白井一行
| 氏名 | 白井 一行 |
|---|---|
| ふりがな | しらい いっこう |
| 生年月日 | 1912年4月18日 |
| 出生地 | 日本・深川区相生町 |
| 没年月日 | 1983年11月7日 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 民間測量思想家、随筆家、技術顧問 |
| 活動期間 | 1931年 - 1981年 |
| 主な業績 | 一行法の確立、都心歩測帳の刊行、橋梁余白理論の提唱 |
| 受賞歴 | 都市歩測文化功労章、東京路地学会特別表彰 |
白井 一行(しらい いっこう、 - )は、の民間測量思想家、ならびに「一行法」と呼ばれる都市内歩測体系の創始者である。特にの路地と橋梁を結ぶ独自の観測記録で知られる[1]。
概要[編集]
白井一行は、前期から戦後にかけて活動したの民間測量思想家である。地図上の距離ではなく、歩行者が実際に感じる「曲がり角の数」と「橋の気配」を基準に都市を記述する方法を提唱し、のちに一行法と総称された[1]。
一行法は本来、内の下町で商店主や運送業者が使う実務的な目安として広まったが、白井自身の随筆と講演により半ば学術的な体系へと変質した。なお、彼が晩年にまとめた『都心歩測帳』第3版には、からまでの区間に「風向き補正係数」が導入されており、当時の編集者の間で要出典の扱いになっていたという。
白井の名が特に知られるようになったのは、に周辺で行われた公開歩測会で、参加者87名のうち84名が同じ路地の長さを「三十一歩半」と記録した事件である。これは後年、都市空間における主観測定の限界と可能性を象徴する出来事として語られている[2]。
生涯[編集]
生い立ち[編集]
白井は、深川区相生町の米問屋の次男として生まれる。幼少期より帳場で使われる木製の算盤よりも、店先から見える橋の欄干の数を数えることに熱中したとされる。近隣では、彼が雨の日に水たまりの反射を利用して「向こう岸までの見えない段差」を数えたという逸話が残るが、出典は不明である。
卒業後はに進学したが、授業中に窓外の街路樹の間隔を記録していたため、教員から「地理に寄り過ぎている」と注意されたという。のちに白井は、この時期に都市の距離感が人によって一定でないことを知ったと回想している。
青年期[編集]
、白井はの聴講生としてとを断続的に学び、同時にの製図器店「立花器械商会」で帳簿整理の手伝いを行った。ここで彼は測量器具の精度よりも、店員が口頭で示す「だいたいこの辺」という表現に注目し、後年の一行法の原型を得たとされる。
にはの喫茶店で、路面電車の停留所間隔を歩数で換算する私家ノート『一行試算』を作成した。ノートは全48頁であるが、うち17頁が「雨天時は靴底が伸びる」との注記で埋められており、白井の執念の最初の現れと見る研究者がいる。
活動期[編集]
、白井はの外郭団体に近い位置づけの「都市往来実測懇話会」に参加し、から本格的に講演活動を始めた。彼はからにかけての主要動線を対象に、勾配・舗装材・商店の香りまで含めた歩行所要時間を測定し、これを「都心歩測」と命名した。
、白井は『一行法入門』を刊行し、初版2,400部が3か月で完売したとされる。もっとも、この数字については後年、版元の倉庫台帳と一致しないことが指摘されている。ただし、同書がの雑誌編集者やタクシー運転手の間で密かに重宝されたことは広く知られており、白井の実務的な評判を決定づけた。
にはで開かれた「都市感覚計量研究会」で招待講演を行い、の「見かけの直進性」と「実際の疲労感」が一致しないことを示した。講演後、聴衆の一部が会場を出てから同じ通りを三度も往復したという記録があり、白井の議論が身体感覚に強く作用した例として引用される。
晩年と死去[編集]
に入ると、白井はの再開発に伴う路地消失を強く憂い、の民家に半ば隠棲するようになった。そこで彼は、消えゆく路地を「記憶上の通路」として再建する作業を続け、1日平均14本の路線メモを残したとされる。
、白井はに内の病院で死去した。享年71。死去の前夜まで、枕元に置いた方眼紙へ「橋の先にある風の曲がり」を書き込んでいたという証言があるが、看護記録にはその記述は見当たらない。葬儀はの寺院で営まれ、参列者の一人が香典袋に「一行」とだけ記したことが話題になった。
人物[編集]
白井は寡黙で、初対面では無愛想に見えることが多かったが、実際には相手の歩幅や靴音を注意深く観察する癖があった。弟子筋の回想によれば、彼は会話の途中でも相手が左足から出るか右足から出るかを気にしており、そのため議論の結論より先に「今日は右に傾いている」と評したことがある。
また、白井は地図よりも手書きの路線図を信頼し、紙の余白を極端に重視した。彼にとって余白とは未測定の都市であり、そこにこそ真の移動が潜んでいると考えていたという。これが後に「橋梁余白理論」と呼ばれるようになったが、当初は本人も名称を好まず、講演では単に「空き」と呼んでいた。
逸話として有名なのは、のでの会合で、白井が出された冷めた茶碗蒸しの温度を「路地の奥行きに比して妥当」と評した事件である。参加者の笑いを誘ったが、本人は最後まで本気であったとされる。
業績・作品[編集]
一行法と都心歩測帳[編集]
白井の最大の業績は、一行法の体系化である。これは、都市内の移動距離を「歩数」「角数」「橋数」「看板の回数」に分解して推定する方法で、の『一行法入門』で初めて一般化された。都市計画の専門家からは非科学的と見なされた一方、現場の配達員や新聞記者からは「妙に当たる」と評された。
代表作『都心歩測帳』は全5巻構成で、、、を中心に、細街路ごとの「迷い時間」まで記録した珍しい書物である。第4巻の巻末には、からまでの区間で「信号待ちが短い日は気象庁より先に気圧が下がる」と記されており、後世の研究者が最も引用に困る箇所として知られている。
なお、白井は自らの方法を「科学でも芸術でもない、生活のための実測」と位置づけていた。もっとも、晩年には自宅の廊下を一歩ごとに和紙で補強しており、生活と実験の境界はかなり曖昧であった。
講演・随筆[編集]
白井の随筆は、都市の機能を論じながら突然、豆腐屋のラッパ音や風鈴の間隔に話題が飛ぶことで有名である。代表的な随筆集『角を曲がるまで』はに刊行され、当時の読者からは「説明しきれないが納得させられる文章」と評された。
講演ではしばしば黒板の代わりに畳表を敷き、会場の通路を実際に歩かせて説明した。特にでの講演「橋は距離を縮めるか」は、90分の予定が3時間に延び、最終的に聴衆の17名が自分の帰宅経路を書き換えたと記録されている。
共同研究と受賞[編集]
にはの周辺にいた若手研究者と共同で「都市感覚指数」の試案をまとめた。これは交通量や地価ではなく、角地の匂い、商店街の言いよどみ、夕方の影の伸び方を数値化するもので、学会誌掲載は見送られたが、複写版が研究室内で広く読まれた。
、白井はを受章した。授賞式では、トロフィーの台座に「一歩目が最重要」と刻まれていたが、白井はその場で「むしろ二歩目以降である」と述べたという。この応答は彼の性格をよく示すものとしてしばしば引用される。
後世の評価[編集]
白井の評価は、実用的な都市観察者としての側面と、半ば詩人としての側面に分かれている。都市計画史の研究者は彼を「統計以前の感覚統計」として扱うことが多く、一方で文芸批評では「歩行を通じて都市を読む散文家」と解釈されることがある。
以降、の再開発とともに白井のノート類が再評価され、の資料館では『一行法入門』の複製本が年間約1,800人に閲覧されているとされる。なお、来館者の7割は表紙の題字を見て地図帳だと誤認するという。
もっとも、白井の理論はしばしば「後からいくらでも説明できる」ものとして批判される。とくに一部の研究者からは、彼の測定値が日付によって微妙に変動する点について、再現性の欠如が指摘されている。ただし支持者は、都市とはそもそも再現されないものだと反論しており、この応酬は現在も続いている。
系譜・家族[編集]
白井家は末期からで商いを続けた家系とされ、父・白井庄三郎は米穀商、母・白井とみは算用に長けた人物であった。兄の白井次郎は川舟の手配を生業とし、妹の白井文はのちに白井のノートの清書を手伝った。
白井はに出身の白井澄子と結婚し、1男2女をもうけたとされる。長男は建築関係に進み、父の影響を受けてか、設計図に必ず「歩幅メモ」を書き込む癖があったという。次女の証言では、白井は家庭内でも買い物袋の重さを「駅二つ分」と言い換えることがあり、家族はそれを半ば暗号のように理解していた。
なお、白井の遠縁にはの測量機器職人がいたとする家譜が残るが、家族会ではこの系譜について毎回議論が生じ、最終的に「おそらく居た」という結論で終わるのが慣例である。
脚注[編集]
[1] 白井一行の基本的な人物像と一行法の定義は、『都心歩測帳』初版序文および戦後講演録に基づくとされる。
[2] 1956年の日本橋公開歩測会については複数の回想記録が存在するが、参加者数と記録値に差異があり、詳細は一致していない。
[3] 白井の生年については1911年説も一部にあるが、戸籍抄本の写しとされる資料では1912年が通説である。
[4] 一部の業績年表は、白井自身が後年に書き換えた可能性があるため、研究上は慎重な扱いが必要である。
関連項目[編集]
脚注
- ^ 白井一行『一行法入門』都心歩測出版社, 1952年.
- ^ 白井一行『都心歩測帳 第一巻』東京路地書房, 1954年.
- ^ 白井一行『角を曲がるまで』中央感覚社, 1959年.
- ^ 佐伯宏一「戦後都市における主観測定の試み」『都市と歩行』Vol. 12, 第3号, 1966年, pp. 44-61.
- ^ 渡辺悦子「白井一行と橋梁余白理論」『日本地理思想史研究』第7巻第2号, 1974年, pp. 19-38.
- ^ M. Thornton, "Measuring the Unmeasured City: The Shirai School" Journal of Urban Folklore, Vol. 8, No. 1, 1978, pp. 102-119.
- ^ 白井澄子『白井家の帳面』相生叢書刊行会, 1986年.
- ^ 山岡徹『歩幅で読む東京』東京学芸出版, 1993年.
- ^ 金子玲子「公開歩測会の社会史」『東京民俗研究』第21号, 2001年, pp. 77-93.
- ^ H. Nakamura, "The Erratic Precision of Ikko Shirai" Review of Japanese Spatial Practices, Vol. 4, No. 2, 2011, pp. 5-28.
- ^ 白井一行記念資料室編『都心歩測帳 別冊注記集』路地記録社, 2018年.
- ^ 田中志保『地図にならない都市』港北出版, 2022年.
外部リンク
- 白井一行記念資料室
- 東京路地学会アーカイブ
- 都市歩測研究センター
- 一行法デジタル文庫
- 深川文化史ミニアーカイブ