129.
- ^ 小橋田一郎『解剖と倫理の境界』京都医学会出版部, 1914.
- ^ 山路久平「男子子宮観察表の教育的運用」『学校衛生研究』第7巻第3号, 1902, pp. 41-58.
- ^ 佐伯みどり『腹部と近代男子』青嵐書房, 1938.
- ^ 日本男子内臓研究会編『男性子宮存否白書』日本男子内臓研究会, 1933.
- ^ Harold P. Linton, “Seasonal Contraction of Imaginary Organs in Urban Laborers,” The East Asian Medical Review, Vol. 12, No. 1, 1926, pp. 7-22.
- ^ 本田秋生「婚姻調停における腹部所見の証拠能力」『司法衛生雑誌』第15巻第4号, 1957, pp. 201-219.
- ^ 『神保町男子保健館資料目録 第一冊』神保町男子保健館, 1972.
- ^ Elizabeth C. Marlowe, The Interior Citizenship of Men, Oxford Civic Press, 1984.
- ^ 黒田一樹『男性子宮史の微細構造』東都出版, 1999.
- ^ 田島玲子「責任液の保存条件に関する一考察」『比較内分泌学年報』第21巻第2号, 2011, pp. 88-94.
外部リンク
- 日本想像解剖学会アーカイブ
- 神保町男子保健館デジタル目録
- 近代身体語彙コレクション
- 男子教育史資料室
- 腹宮研究フォーラム